EP 7
坂上真一の厨房立たせと、ユニークスキルの胎動
二つの太陽が東の稜線から顔を覗かせ、紫紺の夜空を柔らかな朝の光で染め上げていく。
早朝の緩衝地帯ポポロ村は、まだしんと静まり返っていた。澄んだ冷気が漂う路地裏、小料理屋『鬼龍』の厨房に、早くもパチパチと炭の爆ぜる音が響いている。
「……おい、親父。本当にやる気か」
厨房の勝手口に寄りかかり、龍魔呂が低くハスキーな声で問いかけた。
すでに身なりを整えたその姿は、黒と深紅のレザージャケットではなく、動きやすい黒の調理服。口には赤箱のハード煙草『クリムゾン・レッド』を咥え、手元の真鍮ライターを弄んでいる。その冷徹な双眸は、板場の中央に立つ男をじっと見据えていた。
「当たり前じゃろうが。男が一度口にした約束を違えるわけにゃあいかん。タダ飯食うて軒先を借りるなんぞ、仁義が許さんけえの」
豪快に応えた坂上真一は、濃紺の将官用作業服の上から、どこから調達してきたのか真っ白な木綿のエプロンを首に通し、腰紐を力強くキュッと結んだ。
身長一八〇センチを超える筋骨隆々の巨躯に、白のエプロン。
現世の自衛隊基地で、あるいは練馬の自宅で休日に台所に立ち続けてきた五十歳の父親の姿そのものだが、背筋の伸びた立ち姿には歴戦の指揮官たる不動の威厳が満ち満ちている。
坂上は腕まくりをし、ブロンズ製の機械式腕時計で時間を確認した。
朝の六時ちょうど。
「たつまろ、昨日のピラダイのアラ、まだ残っとるな? それと、村の畑で採れた月見大根と、市場にあった豆の搾りカスを揚げたような豆腐……あれを全部使わせてもらうで」
「……勝手にしろ。だが、道具の扱いがなってねぇ真似をしたら、即座に叩き出すぞ」
「ガハハ! 厳しいのう。望むところじゃい!」
坂上は笑い飛ばしながら、まな板の前に立った。
厨房の包丁立てから、普段使いの厚刃の三徳包丁を一本引き抜く。
――その瞬間だった。
ドクンッ……!
坂上の心臓が、まるで大砲の雷管を叩いたかのような重厚な音を立てて跳ね上がった。
背中に彫り込まれた若気の至り――「仁王の刺青」が、作業服を突き抜けるほどの猛烈な熱を帯びて脈動し始める。
《個体名・坂上真一:厨房への着任、包丁の把持を確認》
《固有概念コード【母港】【補給】【家族愛】の完全合致を検知》
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】――本格覚醒を開始します》
(……っ、またあの声か……!)
脳裏に響く無機質で力強い響き。
同時に、坂上の両の掌と指先に、何千、何万回と包丁を握り、兵たちや愛する家族の胃袋を満たし続けてきた記憶が、鮮烈な「魔力」と化して奔流のように流れ込んできた。
坂上の纏う空気が、一変した。
ただの屈強な中年男の気配から、荒れ狂う暴風雨の洋上で、何隻もの大艦隊に的確な針路と補給を命じ続ける「絶対不沈の総司令官」の覇気へと昇華する。
(……なっ!?)
勝手口で見守っていた龍魔呂の瞳が、驚愕に見開かれた。
咥えていたクリムゾン・レッドが、唇からポロリと落ちそうになる。
龍魔呂の研ぎ澄まされた直感が、目の前の男の急激な変貌を捉えていた。
重心のブレが、完全にゼロになっている。包丁を握る右手の脱力、まな板と対峙する呼吸の深さ――それは、昨日見せた北辰一刀流の達人としての佇まいをそのまま厨房へ持ち込んだかのような、究極の「自然体」だった。
「……よし。まずは下拵えからじゃ」
トントントンッ!
