EP 3
兎耳の村長と、極貧アイドルのスライディング土下座
静謐なバッハの調べを無残に蹴散らし、開け放たれた格子戸の隙間から飛び込んできたのは、一陣の突風と、目も当てられないほどのみすぼらしい姿をした一人の少女だった。
「た、たすけてくださぁぁーーいッ! 龍魔呂さぁん! 飢え死にしますの! わたくし、もう三日間タンポポの根っことオオバコしか齧ってませんのぉぉーーッ!!」
床に転がり込んできたのは、膝の抜けた小豆色の芋ジャージを身に纏い、足元には擦り切れた便所サンダルを引っ掛けた少女だ。
年の頃は十六、七といったところか。潮の香りを宿したエメラルドグリーンの美しい長髪はボサボサに乱れ、その大きな瞳には飢餓で血走った狂気が宿っている。鼻の頭にうっすらと土をつけたその姿は、海中国シーランの正統なる王女――リーザ・シーラン・リヴァイアサンという高貴な肩書とは、およそ銀河系の対極に位置していた。
その直後、けたたましい足音と共に、もう一つの人影が怒声を上げながら暖簾をくぐった。
「待ちやがれこの寄生魚ぉぉーーッ! 逃げ切れると思うなよ! 今月の村営シェアハウスの家賃、銀貨三枚! 今日こそ耳を揃えて払ってもらうからねッ!!」
怒髪天を衝く勢いで踏み込んできたのは、頭頂部にぴんと伸びた真っ白な長い兎耳を生やした美少女だった。
淡い金髪をポニーテールに束ね、小柄ながらも無駄のない筋肉の引き締まった体躯。作業着の裾をたくし上げ、足元にはホームセンター『タローマン』特注の鉄板入り重安全靴が鈍い光を放っている。
彼女こそ、三大国の緩衝地帯において荒くれどもを束ねる、ポポロ村第43代村長――キャルル・ムーンハート(二十歳)である。
二人の乱入に対し、カウンターの奥に立つ龍魔呂は眉ひとつ動かさなかった。
ただ、深く重いため息をひとつ吐き出すと、手元の瓶から角砂糖を二粒つまんで口に放り込み、ボリッ、ガリリッと奥歯で噛み砕く。
「……やかましいぞ、お前ら。ここは飯を食う場所だ。騒ぐなら表でやれ」
「龍魔呂さん、聞いてくださいまし! 今月も路上ライブの投げ銭が五円玉四枚しか集まらなかったんですの! それなのにこの鬼村長、わたくしのサンダルを差し押さえようと……ひっ!?」
喚き散らしていたリーザが、ふとピクリと鼻腔をひくつかせた。
店内に漂う、ピラダイの香ばしい焼き魚の脂の匂い。そして、坂上の前に置かれた椀から立ち上る、極上の昆布と鰹節の出汁の残り香――。
その瞬間、リーザの瞳孔が猫のように見開かれた。
「こ、この神々しい香りは……!? お、お魚……? 出汁……!? 白米の炊き上がった匂いぃぃ……!?」
視線を巡らせたリーザの視界に飛び込んできたのは、カウンターで悠然と煙草を燻らせている坂上真一の巨躯だった。
五十歳を迎えてなお岩山のように引き締まった体躯、歴戦の海を越えてきた男だけが放つ圧倒的な威圧感と、どこか底抜けの包容力。
リーザの野生の直感が、瞬時に弾き出した。
――この人、絶対に「美味い飯」の匂いがする!
ズザザザザザザァァァッッ!!
