第26話 GVMC
「――時間の歪み」
背後から、低く、硬質な声が鼓膜を叩いた。
振り返ると、先ほどベルを鳴らした男が、衣服の乱れを厳格な手つきで正しながらこちらを見下ろしていた。
その眼差しには、先ほどの神聖な光とは対照的な、冷徹なまでの真面目さが宿っている。
「君たちが迷い込んでいた空間は、我々が『実体化現象』と呼称するもの。それは、現実世界の物理法則も、時間の概念も適用されない。」
男は淡々と、まるで報告書を読み上げるように事実だけを告げた。
「それよりも」
男は一歩、歩を進めた。その鋭い視線が、琥狛と、傍らで身構えるギンの身体を正確に射抜く。
「通常、一般人があんな環境に滞在すれば、精神が崩壊するはずだが。……君たちは、なぜ正気を保っていられる?」
男の放つ冷徹な威圧感が、周囲の空気をピリピリと張り詰めさせる。
その冷徹な双眸が、ギンの姿を凝視する。
琥狛はただ警戒した目で男を見つめる。
琥狛の突き刺すような視線を受けながらも、男は眉ひとつ動かさなかった。
男は小さく息を吐くと、衣服の襟を正し、極めて実直なトーンで語りかけた。
「すまない。別に私は君たちを害する意思はない。……自己紹介が遅れたな。私は国際実体化現象対策組織『GVMC』の日本支部第3部隊隊長、神代だ」
神代。その毅然とした名乗りに、周囲の空間すら平伏するような錯覚を覚える。
琥狛は、ほんの少しだけ身体の強張りを緩めた。命を救われたのは紛れもない事実だからだ。
「GVMC……? 対策組織?って、じゃあ、あの場所は一体何なんだよ。何か知ってるんだな……教えてくれ!」
溢れ出た琥狛の問いに、神代は淡々と、しかし澱みなく答え始めた。
それは、琥狛がこれまで経験してきた正体を、初めて論理的に解き明かすものだった。
神代はこちらの理解を促すように言葉を継いだ。
「――実体化現象通称マテリアライズとは、人間が頭の中で想像したときに流れた脳の電気信号の一部、我々が『実体化因子』と呼ぶものが集まり、物理的な肉体と質量を得てしまう現象のことを指す」
神代はゆっくりと振り返り、琥狛を真っ直ぐに見据えた。
彼は視線を落とし低い声で付け加えた。
「我々の任務は脅威の予知、対処をし一般人の生活を守ることである。」
その時、神代の耳元に装着された超薄型の通信端末から、電子音が混じった冷静な声が響いた。
『――神代隊長、目標の第四段階からの減衰を確認。周辺の黒い実体化因子は現在、第一段階以下まで低下。一般市民への視認リスク、および有害性はゼロになりました。』
通信が切れると同時に、背後の闇から足音が近づいてくる。
現れたのは、数人のスーツ姿の人たちだった。彼らは一糸乱れぬ動きで神代の背後に並び、敬礼を捧げる。
神代は、隊員たちに向かって淡々と命じた。
「――車を用意しろ。この一人と一匹を、自宅まで安全に送っていくんだ」
神代は静かに歩み寄り、衣服の内側から一枚のシックな名刺を取り出した。
「今週の土曜日、この住所に来い。君たちが何者なのか、そこで聞かせてもらおう。そして、今日経験ことは口外しないように。もちろん、我々のことも」
じわりと指先に染み込んでくる夜の冷気を感じながら、琥狛は迫り来る土曜日への予感に、ただ強く唇を噛み締めていた。




