第18話 地獄への入口
「ただいま……っ!!」
カバンを床に放り出すのももどかしく、琥狛は息を切らせてリビングのドアを乱暴に開けた。
頭の中にあるのは、留守番させているギンのことと、ノートに書き連ねた不穏な仮説の数々。焦燥感で心臓が破裂しそうだった。
だが、目に飛び込んできたのは、拍子抜けするほど平和な、リビングの光景だった。
「あら、おかえり琥狛。ずいぶん息が上がってるじゃない、何かあったの?」
ソファーの前にどっしりと寝そべっていたギンは琥狛の気配に「ワフンッ!」と地響きのような声を上げて跳ね起きた。
実体化したことでその存在感は凄まじく、ゴールデンレトリバー並みの巨体を軽やかに、琥狛の元へと駆け寄ってくる。そして嬉しそうに、琥狛の胸元へ大きな頭をグイグイと擦り付けてきた。
その勢いに押されてへたり込みながらも、琥狛はその大きな身体をぎゅっと抱きしめた。腕いっぱいに広がる確かな柔らかさ。
朝、家を出るときに感じたあの凍りつくような心細さが、ギンの圧倒的な存在感によってみるみる溶けていくようだった。
「その子、本当に手がかからなくてお利口さんね。日中もずっと大人しく私の後ろをトコトコついて回ってたわよ。体が大きいからちょっとびっくりするけど、まるであなたの帰りをずっと待ってるみたいにね」
お母さんが目を細めて笑う。
その言葉を聞いて、琥狛は胸をなでおろすと同時に、ギンの大きな頭を両手でわしゃわしゃと何度も激しく撫で回した。ギンは気持ちよさそうに目を細め、大きな喉を鳴らしている。
「ギン、散歩に行くぞ」
俺は急いで着替えを済ませる。
玄関を出て、大型犬サイズのギンと並んで歩き始める。実体化したギンは、堂々とした足取りで琥狛の斜め前を歩く。
すれ違う通行人が「なんて立派で綺麗な白い犬かしら」と驚きと感心の視線を送ってくるのが新鮮で、同時に、ギンが本当にこの世界に存在しているのだという実感が、琥狛の胸をこれ以上ないほどに満たしていった。
(やっぱり、隣にこいつがいるだけで全然違うな……。これだけ大きけりゃ、何が来ても負ける気がしねえ)
今朝は未知の危険地帯に見えた街の風景が、今は嘘のように色褪せて見える。その大きな身体が周囲の安全を完全に保障してくれているような気がして、琥狛の張り詰めていた神経は、知らず知らずのうちに心地よく緩んでいった。
いつもならすぐに引き返す角を、今日は気まぐれに直進してみる。ギンがいる安心感からか、少しだけ足を延ばしてみたい気分だった。
夕暮れ時の見慣れない住宅街。細い路地が複雑に入り組むそのエリアへと、琥狛は足を踏み入れた。
だが、その油断こそが、このあとに待ち受ける地獄への入り口だった。
突如、ギンの足がピタリと止まった。
同時に、琥狛の視界の端を、何かが凄まじい速度で横切った。
(今のは……黒いモヤ!?)
生き物のように意志を持ち、まるで何かから逃げるか、あるいは何かを誘うかのように、ものすごい速さで路地の奥へと滑り込んでいく。
「ギン、追うぞ!」
朝の恐怖はどこへやら、大型犬並みの頼れる相棒が隣にいる万能感に背中を押された琥狛は、反射的にその影を追いかけて走り出してしまった。
解き放たれたようなスピードで進むモヤを追いかけ、行き止まりの薄暗いブロック塀の前まで辿り着いたとき、その影は唐突に消えた。
「消えた……? いや、何だこれ」
肩で息を荒くしながら、琥狛はその場所に近づき、目を疑った。
古びた民家の境界であるはずの灰色のブロック塀に、扉が不自然に嵌め込まれていたのだ。
周囲の空間から浮き上がっているかのような、ひどく禍々しい黒塗りの木製扉。
先ほどのモヤは、この隙間に吸い込まれていったに違いなかった。
引き返すべきだという理性のブレーキよりも、この異変の正体を突き止めたいという衝動が勝ってしまった。
琥狛は恐る恐る手を伸ばし、冷え切ったドアノブを回した。
ギィィ……と嫌な音を立てて扉が開く。中はただの暗闇のように見えた。
一歩、その境界を跨ぎ、中に足を踏み入れたその瞬間――。
――バタンッ!!!
背後で、凄まじい衝撃音とともに扉が跳ね閉まった。
驚いて振り返えると、そこにドアはなかった。地平線まで続く風景に出口は見当たらない。
閉じ込められたのだ。
「しまっ――」
冷たい戦慄が背筋を駆け抜けた。慌てて前を向いた琥狛は、その場に文字通り凍りついた。
扉の中に広がっていたのは、文字通りの『地獄』そのものの風景だった。
空はどす黒い血のような赤色に染まり、太陽の代わりに不気味な紫色の光が世界を照らしている。地面はひび割れ、そこかしこから異臭を放つ黒い煙が吹き上がっていた。建物の残骸のようなものが不自然な角度で地面に突き刺さり、遠くからは、人間のものとも獣のものともつかない、おぞましい絶叫が地響きのように木霊している。
武器も、心の準備もないまま、琥狛とギンは本物の地獄の底へと引きずり込まれてしまったのだ。




