EP 9
禁忌のトリガー――子供の泣き声
キィィィィン――ッ!
ポポロ村北端の農家で炸裂した魔導閃光弾が、目も眩むような白光と耳を劈く高周波を周囲へ撒き散らした。
「くっ……しまっ……!」
咄嗟に前足を折って身を屈め、パイルバンカー内蔵盾『アグニ』で爆圧を受け止めたマンミアだったが、至近距離での閃光に網膜を焼かれ、視界が一瞬にして白濁の靄に呑み込まれた。
さらに、包囲していたゴロツキどもが一斉に投石器とボウガンを斉射する。
「ちくしょうが! マンミアさん、下がれッ!」
フェイトが大振りのミスリルソードを風車のように回転させ、飛来する無数の矢と小石を甲高い金属音と共に叩き落とす。
だが、その一瞬の隙――守備陣形に生じたわずかな綻びを、歴戦の悪党である『ブラッド・ハウンド団』の頭目が見逃すはずもなかった。
「ガキを捕まえろ! 手足を折ってでも引っ立てろォッ!!」
頭目の怒号に応じ、屈強なゴロツキ二人が煙幕の隙間から土足で飛び込んだ。
老農夫の痩せた身体を容赦なく蹴り飛ばし、背後に蹲っていた幼い少女の細い手首を、鉄の手甲で乱暴に掴み上げる!
「ぎゃっはぁ! 手に入れたぜ頭目! 可愛い面しやがって、帝都の闇市なら金貨五枚は固ぇ!」
「や、やめろ……ッ! その子を……ミィを放してくれぇぇッ!」
老農夫が血を吐きながら泥を這い、男の脛にしがみつこうとするが、ゴロツキは無慈悲にも硬質な長靴で老人の顔面を蹴り据えた。鈍い打撲音と共に、老農夫が白目を剥いて土間へ昏倒する。
「おじいちゃんッ!! おじいちゃん起きてぇぇッ!!」
宙吊りにされた少女が必死に暴れ、男の腕に噛みついた。
「痛ぇなこのクソガキがッ! 調子に乗んなッ!!」
苛立ったゴロツキは、幼い子供の肉体であることなど微塵も意に介さず、腕を振り抜いて少女を農家の外壁へと力任せに投げ飛ばした!
ドガァッ!!
土壁に背中を激突させ、地面の泥水の中へ無残に叩きつけられる小さな身体。
すりむいた膝や肘から滲み出る生々しい血。泥まみれになった麻のワンピース。
恐怖と激痛、そして大好きだった祖父が無残に倒された絶望が、まだ四歳の少女の小さな胸を容赦なく張り裂いた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ!!」
空を裂くような、痛切な絶叫。
「いたいよぉぉッ! おじいちゃん! だれか……だれか助けてぇぇぇぇッ!! うわぁぁぁぁぁんッッ!!」
涙と泥でぐしゃぐしゃになった少女の泣き声が、麦畑を越え、防壁を越え、のどかなポポロ村の青空の下へ、どこまでも、どこまでも高く木霊していった――。
その悲鳴は、一本の鋭利な氷の針となって、遠く離れた路地裏の静寂を貫いた。
小料理屋『鬼龍』。
昼の喧騒が始まる前の、凛とした空気が満ちる板場。
流れていたチェロの調べが、不意に途切れたかのような錯覚。
トシュッ……トシュッ……。
仕上げ砥石の上で、完全本焼きの柳刃包丁をリズミカルに滑らせていた男の腕が、ピタリと止まった。
鬼神龍魔呂。
百九十センチの筋骨隆々たる巨躯が、まるで石像のように微動だにせず硬直している。
「……たつまろ?」
カウンターの端で、ブルー・ホープの紫煙を燻らせていた坂上真一が、怪訝そうに眉を寄せた。
先ほどまで「不穏な風」を冷静に察知し、極めて精密に刃を研ぎ澄ませていた龍魔呂から、突如として一切の「生体反応」が掻き消えたのだ。
呼吸が止まっている。心拍の気配すら希薄になっている。
だが、その肉体の内側――深淵の底で。
ドロリとした、煮えたぎるマグマのような何かが、恐るべき速度で逆流を始めていた。
『――うわぁぁぁぁぁぁんッッ!! いたいよぉぉッ!! おじいちゃん……ッ!』
常人には届くはずのない、数キロメートル先からの幼い子供の泣き声。
その音波が龍魔呂の鼓膜を震わせた瞬間、男の脳内を満たしていた現代の風景が、音を立ててガラスのように粉々に砕け散った。
視界が、血のような赤色に染まる。
――カラン、コロン……。
脳裏に響くのは、陰惨極まる地下牢の鉄格子の軋む音。
鼻腔を突くのは、腐敗した藁と汚物、そして血の混ざり合った饐えた悪臭。
十五歳のあの日。
地下奴隷闘技場「デス・コロシアム」。
弟・ユウの命を人質に取られ、五年間、無敗の怪物として血反吐を吐きながら戦い続けた日々の果て。
病に倒れ、熱に浮かされながら、小さな手を伸ばしてきたユウの姿。
『あにき……いたいよ……くるしいよ……』
飼い主の悪徳貴族ゴルディが、冷酷に嘲笑いながら仕組んだ八百長試合。
対戦相手としてリングに立たされたのは、恐怖で失禁し、ガタガタと両手で剣を握る名も知らぬ十歳の少年兵だった。
『俺は……子供は殺さねぇ』
剣を捨てた龍魔呂の胸板へ、少年兵の震える刃が深々と突き立てられた。
血飛沫を上げ、崩れ落ちたリングの上。
意識が遠のく中で聞こえていたのは、遠い地下牢の奥から微かに響いていた、ユウの最期の泣き声だった。
そして――目が覚めた時、そこはゴミ捨て場だった。
雨の降りしきる泥濘の中、死体として無造作に投げ捨てられた自分のすぐ真横に、ドサリと落とされた小さな物体。
骨と皮ばかりに痩せ細り、泥まみれになって、冷たくなり果てた弟――ユウの遺体。
『母さん……ユウ……。結局、俺は一人も守れなかったのか……?』
『何一つ……何一つ、どうにもならなかったのか……ッ!?』
ブツンッ――!!
