第19話 ??地獄
「うッ!?」
ひび割れた大地から吹き出す不気味な煙の臭いに、琥狛は思わず袖で鼻を覆った。
空は血のような赤、太陽の代わりに紫の怪しい光が降り注ぐ世界。
どこからか遠くでおぞましい絶叫のような地鳴りが聞こえてくるが、幸いなことに、琥狛たちのすぐ目の前に襲撃者たちの姿はなかった。
「グルル……」
ギンは喉を鳴らし、鋭い視線で周囲を警戒している。実体化したことで得た確かな質量は、琥狛にとってこの上ない安心感がある。
(……いや、落ち着け。パニックになったら負けだ)
琥狛は深く息を吐き、激しく脈打つ心臓を強引に落ち着かせた。
振り返ってもドアは消えてしまっているが、どこかに元の世界へ繋がる穴や、別の出口があるかもしれない。何より、今の自分には頼れる相棒、ギンがいる。
「ギン、さっさと出口を見つけて帰ろう」
琥狛が努めて明るい声でそう言うと、ギンはフンッと鼻を鳴らし、まるで「任せろ」とでも言うように力強く尾を振った。
「よし、あっちの建物の残骸みたいな方に行ってみるか」
武器を持っていないという不安は心の片隅にありつつも、ギンの存在が生む心の余裕から、琥狛はまだ事態を楽観視していた。
この先に待ち受ける本当の恐怖――徐々に精神を削られ、絶望的な包囲網に追い詰められていく「本物の地獄」が始まることなど、この時の琥狛はまだ知る由もなかった。
少し歩くと、赤黒い霧が立ち込める大地の彼方に、その門は唐突に姿を現した。
禍々しい地獄の風景にあって、その門の奥からは、ほんのわずかに現実世界の夕暮れ時のような、温かみのある光が漏れ出しているように見えた。
「ギン、見ろ! あそこに出口っぽいのがあるぞ!」
消えかけていた希望が、琥狛の身体に一瞬で火を灯す。出口が見えている。その事実が、琥狛の警戒心を完全に緩ませた。
「よし、一気に駆け抜けるぞ!」
琥狛とギンは、門を目指して力強く歩行のピッチを上げた。
だが、地獄の悪意は、そんな二人の希望を嘲笑うかのように張り巡らされていた。
「おかしい……なんでだよ……」
10分歩いた。20分歩いた。とっくに着いていておかしくない距離のはずだった。
なのに、遠くに見える門の大きさは、最初に見つけた時からミリ単位すら変わっていない。
まるで、自分たちが歩く速度に合わせて、空間そのものが後ろへと引き延ばされているかのようだった。
焦った琥狛は走ってみた。しかし結果は同じだった。距離は一切、縮まらない。
そこから、本当の地獄が始まった。
1時間、3時間、5時間……。
紫色の不気味な光が絶え間なく降り注ぐ世界では、夜が訪れることすらない。
10時間、20時間、30時間――。
気づけば、丸一日を遥かに超える、何十時間もの文字通りの果てしない歩行を強いられていた。
急いで着替えてきたはずの私服は汗と煤にまみれ、じわじわと体力を奪うこの世界の重苦しい空気のせいで、琥狛の足の感覚はとうに麻痺していた。一歩踏み出すたびに、足の裏に焼けるような激痛が走る。
「はっ、ぐ、ぅ……」
喉はカラカラに乾き、息を吸うたびに異臭のする煙が肺を焼き、意識が朦朧とする。
隣を歩くギンもまた、消耗していた。あれほど立派だった白い毛並みは地獄の塵で黒ずみ、荒い息を吐いて一歩一歩を進めている。
(……歩いても、・・・・・・近づかない。)
頼れる相棒が隣にいてくれたとしても、この「距離と時間を奪われる絶望」。心の余裕は完全に消え失せ、残されたのは、乾ききった身体と、底の抜けたような精神的疲労。
目の前に見えているはずの『出口の門』は、今や二人を弄ぶためだけの、残酷な標識と化していた。