常人の動体視力では捉えきれない、摩擦熱で床板が焦げ付きそうなほどの超光速。
所要時間、わずか〇・二秒。
リーザは店の入り口から坂上の足元へと見事な低空スライディングを決め、寸分の狂いもなく完璧な土下座の姿勢で額を床に擦り付けた。
「見知らぬ立派なお父様ぁぁーーッ!! どうか、どうか哀れなわたくしめに、その美味しそうな残り物でも、出汁の出涸らしでも恵んでくださいましぃぃ! 一生のお願いですの! 肩でも揉みます! なんでも歌いますからぁぁーーッ!!」
あまりの滑らかさと潔さに、静まり返る店内。
龍魔呂が冷たい目で「……また始まったか」と呟き、赤箱の煙草の灰を落とす。
一方、いきなり足元にスライディング土下座をかまされた当の坂上はといえば――。
「…………」
咥えていたブルー・ホープの紫煙をふわりと吐き出し、丸い目で足元の小豆色ジャージを見下ろしていたが、次の瞬間、腹の底を震わせるような豪傑の笑い声を店内に響かせた。
「ガッハハハハハハッ! なんじゃあオドレ、見事な滑り込みじゃのう! 甲子園のヘッドスライディングでも、ここまできれいにゃ決まらんわい!」
「笑ってないで恵んでくださいましぃぃ! お腹と背中がくっついて、内臓が『きゅるるる』と悲鳴を上げておりますのぉぉ!」
「おうおう、よっぽど腹が減っとるようじゃな。若い娘がメソメソ泣くもんじゃない」
坂上は豪快に笑いながら、作業服の胸ポケットに手を差し入れた。
取り出したのは、転移の際に持ち込んでいた個包装のコーヒーキャンディと、愛娘・千姫が持たせてくれたピンク色の紙包み――苺ミルク飴だ。
千姫の形見のような飴を口に入れるのは躊躇われたが、坂上は迷うことなく、コーヒーキャンディの包み紙を指先で弾いて破ると、リーザの目の前に差し出した。
「ほれ。飯ができるまでの繋ぎじゃ。まずはこれでも舐めて、血糖値を上げぇや」
「あ、飴ちゃん……!? いただきますのぉぉーーッ!」
リーザは両手で飴を奪い取るや否や、口の中へ放り込んだ。
その瞬間、ほろ苦い本格珈琲のコクと、まろやかなミルクの甘みが少女の乾ききった口腔を満たす。
「ンンン〜〜〜〜ッッ!? な、なんですかこれはぁぁ!? 甘い……苦い……そして奥深い! 宮廷の高級菓子でもこんな洗練された味、食べたことありませんのぉぉ……!!」
頬を抑えて涙目で悶絶するリーザ。
坂上はその姿に、現世で甘いものをねだってきた幼い千姫の面影を重ね、目尻を下げて「美味いか。ならええ」と、無骨で分厚い掌でリーザのボサボサ頭をくしゃりと撫でた。
その時だった。
「――そこまでだ、余所者」
カツン、と硬質な安全靴の足音を響かせ、村長キャルルが歩み出てきた。
その長い兎耳が、警戒を露わにしてピクリと前後に動いている。
キャルルは腰のホルダーに差した木製のダブルトンファーにそっと指先を添えながら、値踏みするように坂上を睨み据えた。
「見慣れない服に、見たこともない階級章……。あんた、どこの国の回し者だ? ルナミス帝国の密偵か? それともレオンハート王国の傭兵崩れかい?」
「……おい、キャルル。店の中で物騒な真似はよせ」
カウンターの龍魔呂が、低くドスの利いた声で制止に入る。
だが、キャルルは視線を坂上から外さない。
「龍魔呂さんは黙ってて! 私はこのポポロ村の治安を預かる第43代村長だよ。三大国の緩衝地帯であるこの村に、こんな規格外の武装した大男がフラリと現れて、ハイそうですかと見過ごせるわけないでしょ」
キャルルの青い瞳が、鋭敏な観察眼となって坂上の全身をスキャンする。
腰に差した白樫の木刀。手入れの行き届いた無骨な機械式腕時計。そして何より、服の隙間から微かに覗く、鍛え上げられた首筋と、背中に眠る獰猛な気配――。
タダモノではない。一騎当千の猛者であることは一目瞭然だった。
(……嘘をついているかどうか、私の『耳』で確かめさせてもらうよ)
キャルルは呼吸を整え、月兎族に伝わる秘術――聴覚の神経を極限まで尖らせた。
狙うのは、坂上の胸郭の奥。
人間が嘘をつく時、あるいは悪意や敵意を隠している時、血流は乱れ、心拍数はわずかに跳ね上がり、微細な不協和音を奏でる。
これまで数多の悪徳商人や各国の密偵を、この「心音盗聴」で暴き、叩き伏せてきた。
トクン……トクン……
キャルルの耳が、坂上の心臓の音を捉えた。
その瞬間――。
「――ッ!?」
キャルルの身体が、雷撃を浴びたかのようにビクンと跳ね上がった。
(な……なに、これ……!?)