龍魔呂の魂の奥底で、二十五年間必死に繋ぎ止めていた、人間としての理性の鎖が、音を立てて完全に破断した。
ピシリ……。
砥石の上に置かれていた尺一寸の本焼き柳刃包丁に、突如として亀裂が走った。
名匠が鍛え上げた至高の鋼が、龍魔呂の指先から無意識に漏れ出た異常な「質量」に耐えかねて、粉々に砕け散る。
「……たつまろ!?」
坂上が咄嗟に立ち上がった。
元暴走族総長として、そして数千の将兵を率いる艦隊司令官として、坂上は生涯で数多の「修羅」を見てきた。
だが――目の前の青年から放たれ始めた気配は、人間が発していいそれの限界を遥かに超越していた。
龍魔呂が、ゆっくりと顔を上げた。
「――ッ!!」
坂上の喉が、息を呑んで凍りついた。
その双眸から、一切の「光」が消え失せていた。
ハイライトのない、底なしの漆黒。
哀しみも、怒りも、憎悪すらも通り越し、ただ「この世のすべてを肉片と灰塵に変える」ためだけに特化した、深淵の絶対零度。
服の上からでもわかるほど、全身の筋肉が鋼の密度へと異常膨張し、皮膚の毛細血管が赤黒く浮き上がっている。
座布団の上で丸くなって眠っていたリーザが、「ひぅっ……!?」と悲鳴を上げて飛び起きた。
部屋の隅の観葉植物が、龍魔呂から放たれる目に見えぬ殺気の冷圧を浴びて、一瞬にして茶色く立ち枯れていく。
「……たつまろ、待て! 何があったんなら!」
坂上がドスの利いた声を張り上げ、カウンター越しに手を伸ばそうとした。
だが、その声すら、今の龍魔呂の耳には届いていなかった。
龍魔呂は無言のまま、カウンターの下に置いてあった黒の特注レザージャケットを乱暴に引っ掴み、肩を通した。
そして、ポケットから取り出したのは――赤箱のハード煙草『クリムゾン・レッド』と、使い込まれた無骨な真鍮製ライター。
一本の煙草を唇に咥え、親指でライターのヤスリを弾く。
――カチッ。
硬質な、研ぎ澄まされた金属音。
その音が店内に響き渡った瞬間、龍魔呂の足元の床板が、凄まじい衝撃波によって放射状にバキバキとひび割れた!
「たつまろッ!!」
坂上の怒号が空を切る。
次の瞬間、龍魔呂の姿は、カウンターの奥から完全に「消失」していた。
ドォォォォォンッッッッ!!!!
店の勝手口の頑丈な鉄扉が、まるで大型ミサイルの直撃を受けたかのように蝶番ごと吹き飛び、外の路地裏へと叩きつけられた!
巻き起こる突風と粉塵。
「きゃああああっ!? な、なんですのぉぉーッ!? 爆弾!? 竜魔呂様が消えましたわぁぁーッ!!」
頭を抱えて怯えるリーザ。
だが、坂上真一の眼光は、すでに吹き飛んだ扉の向こう――北の空へと一直線に向けられていた。
(子供の泣き声……! そうか、北の農道じゃな……ッ!)
坂上の研ぎ澄まされた耳もまた、かすかに風に乗ってきた悲鳴を捉えていた。
そして、先ほど龍魔呂が見せた、壊れた機械のような絶望の眼差し。
(あいつ、弟のことで何か致命的なトラウマを抱えとる! 子供を泣かされたことで、己の中の『怪物』のタガを外しおったんじゃ……ッ!)
