EP 8
緩衝地帯に忍び寄るゴロツキの影
大鍋いっぱいに煮込まれていた月見大根の煮込みおでんが、底の出汁の一滴に至るまで綺麗に平らげられた後――。
小料理屋『鬼龍』の店内には、満腹の幸福感と心地よい静けさが漂っていた。
「ふ、ふぃ〜〜……満腹ですのぉ……。胃袋が温かいって、こんなに幸せなことなんですのね……」
小豆色の芋ジャージを着たリーザは、床に敷かれた小さな座布団の上で猫のように丸くなり、ふくふくとした腹をさすりながらすっかり夢の世界へと旅立っていた。その寝顔には、先ほどまでの飢えた獣のような凄気は微塵もない。
「まったく、食べた途端にこれかい。……ごちそうさま、真一さん、龍魔呂さん。本当に信じられないくらい美味しかったよ。身体の芯から力が湧いてくるみたいだ」
キャルルは満足そうに息を吐くと、キュッとポニーテールを結び直し、鉄板入りの重安全靴を履き直した。
「私は村役場へ戻るよ。……実はね、前村長が村の積立金をごっそり持ち逃げしたせいで、財政も防衛設備の改修費も火の車なんだ。三大国の緩衝地帯なんていう都合のいい名前のせいで、ルナミス帝国もレオンハート王国もアバロン魔皇国も、治安維持の義務からは綺麗に逃げ腰だからね。私たちが自分たちの手で村を守らなきゃならないんだ」
「村長さん、無理のしすぎはいけんぞ。……『失敗の本質』にもあるがの、組織のトップが過労で判断を誤るんは、補給線を断たれるより恐ろしい惨事を招くけえな」
坂上真一が煙草の煙を燻らせながら穏やかに声をかけると、キャルルは「肝に銘じておくよ」と微笑み、店を出ていった。
イグニスもまた、「大親父、ごちそうさまでした! 俺様、東の開墾作業で岩山を十個くらい粉砕してきますっす!」と元気に鼻息を荒くして駆け出していった。
嵐のような朝食が終わり、店内には再び、静謐なチェロの調べが戻っていた。
カウンターの奥では、龍魔呂が手際よく空になった大鍋と器を洗い終え、清潔なリネンで板場を拭き清めていた。その一連の動作には、先ほど坂上の料理を食べたことによる動揺はもはや表には出ていない。
だが、その無骨な指先が、いつになく丁寧に、まるで何かの儀式のように和包丁の手入れを行っているのを、坂上は見逃さなかった。
「……たつまろ。オドレ、美味い飯を食った後は、少しは肩の力が抜けるもんじゃが……えらく研ぎ澄ましとるのう」
坂上はブロンズ製の機械式腕時計に目をやりつつ、青いパッケージの昭和煙草『ブルー・ホープ』を指で挟んだ。
「……親父。あんた、気づいてねぇわけじゃねぇだろ」
龍魔呂は柳刃包丁の刃先を油布で拭いながら、低くハスキーな声で言った。
その切れ長の双眸は、わずかに細められ、店舗の格子戸の向こう――村の外縁部へと向けられている。
「風が臭ぇ。……湿った土の匂いに混ざって、血と安酒の饐えた匂いが、風上から流れてきてやがる」
「……ほう。オドレの鼻は、そこらの軍用レーダーより鋭いの」
坂上は目を細め、静かに紫煙を吐き出した。
実は坂上もまた、村の大門をくぐった時からずっと、このポポロ村の「地形的脆弱性」が気にかかっていた。
三つの大国の境界に位置するこの村は、要衝でありながら、正規軍の法が及ばない空白地帯だ。そして先ほどキャルルが漏らした「前村長の持ち逃げ」。防衛の予算が削られ、監視網に穴が開いているとなれば――そこに群がってくるのは、いつの時代も決まっている。
「孫子の兵法に曰く、『卒未だ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず』……軍の規律が乱れ、防備に隙が生じた場所には、必ず外敵が巣食うもんじゃ。……ハエ共が嗅ぎつけてきおったか」
「ああ。……ハエなら、叩き潰すまでだ」
龍魔呂が手元のガラス瓶から角砂糖を一粒取り出し、口へ放り込む。
ボリリッ、と硬質な破壊音が、厨房の静けさに冷たく響いた。
