EP 6
算盤の商傑と、名刺を投げる人狼執事
二つの太陽が完全に稜線の彼方へと沈み、緩衝地帯ポポロ村の夜空には、息を呑むほどに濃密な紫紺の帳が下りていた。
満天の星々と二つの月が淡い光を落とす路地裏で、小料理屋『鬼龍』は静かにその表情を変える。
藍色の暖簾が外され、軒先の小さな真鍮製ランプにオレンジ色の柔らかな火が灯る。
格子戸の隙間から漏れ聞こえてくるのは、昼の重厚なチェロから一転、繊細にして甘美な旋律――ショパンの『夜想曲 第2番 変ホ長調』だった。
店内は、わずかな間接照明だけが白木のカウンターを照らし出す、静謐なBARへと様変わりしていた。
バックバーには、この異世界マンルシア大陸各地から集められた希少な蒸留酒や、樽熟成の琥珀色のボトルが整然と並んでいる。
カウンターの端に腰を下ろし、坂上真一は愛用の真鍮ライターで『ブルー・ホープ』に火を灯した。
カチッ、シュポッ、と澄んだ金属音が響き、濃厚な紫煙が淡い光の中へ溶けていく。
「……ええ音じゃな、ショパンか。うちの嫁の恵も、休日の朝によくリビングでレコードを回しとったわい」
無骨なブロンズ製の機械式腕時計に視線を落とし、坂上は目を細めた。
五十年の人生で荒波をくぐり抜けてきた男の横顔には、遠い故郷の家族を想う温かな哀愁が滲んでいる。
カウンターの奥では、バーテンダーコートに身を包んだ龍魔呂が、手入れの行き届いたグラスを純白のリネンで音もなく磨いていた。
黒と深紅の気配を隠し、バーコートを完璧に着こなすその姿は、一見すれば都会の一流ホテルに立つ若きトップバーテンダーそのものだ。
「……待たせたな。胃袋を落ち着かせるなら、まずはこれだ」
龍魔呂が坂上の前へ滑らせたのは、丸氷が美しく浮かぶ重厚なロックグラスだった。
グラスの縁には軽くオレンジピールが撫でつけられ、奥深い薬草と穀物の芳香がふわりと立ち上る。
「ほう、琥珀色のええ酒じゃ。……いただきますかの」
坂上がグラスを傾け、氷をカランと鳴らした――まさにその時だった。
カラン、コロン……。
格子戸が開かれ、夜の冷気と共に、甘い白檀の香りと、チャリンチャリンと硬貨が擦れ合う小気味よい音が流れ込んできた。
「まいど〜。龍魔呂はん、今宵もえらい渋い曲流して気取ってはりますなぁ」
入ってきたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された羽織を肩に引っかけた、小柄な猫獣人の青年だった。
年の頃は二十五歳前後。
頭頂部にピンと立った二つの三角耳と、気怠げに揺れる二股の尾。細長い琥珀色の瞳は、あらゆるものの価値を一瞬で計量せんばかりに細められている。
口には細身の真鍮製キセルを咥え、小脇には使い込まれた黒檀の算盤を抱え込んでいた。
メガコングロマリット「ゴルド商会」ポポロ村支店長――ニャングルである。
そして、その背後から、一切の足音を立てずに影のように滑り込んできた長身の男がいた。
「失礼いたします。夜分の静寂を乱す無作法、平にご容赦を」
寸分の狂いもなく仕立てられた黒の燕尾服に、汚れひとつない純白の手袋。
銀灰色の髪を撫で付け、首筋から微かに覗くのは、狼のそれに酷似した毛並みと鋭い牙。
人狼族の元上級貴族筆頭執事にして、現在はキャルル村長を裏から支えるポポロ村の宰相――リバロンだった。
常に穏やかな糸目笑顔を貼り付けているが、その纏う空気は研ぎ澄まされた剃刀のように冷たく、無駄がない。
さらに、その二人の後ろから、カチャカチャと金属音を鳴らして気怠そうに入ってきた男がもう一人。
「よぉ、龍魔呂。今日も身体がだるくてたまんねぇんだ、景気づけに強いの一杯頼むぜ……」
背中に大振りのミスリルソードを背負い、軽装のミスリルアーマーを着流した青年――フェイト・ラック(二十五歳)だ。
ポポロ村と月給三十万円で専属契約を結んでいる実力派の自警団員にして、元A級冒険者。
だがその手元では、先ほどからピカピカと光る銀貨が絶え間なく親指で弾かれ、ピン、ピンと虚空を舞っていた。
「……いらっしゃい。適当に座れ」
龍魔呂は眉ひとつ動かさず、淡々と氷を割りながら応じた。
だが、店内に足を踏み入れたニャングルとリバロンの視線は、一瞬にしてカウンターの端に座る巨躯――坂上真一へと注がれていた。
(……なんや、このオッサン。作業服着て煙草燻らせとるだけやのに、大岩がドンと座っとるみたいな圧があるで……)