坂上は迷うことなく、壁に立てかけてあった白樫の木刀をひっ掴み、腰の帯へと力強く差し込んだ。
ブロンズ製の機械式腕時計の竜頭を押し込み、将官用作業服の襟を正す。
「リーザ! オドレはここで動くな! 戸締まりをして、誰が来ても開けるんじゃないぞ!」
「は、はいですのぉぉッ! お父様、気をつけてぇぇッ!!」
坂上は返事を聞くや否や、北辰一刀流の歩法で地を蹴った。
五十歳とは思えぬ爆発的な脚力。
砂埃を巻き上げ、元艦隊総司令官の巨躯が、暴走する狂犬を追って路地裏を電光石火の勢いで疾走していった。
北の農家。
戦況は、もはや絶望的な段階へと突入していた。
「ぐっ……フェイト、そっちを頼む……!」
「くそっ、コイントスで『裏』が出たツケが今になって回ってきたかよ……ッ!」
マンミアの四肢は、投石とボウガンの矢を無数に浴びて血に塗れ、パイルバンカー『アグニ』の魔導装甲もひび割れていた。
フェイトもまた、三人の屈強なゴロツキの包囲を受け、ミスリルソードを振るいながら肩で激しい息を乱している。
村の警戒網の穴を突いた二十人以上の武装集団に対し、二人だけで子供と老人を庇いながら戦うには、あまりに限界を超えていた。
「ケッ! 自警団の看板が泣いてるぜ、ケンタウロスの姉ちゃんよォ!」
醜悪な禿頭の頭目が、泥水に倒れ伏す少女の元へと悠然と歩み寄る。
その右手には、赤黒い錆の浮いた凶悪な鉈が握られていた。
「うわぁぁぁん……おじいちゃん……いたいよぉ……ッ!」
少女は泥にまみれ、恐怖で痙攣しながら、ただただ泣き叫び続ける。
「うるせぇんだよ、クソガキが! ピーピー喚いて耳障りなんだよ!」
頭目が苛立ちを剥き出しにし、鉈を高く振り上げた。
「声帯を切り裂いて、二度と鳴けねぇようにしてやるッ!!」
「やめろォォォォーーッッ!!」
マンミアが血反吐を吐きながら叫び、前足で地を蹴ろうとしたが、至近距離から放たれたボウガンの矢が馬身の肩口に突き刺さり、悲鳴と共に膝を折った!
振り下ろされる鉈の刃。
死の影が、幼い少女の額を覆い尽くそうとした――。
まさに、その一瞬前。
世界から、すべての「音」が消失した。
「……あ?」
頭目が、間の抜けた声を漏らした。
風の音も、木の葉の擦れ合う音も、部下たちの下卑た笑い声も、すべてが凍りついたように止まっていた。
大気圧が、突如として深海の底のように跳ね上がる。
農家の周囲の気温が、一瞬にして氷点下まで叩き落とされ、麦畑の穂先が白い霜を纏ってカチカチと凍結していく。
そして――。
頭目のすぐ真後ろ、死角の空間から。
――シュポッ。
真鍮ライターの蓋が閉じ、小さなオレンジ色の火が、男の咥えた煙草の先端へ灯る音が響いた。
ヒタ……。
静かに踏みしめられた、革靴の足音。
「……ひっ!?」
頭目の全身の毛穴から、噴水のように冷や汗が噴き出した。
生物としての本能が、大脳を焼き切らんばかりの警報を乱打している。
振り向いてはならない。
息をしてはならない。
そこに立っているのは、人間ではない。
だが、金縛りに遭った首が、勝手にギチギチと軋みながら背後を振り返ってしまった。
そこに立っていたのは――。
黒と深紅のレザージャケットを羽織り、唇に赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を咥えた、百九十センチの巨躯。
その双眸は、光を吸い込んで底が見えない、絶対零度の虚無。
全身から立ち上っているのは、大気を歪め、空間をドス黒く焼き焦がす――赤黒い殺戮の闘気。
かつて地下奴隷闘技場で、百人の武装兵を素手でミンチに変え、伝説の処刑人と恐れられた男。
死を呼ぶ四番――【DEATH4】。
「……て、てめぇ……な、なんだ……!?」
頭目が恐怖のあまり失禁しながら、ガタガタと震える手で鉈を向けた。
龍魔呂は、煙草の煙をふわりと吐き出した。
その瞳は頭目を見ていない。
ただ、足元で泥にまみれて泣きじゃくる少女の姿だけを、深淵の底から見つめていた。
そして、喉の奥から紡ぎ出されたのは――人間のものではない、地獄の蓋が軋むような低音だった。
「……ガキを、泣かせたな」
理性のタガが、完全に消滅した。
読んでいただきありがとうございます。
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