EP 5
自警団のケンタウロスと、テント暮らしの火吹き竜人
天球に並んでいた二つの太陽がゆっくりと西の稜線へと沈み、緩衝地帯ポポロ村の空は、燃えるような茜色から紫紺のグラデーションへと移ろい始めていた。
昼の小料理屋としての暖簾を仕舞い終えた後、坂上真一は村の散策がてら、中央広場へと足を運んでいた。
道行く農民や獣人たちの姿はどこか忙しなくも、一日の労働を終えた安堵に満ちている。
そんな黄昏時の風に乗って、坂上の耳にふわりと届いたのは――胸を締め付けるほどに切なく、そして優しい、一本の管楽器の音色だった。
「……ん? こりゃあ……」
坂上は足を止め、音の降る方角へと視線を向けた。
村の中心にある広場のベンチ。
夕日に照らされたその場所で、腰を下ろして小さな金属の筒――ハーモニカを唇に当てている巨躯があった。
黒と深紅の特注レザージャケットを羽織り、百九十センチの体躯を小さく丸めるようにして息を吹き込んでいる男。小料理屋『鬼龍』のマスター、鬼神龍魔呂だ。
流れている旋律は、ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』第2楽章――『家路』。
遠き山に日は落ちて、と誰もが口ずさみたくなるあの哀愁のメロディが、静まり返る夕暮れの広場にどこまでも澄み渡っていく。
だが、坂上が目を細めたのは、その曲の美しさだけではなかった。
店の中では絶対零度の殺気を漂わせ、鋭利な和包丁を鏡のように研ぎ澄ませていたあの男の周りに――。
小さな子供たちが、何人もちょこんと座り込んでいたのだ。
犬の耳を生やした幼子、ふわふわの尻尾を揺らす兎人の少女、人間の悪ガキども。皆がうっとりと目を輝かせ、龍魔呂の膝に手を置いたり、背中に寄りかかったりして、その音色に耳を澄ませている。
ふぅ、と最後の一音を吹き終えると、子供たちが一斉に歓声を上げた。
「たつまろのお兄ちゃーん! 今日もすっごく上手だった!」
「お兄ちゃん、もう一回! 次はシャボン玉のやつ吹いてー!」
「……駄目だ。もう陽が落ちる。母ちゃんが心配する前に、とっとと家に帰って飯を食え」
龍魔呂は相変わらず愛想のない、低くハスキーな声で告げた。
だが、その無骨な指先は、せがむ子供たちの頭を大きな手のひらで乱暴に、けれど決して痛がらせない絶妙な力加減で、ぽんぽんと撫でてやっていた。
子供たちは「はーい!」「明日もまた聴かせてねー!」と口々に言いながら、夕闇の中を元気に駆け出していく。
「…………」
独りになった龍魔呂は、手元のハーモニカを丁寧に布で拭うと、ポケットから赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を取り出した。
そこへ、背後から無骨な足音が近づいてくる。
「ええ音色じゃったのう、たつまろ」
振り返った龍魔呂は、坂上の姿を認めると、わずかに肩の力を抜いた。
「……あんたか。いつから見てた」
「最初からよ。……『家路』か。現世の小学校でも、下校の放送でよう流れとった曲じゃ。オドレ、あんな顔もできるんなら、店でももう少し愛想良く笑えや。客が逃げていくぞ」
坂上は笑いながら、作業服の胸ポケットから青いパッケージの『ブルー・ホープ』を取り出し、一本唇に咥えた。
同時に二つの真鍮ライターが取り出され、ほぼ寸分の狂いもないタイミングで弾かれる。
――カチッ……シュポッ。
澄んだ金属音が夕暮れの空気に二重奏となって響き、オレンジ色の炎が二人の男の面構えを照らした。
紫煙がふわりと立ち上り、茜色の空へと溶けていく。
「……愛想を売る商売じゃねぇよ。ガキどもが勝手に集まってくるだけだ」
龍魔呂は短く吐き捨て、ガラス瓶から取り出した角砂糖を奥歯でガリリと噛み砕いた。
だが坂上は、その横顔を眺めながら、心の中で深く頷いていた。
(子供を泣かせる奴を絶対に許さん男、か。……なるほど、そういうことじゃな)
二十五歳という若さで、背中に刻まれた地獄の傷。
かつて自分が守りきれなかった「誰か」への祈りが、あのハーモニカの調べには込められていた。現世に残してきた息子・信長もまた、過酷な訓練の合間に、誰にも見せぬ孤独な眼差しをすることがあった。坂上の胸の奥で、親父としての業火のような情が、静かに熱を帯びていく。
と、その時だった。
パッカパッカパッカパッカ――ッ!!