ニャングルの耳がピクリと跳ね、キセルからプバリと紫煙を吐き出した。
商人としての本能が警鐘を鳴らしている。目の前の男は、道端の難民でもなければ、そこらの冒険者崩れでもない。
一方のリバロンは、糸目の笑顔を崩さないまま、わずかに顎を引いた。
その双眸の奥で、恐るべき速度のプロファイリングが走る。
――呼吸の深さ、一定。心拍のリズム、乱れなし。
――重心は完全に丹田に落ち、無防備に見えて全身の筋肉があらゆる死角からの襲撃に即応できる状態にある。
――そして、腰に差された白樫の木刀。刃物を持たぬ者が放つ、本物の武の匂い。
「おや……見慣れぬお客様ですね。旅の方でしょうか?」
リバロンが優雅に歩み寄り、坂上の隣の席を引いた。
同時にニャングルも、反対側の丸椅子へと飛び乗るように腰掛ける。
「おう、初めましてじゃな。わしゃあ坂上真一いうもんじゃ。海の上で時化に巻き込まれてのう、気がついたらこの村の厄介になっとったんよ」
坂上は人懐っこい笑みを浮かべ、ロックグラスを掲げて軽く会釈した。
その一切の気負いがない自然体の態度に、ニャングルはニヤリと口の端を吊り上げた。
「へぇ……漂流者はんかいな。ウチは『ゴルド商会』ポポロ村支店長を預かっとるニャングル言います。……いやぁ、それにしても立派な体躯してはりますなぁ! 坂上はん、村長からチラッと聞きましてん。身元を証明する通行証もギルド証もお持ちやないとか?」
ニャングルは懐から黒檀の算盤を取り出し、チャチチャチと目にも留まらぬ速さで珠を弾き始めた。
「このポポロ村は三大国の緩衝地帯。身元の怪しい余所者を一人滞在させるだけでも、治安維持費、防疫管理費、万が一の身元引受保証金……諸々合わせたら、最低でも金貨五十枚のリスク計算になりますのや。……坂上はん、あんさん、この村に自分を売り込めるだけの『資本』はお持ちでっか?」
守銭奴の商傑による、鋭利な値踏み。
相手を試すようなニャングルの視線に対し、リバロンもまた、胸ポケットから白銀の光沢を放つ一枚の名刺をすっと取り出した。
「ニャングル殿の申す通り。私は村長公認の宰相、リバロンと申します。……坂上様。当村は現在、各国の諜報員や不法武装集団の侵入に対し、極めて神経質になっておりましてね。貴方様が害をなす存在ではないという客観的な担保がいただけない場合、法務手続きに基づき、明朝には村外への退去命令を発令せざるを得ません」
リバロンの指先に挟まれた名刺。
紙一枚であるはずのそれに、目に見えぬほどの高密度な「闘気」がすうっと通わされているのを、坂上の研ぎ澄まされた皮膚感覚は見逃さなかった。
手首のスナップ一つで、鉄板をも両断する日用品兵器の達人。
店内を包み込む、張り詰めた査定の空気。
カウンターのフェイトが「おいおい、酒が不味くなるぜ……」と苦笑いしながら銀貨を弄ぶ。
だが――坂上真一は、動じるどころか、ふわりとブルー・ホープの紫煙を天へ吐き出し、豪快に口元を緩めた。
「ガハハハ! なるほど、算盤を弾く商傑に、法と刃を隠し持った切れ者の執事さんか。……ええ面構えじゃのう。オドレらの言うことはごもっともよ」
坂上はグラスをコトンとカウンターに置くと、姿勢を正し、二人の目を真正面から見据えた。
その瞬間、坂上の全身から立ち上ったのは――かつて数千の将兵の命を預かり、極東の荒波の上で国家の防波堤となり続けてきた【艦隊打撃軍総司令官】としての圧倒的な威風だった。
「『彼を知り己を知れば、百戦して殆からず』――孫子の兵法じゃな。……ニャングルの旦那。オドレが弾いとるその算盤、ただの守銭奴の銭勘定じゃあないの。三大国の狭間でいつ吹き飛ぶかも分からんこの村の経済を守り、キャルル村長が無茶な人助けで垂れ流す赤字を、裏で必死に帳尻合わせしとる『防壁の算盤』じゃ」
「……ッ!?」
ニャングルの耳がピクリと跳ね、算盤を弾く指がピタリと止まった。
誰にも見せないはずの、商売の裏に秘めた「情義」の計算を、初対面のオヤジに一瞬で見抜かれたのだ。
坂上はさらに、リバロンへと視線を移した。
「そしてリバロンさん。オドレのその名刺、大したもんじゃ。宮本武蔵の『五輪書』にもあるが、真の達人は刀を選ばん。……オドレの笑顔の底にあるのは、己を拾うてくれた主君とこの村を、泥を被ってでも守り抜くという冷徹な覚悟じゃろう」
「…………」
リバロンの糸目が、わずかに見開かれた。
名刺に込めていた闘気が、まるで温かい毛布で包み込まれたかのように、音もなく霧散していく。