同じ頃――ポポロ村の東側、のどかな麦畑と果樹園が広がる村外れの街道。
砂埃を巻き上げながら、二頭の筋骨隆々たる四足歩行の姿と、気怠げに歩く軽装の青年がパトロールを行っていた。
「……ふぁ〜あ。だりぃ……。朝飯食ったばかりだってのに、なんでこんな辺鄙な外周まで歩かされなきゃならねぇんだよ」
背中に大振りのミスリルソードを背負ったフェイト・ラックが、あくびを噛み殺しながら銀貨を指先で弾いた。
ピン、と宙を舞う銀貨。
その横を、規則正しい蹄の音を響かせながら歩くのは、自警団長のマンミアだ。純白の美しい馬身を揺らし、右腕にはパイルバンカー内蔵盾『アグニ』を隙なく構えている。
「だらけるなフェイト! 月給三十万円も貰っておきながら、朝の巡回をサボる気か! 前村長が防衛積立金を持ち逃げしたせいで、外縁部の魔導センサーが二箇所もダウンしているんだぞ! 今、この村の防壁に穴が開いているのは明白なんだ!」
「へいへい、分かってますよ団長殿。……っと、それよりマンミアさん、今朝の『鬼龍』のおでん、食いっぱぐれたんだってな? ニャングルから聞いたぜ、めちゃくちゃ美味かったらしいじゃねぇか」
「なっ……! な、なぜそれを……!?」
マンミアの鳶色の瞳が激しく揺れ、純白の前足がピタリと止まった。
実は今朝、緊急のパトロール報告書を作成していたマンミアは、『鬼龍』から漂ってきた暴力的なまでに美味そうな出汁の香りに胃袋を激しく揺さぶられつつも、任務を優先して駆けつけることができなかったのだ。
「う、うぐぐ……! わ、私は自警団の長だぞ! 任務中に私欲で飯屋へ駆け込むような真似ができるか! ……だ、だが、イグニスめ……『出汁が染みた月見大根が口の中で爆発したっすぅ〜!』などと自慢しおって……! 次に会ったらパイルバンカーで尻を小突いてやる……!」
「ははっ、相変わらず食い意地と真面目さがせめぎ合ってんなぁ。……よし、それじゃあ俺も仕事するか。今日の哨戒ルート、どっちから回るかコイントスで決めるぜ」
フェイトは不敵に笑うと、親指で銀貨を高く弾き上げた。
ユニークスキル【コイントス】。
「表が出たら東の果樹園ルート、裏が出たら……う〜ん、北の農道だな」
カラン、とフェイトの甲冑の籠手の上へ落ちた銀貨。
示されたのは――『表』だった。
「おっ、表だ。じゃあ東の果樹園から回るか」
「……おいフェイト、待て」
マンミアが唐突に耳をそばだて、パイルバンカーの構えを低く落とした。
ケンタウロス特有の鋭敏な聴覚が、北の農道の向こう――麦畑の奥から響く、不穏な物音を捉えていた。
「北だ……! 北の農家の方角から、荷車を乱暴にひっくり返す音と、誰かの怒鳴り声が聞こえる……!」
「チッ、コイントスの裏目かよ! 行くぞ、マンミアさん!」
フェイトの気怠げな空気が一変し、ミスリルソードの柄へ手をかける。
マンミアは四肢に力を込め、土煙を蹴立てて疾走を開始した。
ポポロ村の最北端、外壁の切れ目にほど近い一軒の農家。
普段ならば、老いた農夫が穏やかに麦を脱穀し、庭先で幼い子供が無邪気に駆け回っているはずのその場所は、今や暴力と恐怖の坩堝と化していた。
「オラァッ! さっさと金目のもんを出せや、ジジイッ!!」
ドガァンッ!と粗末な木製の戸口が蹴破られ、老農夫が土間へと転がり出た。
「ぐ、ぐわっ……! た、助けてくれ……! 今年の実りは、先日の雹のせいでこれっぽっちしか……!」
「知るかよそんなもん! てめぇら農民が生きて畑耕せてるのは、俺たち『ブラッド・ハウンド団』がこの辺りを見回ってやってるからだろうがよォ!」
土足で踏み込んできたのは、粗悪な鉄の鎧に身を包み、赤黒い返り血の染み付いた鉈や棍棒を手にした十数人の男たちだった。
国境警備隊を脱走した兵くずれや、近隣の山で追放された賞金首どもで構成された、悪名高き武装ゴロツキ集団。