聞こえてきたのは、不協和音などでは断じてなかった。
ドォン……ドォン……ドォン……
それは、まるで大陸の底を流れる大河の胎動のようだった。
あるいは、荒れ狂う嵐の海にあって、微動だにせず波頭を切り裂いて進む、数万トンの巨大戦艦の重厚な機関の音。
ゆったりと、だが極めて力強く、一定の狂いもなく刻まれるそのリズムには、焦りも、恐れも、悪意も、欺瞞の濁りも――一片たりとも存在しなかった。
(嘘でしょ……!? この人、自分に向けられた私の殺気や疑念を完全に理解してる……! なのに、心拍数が『一拍』たりとも乱れてない……!?)
それどころか、心音の奥底から伝わってくるのは、温かすぎるほどの「情」だった。
飢えた小娘を哀れみ、故郷の我が子を想い、見知らぬ異世界に一人放り出されながらも「生き抜いて家族の元へ帰る」という、鋼の覚悟に裏打ちされた不動の心――。
論語の仁義と、孫子の兵法を血肉に変えた者だけが到達できる、底知れぬ巨木のような器の広さ。
「……どうしたんなら、お嬢ちゃん。わしの顔に何ぞついとるか?」
坂上が人懐っこい笑みを浮かべ、首を傾げた。
その温厚な眼差しに見つめられた瞬間、キャルルは思わず息を呑み、構えていたトンファーからスッと力を抜いてしまった。
「……白、だ」
「あん?」
「真っ白だよ、あんた……! 嘘も、企みも、やましい下心も何一つない……! こんな綺麗で図太い心音、生まれて初めて聞いたよ……!」
キャルルは額にじわりと浮かんだ冷や汗を拭いながら、大きく息を吐き出した。
耳をぺたりと寝かせ、警戒を完全に解いた顔で坂上を見上げる。
「疑って悪かったね。私はキャルル・ムーンハート。このポポロ村の村長をやってる。……あんた、名前は?」
「坂上真一じゃ。見ての通りのしがないオッサンよ。海の上で時化に巻き込まれてのう、気がついたらこの村の外れに転がっとったんじゃ」
「漂流者……いや、いわゆる『転移者』ってやつかい。災難だったね」
キャルルは納得したように頷いた。ポポロ村は三大国の狭間にある特殊な土地柄ゆえ、時折そうした異邦人が流れ着くことも珍しくない。
だが、これほど規格外の「大物」が流れ着いた前例はなかった。
「パパぁ……! わたくし、このお父様の娘になりますの! この人なら、わたくしを養ってくれますわ……!」
足元にしがみついたまま、リーザがすりすりと坂上の作業ズボンに顔を擦り付けている。
「こらリーザ! 初対面の人に変なタカリ方するんじゃないよ! だいたいあんたは家賃を――」
「まあええがな、村長さん。腹が減っとっちゃあ、話せるもんも話せんようになる。――たつまろ、すまんが、この娘らにも何か腹に溜まるもんを作っちゃってくれんかの? 代金なら、わしの手持ちのモンでどうにか工面するけえ」
坂上がカウンターの龍魔呂へ向けて声をかけると、龍魔呂は赤箱の煙草をもみ消し、フッと短く鼻を鳴らした。
「……代金はいらねぇよ。残ったピラダイのアラと、大根の皮がある。……味噌汁と飯くらいなら、すぐに出せる」
「ほら見ぃ、話のわかる男じゃ」
坂上がニヤリと笑うと、リーザが「神様仏様龍魔呂様ぁーーッ!」と再び床に額を打ち付けて歓喜の雄叫びを上げた。
「まったく……調子のいいやつらだよ」
キャルルは呆れたように肩をすくめつつも、カウンターの丸椅子へ腰掛けた。
その顔には、先ほどまでの張り詰めた警戒心は消え、どこか安堵したような笑みが浮かんでいる。
そして、ちらりと坂上の横顔を盗み見ながら、胸の奥で小さく呟いた。
(坂上真一……。この人、ただのオッサンなんかじゃない。この混沌とした緩衝地帯に、とんでもない嵐……いや、大きな『傘』が飛び込んできたかもしれないね)
トントン、と厨房から心地よい包丁の音が響き始める。
バッハの旋律が流れる静かな小料理屋『鬼龍』に、ポポロ村の騒がしくも温かい風が、確実に吹き込み始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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