規則正しく、だが地響きを伴う力強い蹄の音が、広場の石畳を鳴らして近づいてきた。
夕闇を切り裂くように現れたその人影――いや、その「姿」に、坂上は思わず目を瞠った。
「おーい! 龍魔呂! 今日も子供たちの面倒を見てくれたのか! すまないな、パトロールが長引いてしまって!」
現れたのは、凛々しく引き締まった上半身を持つ、勝気そうな鳶色の瞳の女性戦士だった。
艶やかな栗色の長髪を後ろで束ね、防刃加工の施された革鎧の隙間から、鍛え抜かれた腹筋と豊満な胸元が覗いている。
そして――腰から下は、毛並みの美しい純白の巨大な「馬」の肉体だった。
ケンタウロス族。
右腕には、禍々しい杭打ち機構を内蔵した分厚い大型シールド――パイルバンカー内蔵盾『アグニ』を軽々と装備し、腰には長大な鎖『メビウス』が巻き付けられている。
「……マンミアか。別に、面倒なんざ見ちゃいねぇよ」
龍魔呂が面倒そうに応じると、マンミアと呼ばれた女戦士は四本の蹄を器用に止めて、人懐っこい笑みを浮かべた。
彼女こそ、三大国の緩衝地帯という修羅の地において、帝国の正規軍一個連隊にも匹敵する重武装自警団を束ねるリーダー――マンミアである。
「ん? ……そっちの屈強な殿方は? 見慣れない服だが……まさか、噂の『新顔』か?」
マンミアの鋭利な戦士の眼光が、坂上へと向けられた。
五十歳を迎えてなお岩のように微動だにしない立ち姿、北辰一刀流を極めた者特有の無駄のない重心。マンミアの肌が、歴戦の武人を前にしてチリチリと粟立つ。
「おう、初めましてじゃな、隊長さん。わしゃあ坂上真一いうもんじゃ。海の上で時化に遭うて、今日からこの村の厄介になっとる。それにしても……見事な体躯と足腰じゃのう。下半身の踏み込みが尋常じゃねえわい」
「は、ははっ……! ケンタウロスの脚力を褒められるのは光栄だが、あんたのその佇まいも相当なものだな! 私はマンミア、このポポロ村自警団の長を務めている! キャルル村長から話は聞いているぞ、『真っ白な心音の豪傑』が来たとな!」
快活に笑うマンミア。
その時、広場の隅に張られた「耐火ドームテント」の隙間から、ドタドタと慌ただしい足音が響いてきた。
「た、隊長ぉぉーーッ! 今日の夕方巡回、東の第三バリケードまで異常なしっすーーッ!!」
走ってきたのは、頭部に真紅の硬質な角を生やし、作業着の泥にまみれた筋骨隆々の大男だった。
全身を覆う深紅の鱗、太いトカゲの尻尾、そして背中には小さな竜の翼。
竜人族の自警団突撃兵兼、村の土木作業員――イグニス・ドラグーン(二十五歳)である。
「おお、イグニスか。ご苦労だったな。……おい、またお前、作業着の袖を焦がしているんじゃないか?」
「へへっ、ちょっと東の岩石を破砕するのに気合いが入りすぎちまって……って、うわあッ!?」
イグニスの視線が、坂上と龍魔呂を捉えた瞬間、ピタリと止まった。
「な、なんだこのオッサン……!? すげぇ気迫だ……! それに龍魔呂さんまでいるじゃねぇか……!」
イグニスは思わずゴクリと喉を鳴らした。
この筋肉バカの竜人は、自警団詰所の裏に設営したタローマンの耐火テントで一人暮らしをしている。
かつて村の単身者向けアパート『ポポロ・コーポ』に入居していたものの、寝込みのくしゃみで部屋全体を炭鉱のように全焼させ、激怒したマンミアにパイルバンカーを突きつけられて敷金没収・即日追放された悲しい過去を持つ男だ。
「……おい、イグニス」
龍魔呂が、赤箱の煙草を指に挟んだまま、氷のような視線をイグニスに向けた。
「……広場の真ん中でドタバタ走り回るな。砂埃が煙草に入るだろ」
「ヒッ……!? す、すんません龍魔呂さんッ!!」
イグニスは直立不動になり、直角の勢いでお辞儀をした。
以前、龍魔呂の店の前でくしゃみをして火を吹きそうになった際、龍魔呂が無言で真鍮ライターを「カチッ」と鳴らした瞬間、本能的な死の恐怖を骨髄まで刻み込まれたトラウマがあるのだ。
「ガハハハ! 元気な若者じゃのう! 竜の兄ちゃん、オドレもええ筋肉しとるわい!」
坂上が豪快に笑いながら、イグニスの分厚い肩をバシッと叩いた。
その手のひらの重みと温かさに、イグニスは目を白黒させる。
「へ? あ、あざっす……! 俺様はイグニス・ドラグーン! この村の防衛最高幹部っす!」
「手取り十四万のテント暮らしの分際で、見栄を張るんじゃないよ」
マンミアが呆れたようにため息をついた。
夕暮れの冷たい風が、広場をすうっと吹き抜ける。
その瞬間だった。
「……っ、ふ……ふぇ……っ!?」
イグニスの真っ赤な鼻が、冷気を感じてピクピクと痙攣し始めた。
「お、おいイグニス……!? 貴様、まさか……ッ!?」
マンミアの顔色がサッと青ざめる。
「と、止まらねぇ……! ハ、ハッ……ハッッ……ッ!!」
「口を塞げバカ者! 空を向けぇぇーーッ!!」
「ハッックショォォォォォォーーーーンッッッ!!!!」
ドッゴォォォォォォンッッッッ!!!!