その中央で、禿頭に醜悪な傷痕を持つ巨漢の頭目が、唾を吐き散らしながら一枚の薄汚れた羊皮紙を老農夫の顔へ叩きつけた。
「見ろやジジイ! これがあの偉大なる『暴行しない券』だッ!!」
「ぼ、暴行しない……券……?」
「そうだ! 銀貨十枚でこの券を買えば、俺たちはてめぇの家を燃やさねぇし、骨も折らねぇでいてやるって寸法よ! ありがたく買い取れやァ!!」
「そ、そんな無茶苦茶な……! それはただのみかじめ料……いや、ただの強盗ではないか……ッ!」
「あァ!? 口答えすんのかジジイッ!!」
頭目が苛立たしげに足を踏み鳴らし、老農夫の痩せた胸板を踏みつけようと長靴を振り上げた。
「やめてぇぇぇッ!! おじいちゃんをいじめないでぇぇッ!!」
奥の納屋から、転がるように飛び出してきた小さな影があった。
まだ四歳か五歳ほどの、泥だらけの麻のワンピースを着た幼い少女だった。
泣き叫びながら、少女は老農夫を庇うようにその背中にしがみつき、小さな両手を広げて大男たちを睨みつけた。
「ほう……? ガキかよ」
頭目は残忍な笑みを浮かべ、舌なめずりをした。
その濁った瞳に、下劣な光が宿る。
「金がねぇなら、そのガキを帝都の闇ギルドに売り飛ばせば、銀貨五十枚にはなるなぁ? おい、そのガキを引っ捕らえろ!」
「ひっ……! いやぁぁぁッ! おじいちゃん! おじいちゃぁぁんッ!!」
下っ端のゴロツキが下品な笑い声を上げながら、鉄の手甲で少女の細い腕を強引に掴み上げようと手を伸ばす――。
「――そこまでだ、下種どもがッッ!!」
ズッガァァァァァンッッ!!
怒号と共に、農家の土壁を突き破って突入してきたのは、白銀の閃光――マンミアだった!
パイルバンカー内蔵盾『アグニ』の面で前衛のゴロツキ二人をまとめて薙ぎ払い、壁際へと叩きつける!
「自警団だ! 武器を捨てて投降しろ! さもなくば、この場で貴様らを法に基づき粉砕する!」
「ケッ、ケンタウロスだと!? ポポロ村の自警団かよ!?」
「おいおい、俺を忘れちゃ困るぜ?」
屋根の上から音もなく飛び降りてきたフェイトが、大振りのミスリルソードを一閃させ、少女に伸びていたゴロツキの腕を峰打ちで叩き落とした。
骨の砕ける鈍い音が響き、ゴロツキが悲鳴を上げて転がる。
「ちっ、自警団の連中が嗅ぎつけてきやがったか……! だがな、こっちは二十人以上いるんだよ! たかが二人で何ができるってんだァ!!」
頭目が鉈を振り上げ、部下たちに合図を送る。
麦畑の物陰から、次々と増援の武装ゴロツキたちが姿を現し、農家を完全に包囲し始めた。
「数が多いな……! フェイト、子供と老人を背後に!」
「了解! ……ったく、朝からハードワークすぎるぜ!」
マンミアの『アグニ』が展開され、フェイトが剣を構える。
だが、ゴロツキたちは一筋縄ではいかない手練れだった。
統率の取れた動きで投石器やボウガンを構え、じりじりと包囲を狭めていく。前村長が持ち逃げしたことで手薄になっていた防衛網の「最悪の盲点」を、完璧に突かれた形だった。
そして――。
包囲の隙間から、一人のゴロツキが隠し持っていた魔導閃光弾を、少女の足元へ向けて投げつけた。
カチッ、と信管が作動する不吉な金属音。
「しまっ……子供が……ッ!!」
マンミアが盾を振るおうとしたが、正面の頭目の鉈が強引に割り込み、体勢を崩される!
少女の目の前で、眩い閃光と爆風が巻き起ころうとしていた――。
その、刹那。
ポポロ村の中央、小料理屋『鬼龍』の厨房で、青い煙草を揉み消した坂上真一の眼光が、かつてない鋭さで光を放った。
「……たつまろ。客が来たようじゃの」
「…………ああ」
包丁を置いた龍魔呂の背中から、静かに、だが底知れぬ「地獄の熱気」が立ち上り始めていた――。
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