坂上の手元から、小気味よい音が連続して響いた。
目の前に置かれた巨大な月見大根が、瞬く間に四センチ幅の均一な輪切りにされていく。
厚めに切られた大根の皮を、坂上は迷うことなく円を描くように剥き取っていく。桂剥きの要領で厚く剥き、繊維の硬い外周を削ぎ落とす。
次いで、輪切りの角を削る「面取り」。
刃先を斜めに当て、クルクルと大根を回しながら、角を丸く削り落としていく。長時間煮込んでも煮崩れを起こさせず、出汁の対流をスムーズにするための、和食の基本にして最も手間のかかる職人技だ。
「……へぇ。面取りまで完璧に心得てやがる」
龍魔呂が思わず低く唸った。
だが、坂上の手は止まらない。
面取りを終えた大根の片面に、十文字の浅い切り込み――「隠し包丁」をスッ、スッと鮮やかに入れていく。火の通りを均一にし、出汁を芯の芯まで染み込ませるための工夫だ。
「大根はの、煮る前に一回、米のとぎ汁で下茹でして灰汁を抜くんが鉄則じゃ。これをサボると、出汁の澄んだ香りが台無しになるけえな」
坂上は大鍋に湯を沸かし、大根を投入した。
その間に、手際よく次の仕込みへと移る。
昨日残ったピラダイの頭と中骨を焼き台の炭火でサッと炙り、香ばしさを引き出してから、銅の寸胴鍋へ放り込む。そこへ、龍魔呂が前日から水出ししていた極上の昆布出汁を注ぎ入れた。
さらに、村の市場で仕入れた乾燥小魚と、現地の芋から作られた酒、熟成された大豆醤油を独自の黄金比で合わせていく。
グラグラと煮立たせず、ポコポコと小さな気泡が底から浮き上がる程度の絶妙な弱火。
透き通った琥珀色の出汁が、ピラダイの骨から溶け出したコラーゲンと脂を抱き込み、黄金色の輝きを放ち始める。
「具材は、下茹でした月見大根。揚げ豆腐に、固茹でにした野鳥の卵。そして――これじゃな」
坂上はすり鉢を取り出すと、ピラダイの白身に少量の塩とすりおろした根生姜、繋ぎの芋粉を加え、すりこぎで力強く擂り潰し始めた。
見る見るうちに滑らかな純白のすり身が出来上がる。
それを掌で丸め、沸騰直前の出汁の中へ次々と落としていく。自家製の「ピラダイつみれ」だ。
すべての具材が寸胴鍋に収まった瞬間、坂上はエプロンのポケットから真鍮ライターを取り出し、ブルー・ホープに火をつけた。
カチッ、シュポッ。
立ち上る紫煙越しに、大鍋の中を見据える。
その時、坂上の背中の刺青から、目には見えない黄金色の闘気が湯気と共に立ち上り、鍋全体をすっぽりと包み込んだ。
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】――権能①『母港の記憶』が食材へ浸透中》
《概念定着:【家庭の温もり】【絶対の安堵】【心身の超回復】》
コトコト、コトコト……。
静かな厨房に、煮込みの音だけが心地よく響く。
やがて――鍋の隙間から溢れ出してきたのは、外界の冷気すら一瞬で春の陽だまりに変えてしまうような、暴力的なまでに芳醇な「出汁の香り」だった。
醤油の香ばしさ、昆布と魚の凝縮された旨味、そして大根の甘みが渾然一体となった、日本の冬の風物詩――『煮込みおでん』の匂い。
「……こいつは……」
龍魔呂が思わず一歩、前へと踏み出していた。
料理人として数々の腕を磨いてきた龍魔呂の鼻腔を、経験したことのない「深い懐かしさ」が貫いたのだ。それはただ美味いという次元を超え、凍えた魂を底から包み込んで溶かすような、絶対の安らぎの匂いだった。
と、その時だった。
ガラガラガラッ! ドタバタドタバタッ!!