凄まじい轟音と共に、イグニスの口から直径二メートルを超える紅蓮の猛火柱が、景気良く水平方向へと噴射された!
夕闇を真昼のように照らし出すドラゴンのブレス!
「――っ、ぬかせぇぇぇいッ!!」
ガッショォォォォンッッ!!
火柱が直撃する寸前、マンミアが電光石火の身のこなしで前進し、パイルバンカー内蔵盾『アグニ』を地面へ叩きつけた!
展開された魔導シールドが火炎を二つに裂き、周囲へ熱風を逃がす。
だが、その余波でマンミアの美しい栗色の髪の毛先が、チリッとわずかに焦げて煙を上げた。
パチパチと火の粉が舞い落ち、静まり返る広場。
「…………」
マンミアの額に、血管が浮き出た。
ギリギリと奥歯が軋む音が、静寂の中に響き渡る。
「イ・グ・ニ・ス……?」
「ひ、ひぃぃぃっ!? た、隊長、不可抗力っす! 生理現象っすぅぅーーッ!!」
ガシャンッ! ジャキィィンッ!
マンミアの『アグニ』から、極太の鉄杭がけたたましい火花を散らして装填され、イグニスの鼻先一ミリの位置へと突き立てられた。
「貴様ぁぁーーッ!! 昨日トリートメントしたばかりの私の髪を焦がすとはいい度胸だなッ!! この歩く火気厳禁トカゲ野郎! アパートを燃やしただけでは飽き足らず、私の処女膜……じゃなくて乙女のプライドまで焼き払う気かぁぁーーッ!!」
「言葉のチョイスが物騒すぎるっす隊長ぉぉーーッ!!」
涙目で這いつくばるイグニスと、パイルバンカーの引き金に指をかけるマンミア。
そこへ――。
カチッ……シュポッ。
冷たい、研ぎ澄まされた真鍮ライターの音が、二人の間に割り込んだ。
龍魔呂が、紫煙を燻らせながら、ただ一言、氷のように呟いた。
「……おい、トカゲ。……煙草が、消えたぞ」
「ぎゃああああッ! すいませんでしたぁぁぁぁッ!!」
イグニスは即座に両手を地面につき、土下座の姿勢で痙攣した。
「ブッ……ワッハハハハハハハッ!!」
その凄まじいコントのようなやり取りを前に、坂上は腹を抱えて大爆笑した。
「いやはや、賑やかでええのう! 血気配が盛んなのは若者の特権じゃ! 隊長さんも、まあその辺で許してやりんさい。毛先が焦げたくらい、飯を食えばまた生えてくるわい」
「う、うむ……坂上殿がそう言うなら……」
マンミアはコホンと咳払いをし、パイルバンカーの安全装置を戻した。
そして、少し気恥ずかしそうに下半身の馬足をモジモジと動かす。
「見苦しいところを見せてすまない。……これでも自警団の長として、厳格に規律を守らせねばならん立場でな。……ふぅ、毎日毎日、荒くれどもの相手ばかりで、すっかり男勝りな性格が板についてしまったよ」
マンミアは自嘲気味に笑い、空を見上げた。
その横顔には、二十歳のキャルルとはまた違う、大人の女性としての微かな翳りが差していた。
「……ときに、隊長さん。オドレ、今年でおいくつなんじゃ?」
坂上が何気なく、ブルー・ホープを咥え直しながら尋ねた。
その瞬間――。
ピキィィィィンッッ!!
