EP 2
小料理屋『鬼龍』と寡黙な料理人
藍色の暖簾をくぐり、引き戸を滑らせて一歩中へ足を踏み入れた瞬間、外界の砂埃と喧騒が嘘のように遮断された。
涼やかな空気が満ちる店内に、深く、重厚な弦の音色が静かに満ちている。
流れているのは、J・S・バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調』。一音一音が空間の塵を払い落とすかのように、凛として研ぎ澄まされていた。
店内は、街道沿いの荒くれどもが集う酒場とは一線を画していた。
木目の美しいカウンターには塵ひとつなく、白木のまな板は磨き抜かれ、客席の隅々まで行き届いた手入れが伺える。そして、カウンターの向こう側――厨房の板場に、その男は静かに立っていた。
(……ほう。ありゃあ、相当な修羅場をくぐっとる面構えじゃな)
坂上真一の眉が、わずかに動いた。
男の背丈は百九十センチを下らない。
黒をベースに深紅の差し色が入った特注のレザージャケットの胸元からは、ワインレッドのタートルネックが覗いている。服の上からでも一目でわかる、一切の無駄を削ぎ落とした鋼のような筋肉の密度。重心の置き方、指先の脱力、首筋の張り――武術に秀でた者だけが放つ、音もなく獲物を屠る獣の静けさがあった。
だが、その男が右手に握っていたのは、凶器ではなく一振りの和包丁だった。
刃渡り尺一寸――名匠が鍛え上げた完全「本焼き」の柳刃包丁。仕上げ砥で鏡面のように研ぎ澄まされたその刃先は、厨房の淡い間接照明を吸い込んで鈍く光を放っている。
男は包丁をまな板の上に置くと、ゆっくりと顔を上げた。
彫りの深い端正な顔立ち。だがその双眸は、光を吸い込んで底が見えないほどに暗く、冷徹な凍土を思わせた。
「……いらっしゃい。見慣れねぇ格好だな」
低く、どこか金属的な響きを含んだハスキーな声。
無愛想極まりないが、客を拒む気配はない。男は手元の清潔な布巾で手を拭うと、氷を入れたグラスに水を注ぎ、カウンター越しにトンと滑らせてきた。
「作業服のまま入ってすまんの。表の看板と、たまらん出汁の香りに釣られてのう」
坂上は豪快に笑いながら、白木のカウンター席へ腰を下ろした。
五十歳を迎えてなお引き締まった坂上の巨躯が椅子を軋ませる。
腕に巻かれたブロンズ製の機械式腕時計に目をやりつつ、坂上は店主を見据えた。
「腹が減って目が回りそうなんじゃ。何か、胃袋に収まる美味い飯はあるかの?」
「……昼の定食なら、すぐに出せる。ピラダイの塩焼きと、月見大根の煮物だ。それでいいか」
「ピラダイ? ……ああ、なんでもええ。腕の立つ料理人が腕を振るってくれるんなら、文句なんぞあろうはずがなかろうて」
「……待ってろ」
男は短く応えると、身を翻して厨房の奥へと向かった。
その所作には、一切の淀みがなかった。
炭火の熾きた焼き台の上に、手際よく串を打った白身魚――この地で「ピラダイ」と呼ばれる、真鯛に酷似した肉厚の魚が並べられる。皮目に細かく入れられた隠し包丁が、炭火の熱を吸ってパチパチと心地よい爆ぜる音を立て始めた。
次いで男は、銅の大鍋の蓋を取った。
その瞬間、ふわりと湯気と共に店内に満ちたのは、気絶するほどに芳醇な「和の出汁」の芳香だった。
雑味を完全に排した極上の昆布の旨味に、燻煙された鰹節の力強いコク。大鍋の中で琥珀色の出汁をたっぷりと吸い込み、飴色に透き通った大根が、静かに波打っている。
(見事なもんじゃ……。煮崩れひとつ起こさせず、角を立たせたまま芯まで煮含めとる。出汁の引き方と火加減の年季が、まるで違う)
坂上は思わず目を細め、舌を巻いた。
自身も休日に自宅の厨房で腕を振るい、出汁の取り方や火加減には一家言ある身だ。だからこそ、目の前の若者がどれほど凄まじい修練を重ねてこの鍋の前に立っているかが、痛いほど理解できた。
ものの数分と経たずに、盆に乗せられた料理が坂上の前に差し出された。
「お待ち遠さま。……ピラダイの塩焼き、月見大根の出汁煮だ」
立ち上る湯気が、坂上の食欲を容赦なく刺激する。
炭火で皮目を香ばしく黄金色に焼き上げられた魚は、脂が滴り、身がふっくらと膨らんでいる。添えられた月見大根は、深い藍色の陶器に盛られ、琥珀色の出汁の海に浮かぶ満月のようだった。そして、つややかに炊き上げられた白飯と、出汁の効いた汁物。
