第12話 怪異調査記録『天狗』
「ガ、ハッ……!?」
ギンの鋭利な爪が、化け物の強固な肉体を深く貫いていた。
手応えは確かだ。
しかし、そこから流れ出たのは赤い血ではない。傷口から溢れ出してきたのは、黒いモヤだった。
それは生命力そのものが霧散していくかのように、激しく空間に溶け出していく。
「ワシは……天狗じゃぞ……。……至高の存在。こんなところ、でやられるはずでは……」
化け物(天狗)は己の胸を虚ろに見つめ、信じられないといった様子で血を吐くように呟いた。
圧倒的だった風の障壁は完全に消え去り、背中の黒翼も力なく化け物は落ちていく。
床に落ちた化け物(天狗)からは、もうこちらへ襲ってくるような気配は微塵も感じられなかった。
ギンが警戒を解かずに低く唸り声を上げる中、俺は一歩、男の方へと足を踏み出した。
この異質な力、そして目の前の存在の異常さ。ずっと胸の奥に燻っていた疑問を、今こそ突きつける時だった。
「お前たちは一体何者なんだ?」
息も絶え絶えの化け物(天狗)へ、俺は静かに、しかし拒絶を許さないトーンで質問を投げかけた。
化物(天狗)はゆっくりと顔を上げ、焦点の定まらない瞳で俺を睨みつける。その口元が、自嘲気味に歪んだ。
「ワシら……はお前たちから、生まれた存在……」
そう言い残した直後だった。化け物(天狗)の身体に、奇妙な異変が起きる。
激昂し、異形へと変貌していた赤黒い肌から、急速に禍々しい色が抜けていく。
まるで憑き物が落ちるかのように、肌の赤みはみるみると引いていき、人間のへと戻っていく。
変異はそれだけに留まらない。
ギンがその肉体を深く貫き、致命傷となるはずだった胸の大きな風穴。
黒いモヤを噴き出していたそのおぞましい傷口が、ほんの数秒の前まで、そこに致命的な穴が空いていたことなど信じられないほどに、男の身体は何事もなかったかのように綺麗に元通りになっていた。
変異が終わったあと、そこに横たわっていたのは、先ほどまで俺たちを死線に追い詰めた化け物(天狗)の面影など微塵もない、スーツ姿の若い男だった。
男は完全に気を失っているらしく、ピクリとも動かない。浅い呼吸を繰り返すだけで、当面は目を覚ます気配もなさそうだった。
俺は肩の力を抜き、大きく息を吐き出した。張り詰めていた緊張が一気に解け、全身に凄まじい疲労感が押し寄せてくる。
「とりあえず……一件落着か?」
隣に歩み寄ってきたギンの頭を軽く撫でながら、ぽつりと呟く。その時だった。
ウゥゥゥゥーーーーン……。
静まり返った廃ビルの外から、遠く、けたたましいサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。それも一つや二つではない。何台ものパトカーが、この場所を目指して急行してきている。
天井が爆ぜ飛び、派手に砂嵐を巻き起こしたのだ。
通報されるのは時間の問題だと思ってはいたが、あまりにも早すぎる。
周囲を見渡せば、破壊し尽くされた凄惨な廃ビル。
その中心に倒れる、身元の分からぬスーツ姿の男。そして、鉄パイプを握りしめた俺。
「やべ、この現状俺が悪くなりそうじゃん」
客観的に見て、どう言い訳しても俺がこの男をボコボコにしてビルを破壊した主犯にしか見えない。
まさか警察に「この男が天狗になって風を操り、それを俺とギンで撃退しました」なんてファンタジーな真実を話したところで、精神鑑定を勧められるのがオチだ。
俺は焦りながら、すぐさま次の行動を考え始めた。
「よし、逃げるか。」
スーツ姿の男には申し訳ないがここに留まって警察に職務質問を受けるリスクを考えれば、選択肢は一択だった。
倒れている男をもう一度だけ見下ろす。
傷は完全に塞がっているし、命に別状はないはずだ。
何より、下手に俺が一緒にいるところを見られる方が、この男にとっても説明が難しくなるに違いない。
俺は握りしめていた鉄パイプをその場に投げ捨てると、警察の手が及んでいないであろう、建物の裏口や崩れた非常階段の闇へと向かって一気に駆け出した。