「ふ、ふがぁぁぁぁぁーーッ!! な、なんですかこの犯罪的なまでに良い匂いはぁぁぁぁーーッ!!」
まだ開店前の店の格子戸が勢いよく開け放たれ、小豆色の芋ジャージを着たリーザが、鼻の穴を限界まで広げて飛び込んできた。
ボサボサのエメラルドグリーンの髪を振り乱し、便所サンダルを引きずりながら、獲物を狙う野獣のように厨房の寸胴鍋へ一直線に突進してくる。
「お、お魚の出汁とお醤油の焦げたような……あま〜い、温か〜い、お布団のような香りが村の入り口まで漂ってきましたのぉぉーッ!!」
「こらリーザ! 朝から勝手に人の店に押し入るんじゃないよ!」
続いて飛び込んできたのは、ポニーテールを揺らし、鉄板入り安全靴を履いた村長キャルルだった。
朝のパトロール中だったのか、作業着姿の兎耳をピクピクと忙しなく動かしている。
「真一さん、龍魔呂さん、おはよう! ……って、ええええっ!? 真一さんがエプロン着けて鍋を煮込んでる!?」
「大親父ぃぃぃぃーーッ! 俺様も来ましたぜぇぇーーッ!!」
さらに、広場の耐火テントから飛び出してきたらしいイグニスが、尻尾をブンブンとプロペラのように振り回しながら巨躯を滑り込ませてきた。
「すげぇ匂いだ! 昨日の夜から腹が減ってテントの布を齧りそうだった俺様の胃袋が、大合唱を始めてるっす!」
「ガハハハハ! 朝から揃いも揃って、賑やかでええのう!」
坂上は豪快に笑い、咥えていたブルー・ホープを灰皿にもみ消した。
ブロンズ製の腕時計を見れば、針はちょうど七時を回ったところだ。
「ちょうどええ時間じゃ。たつまろの厨房を借りて、わし流の賄いを作ったんよ。朝飯がまだなら、オドレらも座りぃや。腹いっぱい食わしちゃるけえ」
「いただきまぁぁぁぁすのぉぉーーッ!!」
リーザは〇・一秒でカウンターの丸椅子へ飛び乗った。
キャルルもイグニスも、抗いがたい出汁の芳香に引き寄せられるように席へ着く。
坂上は棚から深めの鉢を取り出すと、大鍋のお玉を握った。
蓋を開けた瞬間、モワッと立ち上る純白の湯気。
飴色に透き通り、芯まで出汁を吸い込んで重そうに沈んでいた月見大根が、ぷるぷると震えながら器へと盛られる。
続いて、出汁をたっぷりと含んでふっくらと膨らんだ厚揚げ、黄金色の出汁を纏った茹で卵、そして艶やかなピラダイのつみれ。
最後に、澄み切った熱々の琥珀色出汁をたっぷりと注ぎ、器の縁にツンと黄色い練りからしを添えた。
「ほれ、坂上特製『染み染み月見大根の煮込みおでん』じゃ。冷めんうちに食うてみぃや」
ドン、と全員の前へ鉢が並べられた。
そして坂上は、カウンターの奥で腕を組み、無言のまま鍋を見つめていた龍魔呂の前にも、一番大きな月見大根が入った鉢をコトンと置いた。
「たつまろ。オドレの分じゃ。料理人の舌で、手加減なしに味見してみぃ」
「…………」
龍魔呂は何も言わず、箸を取った。
「いただきまぁぁぁす!!」
リーザが叫ぶが早いか、箸を大根の真ん中へ突き入れた。
その瞬間――。
スウッ……と、まるで綿菓子に刃を入れたかのように、何の抵抗もなく大根が二つに割れた。
割れ目から、閉じ込められていた熱々の出汁がジュワッと溢れ出す。
大根の断面は、外側から中心部に至るまで、寸分のムラもなく見事な琥珀色に染まりきっていた。
ハフッ、ハフッと息を吹きかけ、リーザが大根を丸ごと口に放り込む。
「――ッ!?!?!?」
リーザの瞳が、限界まで見開かれた。
噛み締めた刹那、大根の繊維の奥から、爆発的な旨味の奔流が溢れ出したのだ。
ピラダイの骨から取った野性味あふれる魚の出汁と、昆布の上品な旨味、そして醤油の香ばしさが、噛むたびにジュワッ、ジュワッと口内を満たしていく。下茹でによって大根特有のエグみは完全に消え去り、ただただ澄み切った大地の甘みと海の塩気が完璧に融和している。
「んんんんんんまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーッッッ!!!!」
リーザは頭を抱えてカウンターに突っ伏し、歓喜のあまりジタバタと足をバタつかせた!
