第17話 怪異調査記録『ギン』
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。
いつもと変わらない騒がしい朝の風景が、今の琥狛にとってはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
教室に入り、自分の席にカバンを下ろす。周囲ではクラスメイトたちが週末のテレビやゲームの話題で盛り上がっていたが、その輪に入る気力は到底湧いてこなかった。
(……ダメだ、落ち着かない)
このままでは不安に押し潰される。
そう察した琥狛は、カバンから怪異調査記録を取り出し、机の上に広げた。シャープペンシルを握り、周囲から見れば熱心に予習でもしているかのような姿勢で、内なる動揺を吐き出すように文字を書き殴り始めた。
【ギンの変化と現状の整理】
実体化の発生
例の黒いモヤを喰らったことで、ギンが明確な実体を持った。
これまでは自分にしか見えず、触れられなかったが、今はお母さんにも普通に見えているし、触れる。
今後の疑問
モヤを吸収し続けたら、ギンはさらに別の姿へ変化(進化?)していくのか?
あの実体化は一時的なものなのか、それとも永続的なのか。
カリカリと音を立ててノートを埋めていくうちに、激しく波立っていた琥狛の心臓の鼓動が、心なしか少しずつ規則正しいリズムを取り戻していく。
頭の中の混沌を文字として書き出す作業は、思った以上に効果があった。
(あっ!忘れてた。)
続けて、琥狛は記憶をさらに掘り起こし、もう一つの重大な懸念についてペンを走らせた。
【あの天狗について】
奴は人間の体を求めていた。
奴の攻撃は俺にも当たった。
―ノートの余白に、思いつく限り書いていく。―
【仮説】
黒いモヤもたくさん集まれば触れるように(実体化)なる?
黒いモヤは実体化することが目的?
武器も相棒もない現状の恐ろしさは変わらないが、こうして文字にすることで、少なくともパニックに陥るのだけは防げそうだ。
「……よし」
小さく息を吐き、シャープペンシルを置く。
それからの時間は、驚くほど静かに過ぎていった。
授業が始まっても琥狛の意識は半分以上、机の上の怪異調査記録に注がれていた。新しく浮かんだ仮説を書き足しては消し、これまでの奇妙な出来事のタイムラインを整理する。
窓の外の電柱の陰や、校舎の隙間に黒いモヤが潜んでいないか時折鋭い視線を走らせながらも、琥狛はひたすらペンを動かし、思考の迷宮に没頭した。
ギンがいない寂しさと心細さを、文字を埋めることで必死に紛らわせる。
激しい警戒と考察を繰り返すうちに、精神的なエネルギーがガリガリと削られていく。謎が頭の中でぐるぐると渦巻き、時間の感覚は完全に麻痺していった。
――キーンコーンカーンコーン。
不意に、高らかなチャイルの音が教室に響き渡った。
ハッと我に返って顔を上げると、いつの間にか窓の外の光はオレンジ色に染まり始めており、担任の「気をつけて帰れよ」という大雑把な声が響いていた。
「え……?」
時計を見ると、すでに放課後。
あんなに身構えていた月曜日の授業は、ノートに没頭している間に、文字通り何事もなくすべて終わっていた。
拍子抜けするほどの平穏に一瞬呆然としたものの、琥狛の胸にはすぐに別の感情が湧き上がってきた。
一刻も早く帰らなければ。
怪異調査記録を素早くカバンの奥へと仕舞い込み、琥狛は席を立った。クラスメイトたちの賑やかな声を背中で聞きながら、早足で教室を後にした。