マンミアの四本の脚が、まるで電撃を浴びたかのようにピタッと直立不動で硬直した。
空気が、先ほどの火柱よりも遥かに危険な圧迫感を帯びて張り詰める。
「……え? あ、いや……その……」
マンミアの頬が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていく。
視線があちこちを彷徨い、指先が落ち着きなく『アグニ』の縁を弄る。
「……に、にじゅう……五……だが……?」
消え入りそうな、蚊の鳴くような声。
ポポロ村自警団長マンミア、二十五歳――未婚。
それは彼女にとって、触れられた瞬間に対空ミサイルが誤作動しかねない、最大級の「地雷」だった!
同年代の町娘たちが次々と家庭を持ち、子供を抱く中で、毎日重火器を担いで泥水を啜り、クリスマスには一人でホールケーキをスプーンで抉って啜り泣く夜――。
だが、現世の昭和を生きてきた五十歳の頑固親父・坂上真一が、そんな乙女の繊細な心理機微に気づくはずもなかった。
「なんじゃ、二十五か! たつまろと一緒じゃな!」
坂上はポンと手を叩き、満面の笑みを浮かべた。
「奇遇じゃのう! 実はの、わしが現世に残してきた息子の信長も、今年でちょうど二十五歳なんじゃ! 陸上自衛隊でレンジャー部隊の隊長やっとる頑固者での、図体ばっかりデカくて、これまた浮いた話が一切ない独身なんよ!」
「えっ……? む、息子さん……?」
マンミアが目を丸くする。
坂上は煙草を燻らせながら、豪快に言葉を続けた。
「おうよ! 隊長さん、見たところ気立てが良くて、身体も頑丈で、責任感も強い! どうじゃ、うちの信長か、それともこのたつまろ――オドレの婿に、どっちか貰うてくれんかのう!? わしが太鼓判を押す男前たちじゃぞ!」
「――っっっっ!??!?!」
バシュゥゥゥゥーーッッッッ!!
マンミアの頭頂部から、本物の蒸気が噴き出した。
顔面は耳の先まで深紅に沸騰し、大きな鳶色の瞳がぐるぐると渦を巻く。
「む、むむむ、婿ぉぉぉぉぉーーーッッ!??!?! ななな、何を言っているんだ坂上殿ぉぉぉッ!? わ、私は別にっ! 結婚を焦ってなどっ! 二十五歳未婚だからって毎日枕を濡らしてなどいないぞぉぉーーッ!!」
「誰も焦っとるなんて言うとらんがな。似合いの夫婦になりそうじゃと思うただけよ」
「そ、そんな急に言われても心の準備がっ! だ、第一、ケンタウロスの背に乗れる男など、私の生涯の伴侶と認めた者だけなのだぞっ!? しょ、処女の背中なんだぞぉぉーーッ!!」
ヒヒィィィンッ!とマンミアは前足を高く跳ね上げ、パニックのあまり広場の石畳を乱れ打ちにした。
「……親父。余計なことを言うな」
カウンター越しではなく、広場で初めて龍魔呂の口から「親父」というニュアンスを含んだ低い呆れ声が漏れた。
龍魔呂は眉間を指で揉みながら、赤箱をもみ消す。
「あいつのその話題は地雷だ。……それ以上突っつくと、広場がパイルバンカーで更地になる」
「ガハハハハ! すまんすまん、悪気はなかったんじゃがのう!」
豪快に笑い飛ばす坂上。
その足元で、土下座していたイグニスが、おずおずと顔を上げた。
「あ、あの……坂上さん……? あんた、あの激ヤバな龍魔呂さんと、あの鬼隊長を相手に……一切ビビってねぇどころか、手玉に取ってんすか……!?」
「手玉なんぞ取っとらんよ。人間も竜も、腹を割って話せばみな同じじゃけえの。……ほれ、イグニス言うたか。腹が減っとるなら、後で『鬼龍』へ来い。美味いもんでも食わしちゃる」
坂上が温かい笑顔でポンとイグニスの背中を叩くと、イグニスの爬虫類のような瞳に、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「う、うわぁぁぁぁんッ! 大親父ぃぃーーッ!! 俺様、一生ついていきますぅぅーーッ!!」
「誰が大親父じゃ、調子のええ奴じゃのう」
広場に響く、坂上の豪傑の笑い声。
赤面して暴走するケンタウロスの女戦士。
涙を流してすがる火吹き竜人。
そして、呆れながらも角砂糖を噛み砕き、微かに口元を緩める孤高の料理人。
黄昏の帳が落ち、ポポロ村の空には、満点の星々が瞬き始めていた。
昼の喧騒が静まり、やがて村は――大人の時間である「夜のBAR」へと姿を変えていく。
そこへ、この緩衝地帯を裏で牛耳る、一癖も二癖もある「本物の曲者たち」が姿を現そうとしていた――。
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