第21話 黒縄地獄
偽物の門に背を向け、ひたすら歩き続けた琥狛とギン。
地獄の空気はさらに重苦しくなり、たどり着いた場所は、底の知れない暗黒の深淵が口を開ける、巨大な崖の縁だった。
向こう岸は遥か彼方。
そこに架かっているのは、風もないのに不気味にうごめく、たった一本の、『黒い縄』だけだった。
「嘘だろ……これを渡れってか……?」
琥狛がそのあまりの頼りなさに足を止めた、その時だった。
ズシン、と背後の地響きと共に、赤黒い霧を割って異形の巨体が姿を現した。頭部に歪な角を生やし、燃えるような眼光を放つ、鬼だ。その手には、無数の亡者の血を吸って黒ずんだ巨大な鉄の斧が握られている。
「グルゥゥゥッ!!」
ギンが即座に琥狛の前に立ち塞がり、全身の毛を逆立てて獰猛な咆哮を上げた。ギンの威嚇が、圧倒的なプレッシャーを放つ。
鬼がニヤリと下卑た笑みを浮かべ、斧を振り上げた。
「ギン、やれっ!」
琥狛の鋭い声と同時に、ギンが弾丸のように地を蹴った。
鬼の振るう荒々しい一撃を回避すると、ギンの強靭な顎が、鬼の太い首筋へと正確に突き刺さる。
バリ、と肉の裂ける凄まじい音が響き、ギンはその圧倒的な質量で巨体の鬼を地面に叩き伏せた。
首の骨を噛み砕かれた鬼は、一度も反撃できぬまま、黒い霧となって霧散する。
「よし……! 」
琥狛は拳を握りしめた。一対一なら、地獄の化け物相手だろうと決して遅れは取らない。
――そう確信した、次の瞬間だった。
ゴッ、と視界が異常な速度でブレた。
「え――」
声にすらならなかった。突如として背後の空間から、霧を裂いて伸びてきたもう一振りの鉄斧。
それが琥狛の胴体を、背後から一文字に容赦なく両断したのだ。
熱さも、痛みすら感じる間はなかった。
ただ、自分の下半身が血飛沫を上げて崩れ落ちていく光景が、スローモーションのように脳裏に焼き付く。
呆気なく、そして理不尽に、琥狛の意識は唐突にぷつりと途絶えた。
「――ッハァ!!!!」
爆発するように、琥狛は激しく息を吸い込んで跳ね起きた。
全身を襲う凄まじい心臓の鼓動。慌てて自分の腹に手を当てる。
切断されたはずの身体は、傷跡ひとつなく完璧に繋がっていた。服も破れていない。
「生きて……る? 今、確実に真っ二つに……」
驚愕する琥狛の前に、地獄の本当の悪意が姿を現した。
ゴゴゴゴゴ……と、周囲の闇が激しく沸き立つ。
霧の向こうから、一つ、また一つと、怪しい眼光がまたたき始めた。
五体、十体、二十体――。
数え切れないほどの鬼たちが、地を埋め尽くすほどの物量で、闇の奥からうじゃうじゃと這い出てきたのだ。
地響きが足を震わせる。一頭のギンがどれだけ強かろうと、この数の暴力に囲まれれば、一瞬で肉塊に変えられるのは明白だった。
しかも奇妙なことに、鬼たちは琥狛たちをその場で包囲して殺そうとはしなかった。
彼らはじわじわと扇状に広がると、まるで獲物を追い込む猟犬のように、琥狛たちをあの『黒い縄』の方へと、意図的に追い詰めるように距離を縮めてくる。
その間に、「さっき死んだ」という確固たる記憶が、琥狛の脳髄をじくじくと侵食していく。
内臓が裏返るような不快感と、全身の細胞が「死」を拒絶して悲鳴を上げる感覚。
首筋にべっとりと張り付く冷や汗は、生きている証拠なのか、それとも死の残滓なのか。
『――渡れ。落ちるか、渡るか、諦めるか――』
耳鳴りのような鬼たちの嘲笑が、空間に響き渡る。
戦って勝つという選択肢は消えた。残された道は、目の前の絶望的な物量に貪り尽くされるか、それとも、底の見えない奈落に架かる一本の縄に命を預けるか、その二択だけ。
「嫌だ……嫌だ、死にたくない……っ!」
体を真っ二つにされた恐怖が琥狛を襲う。
完全にパニックに陥った琥狛の視界からは、もう隣にいるギンの姿すら消え失せていた。
ただ自分の「死」への恐怖だけで頭が破裂しそうになり、周りの状況を顧みる余裕なんて一ミリも残っていない。
今、自分の肉体がバラバラにされるのを防ぐこと、それだけで精一杯だった。
ただ、鬼たちの包囲網から一刻も早く遠ざかりたい一心で、腰が抜けたようになりながらも、目の前にある唯一の空白――あの細く呪われた黒い縄の上へと、這いずるようにして飛び出した。