「なんですかこれぇぇぇ!? 熱い! ジュワッてなる! そして信じられないくらい身体の芯に染み渡りますのぉぉ! 大根が……大根が出汁の塊になってますわぁぁぁ!!」
「熱っ、ふぅ、ハフッ……! う、うわぁ……なにこれ、すっごく美味しい……!」
キャルルもまた、厚揚げにからしを少しつけて頬張り、目を丸くして感動に震えていた。
油抜きされた厚揚げのスポンジのような生地から、噛むごとに出汁が溢れ出し、大豆のコクとピリッとしたからしの刺激が鼻を抜ける。
それだけではない。
一口食べた瞬間から、夜通し村の書類仕事とパトロールで酷使していたキャルルの全身の筋肉から、スーッと鉛のような疲労が溶け出していく感覚があった。
(嘘でしょ……!? この料理、ただ美味しいだけじゃない……! 身体の奥の魔力回路が、まるで母の温かい掌で撫でられているみたいに、一瞬で癒やされていく……!?)
「うめぇぇぇぇッ! 大親父、この魚の団子、ふわっふわっす!! 卵もうめぇ! 黄身に出汁が染みてて、口の中でとろけるっすぅぅーーッ!!」
イグニスに至っては、熱々の出汁を椀ごと喉を鳴らして一気に飲み干し、両目から大粒の涙をポロポロと零していた。
テント暮らしの寒さと孤独で荒みきっていた竜人の心に、坂上のおでんが放つ「無償の温もり」が、ド直球で突き刺さっていた。
そして――。
龍魔呂は、静かに大根を口へと運んでいた。
咀嚼する。
ジュワリと広がる出汁の海。
隠し包丁の深さ、下茹での時間、火加減の微細な調整――そのすべてが、料理人としての龍魔呂を驚嘆させるに十分な高みにあった。
だが、龍魔呂の胸を強く締め付けたのは、技術の高さではなかった。
(……なんだ、これは……)
喉を通った温かい出汁が胃袋に落ちた瞬間、胸の奥底――かつて七歳で母を亡くし、十五歳で弟・ユウを失って以来、氷のように凍りついていた心の最深部が、ジンと熱く疼いたのだ。
幼い頃、寒さに震える路地裏で、弟と手を握り合って夢見ていた「いつか食べたい温かい飯」。
誰かが自分のために手間暇をかけ、朝早くから火を起こし、灰汁を引き、慈しむように煮込んでくれた――「家庭」という名の、温もりの記憶。
龍魔呂の指先が、わずかに震えた。
いつもなら奥歯でガリガリと噛み砕く角砂糖の甘みよりも、遥かに深く、優しく、傷だらけの魂を癒やしていく味。
「……どうじゃ、たつまろ。わしの煮込みおでんは」
カウンターの向こうで、坂上が穏やかな広島弁で笑いかけていた。
その温かい眼差しに見つめられ、龍魔呂は慌てて視線を逸らし、手元の器をグッと握りしめた。
「……悪くねぇ。……出汁の引き方も、大根の火の通し方も……文句のつけようがねぇよ」
ぼそりと、掠れた声で吐き捨てられた言葉。
それが、孤高の料理人・鬼神龍魔呂が、他人の料理に対して口にした、生まれて初めての「敗北」と「最大級の賛辞」だった。
「ガハハハ! なら良かったわい! これで宿代と厨房の借賃くらいにはなったかの?」
「お釣りが出るレベルだよ真一さん! もう今日から毎朝作ってよ!」
「大親父、俺様も毎日食べに来るっす!」
「わたくし、お皿まで舐め尽くしますのぉぉ!」
朝の光が差し込む小料理屋『鬼龍』に、弾けるような笑い声と歓声が満ちていく。
元艦隊総司令官・坂上真一が振る舞った一杯のおでんが、この過酷な緩衝地帯に生きる者たちの心を、確かに一つに結び始めていた。
だが――。
そんな温かな食卓のすぐ外側、ポポロ村の境界線の彼方から、平穏を切り裂く「不穏な足音」が、確実に忍び寄ってきていた――。
読んでいただきありがとうございます。
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