第25話 光の梯子
――チリン、と。
地獄の禍々しい大平原に響き渡ったその清らかな音色は、一瞬にして世界の空気を塗り替えた。
その直後、後ろから声が聞こえてきた。
「実体化現象内にて、救助者を発見!これより救護及び、対処を行う」
凛とした、それでいてどこか余裕を含んだ声が、静まり返った戦場に響き渡った。
「な、んだ……?」
琥狛が声を漏らした、その刹那だった。
閻魔の掲げたしゃくが、琥狛たちをめがけて迫り来る。
しかし、背後に現れた仕立ての良い衣服に身を包んだ男は、避けるどころか、手元の小さなベルをもう一度、チリンと鳴らした。
その瞬間、地獄のどす黒い空が、パキィンとガラスのように割れた。
どんよりと立ち込めていた血煙の雲の隙間から、濁った赤の世界を切り裂くように、幾筋もの圧倒的に神聖な光が地上へと差し込んできたのだ。
それはまるで、厚い雲の間から地上を照らす『天使の梯子』のようだった。
「――っ!?」
その光の柱は、迫り来る閻魔を正面から迎え撃つと、衝撃音すら立てずに、まるで雪を溶かすように一瞬で無に帰してしまった。
それだけではない。差し込む光は、倒れ伏していた琥狛とギンの身体をも優しく包み込む。
(……あたたかい……?)
光に触れた瞬間、琥狛は目を見開いた。嘘のように全身の激痛が引き、内側から凄まじい活力が漲ってきたのだ。
数日間の洞窟で歩いていた疲労で限界を迎えていたが、まるで嘘だったかのように急速に霧散していく。
傍らでは、傷一つない万全の体力を取り戻したギンが、勢いよく跳ね起きていた。
次の瞬間、世界そのものが形を失い始めた。
光の梯子はみるみるうちに太さを増し、地獄の空間そのものを容赦なく侵食していく。
頭上から降り注ぐまばゆい光に洗われ、果てしなく広がっていた真っ赤な大平原が、ドロドロとした血の池が、煙のように消え去っていくのだ。
激痛も、怒りも、破壊もない。ただ圧倒的な神聖さの前に、地獄という「存在」そのものが綺麗に消去されていくような、静謐な終わりだった。
最後は穏やかさすら湛えながら、閻魔の巨躯も、禍々しい異界の景色も、すべてが光の中へと完全に掻き消された。
まばゆい光が収まり、琥狛がそっと目を開ける。
「え……? ここ、は……」
そこには、自分たちが彷徨っていた数日間は何だったのかと思わせるほど、見慣れた現実の景色がそこには広がっていた。
「戻った、のか……? 元の世界に……。あの化け物も、空間ごと、一瞬で……」
数日間にわたって二人を苦しめた、あの終わりのない絶望の景色はどこにもない。
助かったという強烈な安堵に全身の力が抜けかけた、その時だった。
ふと、琥狛の視界の端、見覚えのある機械が転がっているのが映った。
「あ……これ、俺のスマホ……?」
琥狛は泥を払うようにスマホを拾い上げ、液晶画面に触れた。
ふっとバックライトが灯り、表示された日付と時刻が目に入る。
「……は? 嘘だろ……?」
画面が示しているのは――扉へ入る直前から、実質たったの数時間しか経っていない時刻だった。
体感では、数日は地獄のなかで過ごしたはずなのに、現実の時間はほんの少ししか進んでいない。
「どうなってんだよ……。俺たちは、あの中で確かに何日も過ごしたはずなのに……」
数日間の地獄の彷徨は、現実の、たったの数時間。
背筋を駆け上がる得体の知れない戦慄に、琥狛はただ息を呑むしかなかった。




