第22話 地獄の悪意
黒い縄へ走り出したが恐怖で足に力が入らず踏み外してしまった。
「あ、が……っ、ひ、あぁぁぁあ!!」
足場を失った琥狛の身体は、重力に引かれるまま底知れぬ暗黒へと真っ逆さまに落ちていった。
風を切り、凄まじい速度で落下する。激突の衝撃さえなく、ただ無限の闇に吸い込まれる恐怖の中で、再び意識がぷつりと途絶えた。
「――ッガハァァアアアッッ!!!!」
まただ。またあの、爆発するような呼吸と共に跳ね起きる。
視界に飛び込んできたのは、見飽きたはずの赤黒い霧。そして、じわじわと距離を詰めてくる数え切れないほどの鬼たちの眼光。
「に、逃げなきゃ...逃げ、なきゃ...................!」
体は五体満足。だが、脳が、魂が、確実に削り取られていく。
逃げるために縄に飛び込み、落ち、暗黒の中で絶命し、そしてまたこの崖の上に引き戻される。
二度、三度、五度、十度――。
何度繰り返したか、もう分からない。
滑り落ちる瞬間の心臓が跳ね上がる感覚、落下する恐怖、そして目覚めた瞬間の強烈な過呼吸。
それらが幾重にも重なり合い、琥狛の精神をじわじわと内側からすり潰していく。
「あ、うあ……あ、はは……」
ついに、琥狛の膝が完全に折れた。
地べたに両手をつき、だらりと頭を垂れる。
もう指一本動かす気力すら湧かない。
逃げても無駄だ。縄を渡っても落ちる。ここにいれば切り刻まれる。
どちらを選んでも、待っているのは「死」という狂気だけ。
完全に心が折れ、人形のように動かなくなった琥狛を見て、包囲する鬼たちが一斉に醜悪な口を歪めた。
『ケタケタケタ!』
『ハハハハハ! 諦めたぞ! 壊れたぞ!』
空間を震わせる容赦のない嘲笑。
それは琥狛の尊厳を徹底的に踏みにじる、地獄の悪意そのものだった。
しかし、今の琥狛にはその罵倒すら、遠くの水音のようにしか聞こえない。
ただ、深い絶望の沼の底へ、沈んでいくだけだった。
――その時だった。
「ガルゥゥゥッ!!」
鼓膜を破らんばかりの、獰猛な咆哮。
見ると、これまで琥狛を護ろうと必死に寄り添っていたギンが、見たこともないほど獰猛な、凶暴な眼光で琥狛を睨みつけていた。
琥狛が虚ろな目を向けた、次の瞬間。
ギンが猛然と地を蹴り、あろうことか動けない琥狛の胸元へと容赦なく飛びかかったのだ。
バキィッ!!!
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃。ギンの巨体に押し潰され、琥狛の身体が地面を激しく転がる。
それだけでは終わらない。ギンは倒れた琥狛の上に伸しかかると、その鋭い牙を剥き出しにし、琥狛の肩や腕へと容赦なく噛み付いた。
「痛っ……痛え! 止めろ、ギン! 何するんだよ!」
肉が裂け、骨が軋むような激痛が琥狛を襲う。
必死でギンを押し返そうとする。死の恐怖で完全に麻痺していた琥狛の脳に、ギンの容赦のない攻撃が叩き込まれていく。
「痛えよ……止めろって……ッ!」
涙目で叫びながら、琥狛は必死にギンの身体を突き放した。
荒い息を吐きながら、慌てて噛まれたはずの自分の肩や胸元に目をやる。
――傷は、ひとつもできていなかった。
服さえも破れていない。
「え……?」
琥狛は呆然と己の手のひらを見つめた。
あれほどの激痛。牙が肉に食い込む確かな感触。それなのに、血の一滴すら流れていない。
ハッとして顔を上げるとギンが、静かに琥狛を見つめていた。
その目は先ほどの凶暴さは消え失せ、いつもの深く、穏やかな、琥狛を案じる相棒の目に戻っている。
「ギン、お前……」
その瞬間、琥狛は気づいた。
頭を丸ごと支配していた、あのドロドロとした死の恐怖が、浄化されたように綺麗に消え去っていることに。
ギンの牙は、琥狛の肉体ではなく、彼の心を蝕んでいた「絶望の呪縛」を噛み千切ったのだ。
ギンの持つ力のおかげなのか胸の奥が、驚くほど軽い。
ガチガチと震えていた足が、嘘のように止まっている。
「……わりぃ。正気に戻ったわ」
琥狛はゆっくりと立ち上がり、泥を払うと、笑みを浮かべてギンの頭を乱暴に撫で回した。
ギンは嬉しそうに喉を鳴らし、その大きな尻尾を振る。
周囲を囲む鬼たちの嘲笑が、ピタリと止んだ。
絶望して壊れたはずの獲物が、再び力強い眼光を取り戻して立ち上がったのだ。
地獄の悪意を跳ね除け、少年と一頭の神獣が、再び奈落の縄へと視線を向ける。