「わしには金貨の蓄えもなけりゃ、この世界の通行証もありゃせん。……じゃがの、五十の坂を越えるまで、人の上に立ち、兵の命を預かり、地獄の底を這いずり回って国防の最前線を守ってきた自負はある。『論語』に曰く、『徳は孤ならず、必ず隣あり』。恩を仇で返すような真似は死んでもせんし、この村の飯を食う以上、この村の盾になる覚悟はあるで」
ドン、と静かにカウンターに置かれた坂上の言葉。
そこには虚飾も、傲慢も、一切の欺瞞もなかった。
ただ、大陸を支える岩盤のような、絶対の誠実さと規格外の器の大きさだけが満ちていた。
沈黙が店を包み込む。
静かに流れるノクターンのピアノの調べ。
やがて、ニャングルがプハァーッと長い煙を吐き出し、ガシガシと頭を掻いた。
「あ〜〜〜アカンわ! 完敗や、完敗! 初対面のオッサンにここまで綺麗に胃袋の底まで見透かされたら、商売上がったりやがな!」
ニャングルは算盤を懐に仕舞うと、カウンターをバンと叩いた。
「決まりや! 坂上はんの身元保証人、ウチのゴルド商会が引き受けたる! その代わり、村に何かあった時はきっちり働いてもらいまっせ!」
「ふふ……異論はございません。坂上様、無礼な詮索をお許しください。貴方様のような高潔な御仁を迎えられること、ポポロ村にとって望外の僥倖でございます」
リバロンもまた、名刺を懐に収めると、非の打ち所がない完璧な角度で深々と一礼した。
「ガハハ! 話が早うて助かるわい! たつまろ、この二人にも酒を出してやりぃや!」
坂上が豪快に笑い飛ばすと、龍魔呂は赤箱の煙草の灰をトントンと落とし、呆れたようにため息をついた。
「……言われなくても出す。おい、トカゲの連れ」
「へ? お、俺か?」
話を振られたのは、隅で銀貨を弄んでいたフェイトだった。
「……お前も何か頼むなら早くしろ。コインをガチャガチャ鳴らすな、酒の音が濁る」
「へいへい、すまねぇな龍魔呂。じゃあいつものエールを……っと、その前に今日の運試しだ!」
フェイトは不敵に笑うと、親指で銀貨をピンと高く弾き上げた。
「俺のユニークスキル【コイントス】! 表が出たら今夜のツケはニャングルの奢り! 裏が出たら……う〜ん、明日の朝のパトロールは身内に不幸があったことにして寝込むぜ!」
「おいこらフェイト! 勝手にウチの財布を賭けの対象にすなッ!」
ニャングルの怒号が飛ぶ中、銀貨がクルクルと回転し、カウンターの白木の上へ――ポトリと落ちた。
パタリ。
……出たのは、見事なまでの「裏」だった。
「…………」
フェイトの顔からサァッと血の気が引いた。
その場にガタガタと崩れ落ち、カウンターに突っ伏して腹を押さえる。
「う……うぅぅ……急に……急に胃が痛くなって熱が出てきた……。龍魔呂、すまん……親友の従兄弟の隣のおばさんの友達の飼い犬が死んだから、明日の朝練は休むわ……」
「もう関係ないじゃろがいッ!!」
坂上のドスの利いたド直球の広島弁ツッコミが、店内に痛快に炸裂した。
「ブッ……ッハハハハハ!」
「ふふ、相変わらずですね、フェイト殿は」
ニャングルが腹を抱えて笑い、リバロンが肩を揺らす。
龍魔呂すらも、手元の角砂糖をボリリと噛み砕きながら、微かに口元を緩めていた。
「……やれやれ、賑やかな夜じゃのう。じゃがニャングルの旦那、リバロンさん。身元を引き受けてもろうたのはありがたいが、わしゃあタダ飯を食うて居座る気は毛頭ないんでな。宿代と滞在費くらいは、自分の手で稼がせてもらうで」
坂上がロックグラスを空にし、力強く告げた。
「ほう? 坂上はん、何かアテでもありまっしゃろか?」
「おうよ。――たつまろ。明日の朝、オドレの厨房を一角、わしに貸してくれんかの? 美味い賄いを作って、この店の売り上げに貢献しちゃるけえ」
坂上の申し出に、龍魔呂はグラスを拭く手を止め、じっとその無骨な眼差しを見つめ返した。
そして、赤箱の煙草をくゆらせながら、低く呟いた。
「……好きにしろ。だが、不味いもん出したら即座に追い出すぞ」
「ガハハ! 腕が鳴るわい!」
元艦隊総司令官が、異世界の厨房へと立つ時が近づいていた。
その背中に眠るユニークスキルが、静かに目覚めの産声を上げようとしていることも知らずに――。
読んでいただきありがとうございます。
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