「……いただきます」
坂上は両手を合わせ、割り箸を取ると、まずは月見大根へと箸を入れた。
すっ、と何の抵抗もなく、大根の繊維が出汁を滲ませながら二つに割れる。
そのまま口へと運ぶと――。
「――っ……!!」
坂上の瞳が見開かれた。
噛み締めた瞬間、大根の奥深くまで浸透していた極上の出汁が、まるで熱い泉のように口内いっぱいに溢れ出した。
舌を包み込むのは、昆布の上品な甘みと、節の力強い芳香。そして、大根そのものが持つ大地の滋味が、出汁と完全に融和している。塩角は微塵もなく、身体の隅々の細胞まで染み渡るような、優しくも深い旨味の奔流だった。
「……美味い。……美味いなんてもんじゃないぞ、これは」
熱い吐息を漏らし、坂上は続け様にピラダイの身を箸で崩した。
パリッと音を立てて裂けた皮の下から、湯気と共に純白の身が顔を覗かせる。粗塩の振られた身を一口頬張り、すぐさま熱い白飯を口へかき込む。
魚の淡白でありながら濃厚な脂の旨味と、塩気の効いた皮の香ばしさ、そして米の甘みが三位一体となって喉奥へと滑り落ちていく。
「美味い……! この出汁の染み具合、焼き魚の火の通し加減……完璧じゃ」
坂上は無我夢中で箸を動かした。
異世界へ飛ばされ、二つの太陽の下を歩き通した極限の疲労が、胃袋から全身へと染み渡る滋味によってみるみるうちに解きほぐされていくようだった。
茶碗の米粒ひとつ残さず平らげ、最後に出汁を椀から直接飲み干すと、坂上は「ふぅぅ……っ」と深く長い息を吐き出した。
「ごちそうさまじゃ。胃袋の底から生き返ったわい」
「……粗末なもんだが、口に合ってよかった」
男は淡々と答えながら、空になった器を手際よく引いた。
その無駄のない指先を眺めながら、坂上は上着の内ポケットに手を入れた。
出てきたのは、青いパッケージの昭和煙草――『ブルー・ホープ』と真鍮のオイルライター。
「店主。一本、煙をつけてもええかの?」
「……構わねぇよ。煙草を気にするような気取った店じゃねぇ」
男は言いながら、自らもカウンターの下から【赤箱のハード煙草】を取り出し、一本を唇に咥えた。
そして、ポケットから取り出した無骨な真鍮製ライターを弾く。
――カチッ……シュポッ。
静謐なチェロの旋律の隙間に、硬質で冷たい金属音が響き渡った。
立ち上るオレンジ色の炎が、男の鋭い横顔を照らし出す。
坂上もまた、愛用の真鍮ライターでブルー・ホープに火を灯した。
シュボッ、と火がつき、濃厚な紫煙が二人の間に漂う。
「……わしは坂上。坂上真一いうもんじゃ」
紫煙の向こうから坂上が名乗ると、男は煙草を指に挟み、わずかに目を細めた。
「……鬼神だ。鬼神 龍魔呂」
「たつまろ、か。ええ名じゃな」
坂上は煙を燻らせながら、カウンターの奥に飾られた酒瓶や、厨房の隅々へと視線を巡らせた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「ときに、たつまろ。……オドレ、歳はおいくつじゃ?」
「……二十五だ」
龍魔呂が短く吐き捨てた言葉に、坂上の胸がわずかに小さく跳ねた。
「二十五……そうか」
坂上の脳裏に、現世に残してきた自慢の息子――信長の顔が浮かんだ。
かつて自分が北辰一刀流を叩き込み、過酷極まる訓練を耐え抜いて陸上自衛隊のレンジャー徽章を勝ち取った、頑固で不器用な長男。
彼もまた、今年でちょうど二十五歳だった。
だが――坂上は、煙草の煙を目を細めて見つめながら、眼前の青年の「異質さ」を冷徹に見透かしていた。
同じ二十五歳。
鍛え抜かれた肉体と、鋼のような精神。
しかし、何かが根本から決定的に違っていた。
(……この眼は、普通の人生を歩んで手に入るもんじゃないのう)
息子の信長が持つ厳しさは、国家と規律を守るための「誇り」から来るものだ。
だが、この鬼神龍魔呂という男の瞳の奥底に淀んでいるのは、誇りなどという生易しいものではない。
それは――底知れぬ地獄の闇。
自らの血と肉を削り、他人の命を無数に奪い、幾度も絶望の泥水を啜り尽くした者だけが纏う、冷酷にして深い「血塗られた修羅の匂い」だった。
二十五という若さで、背負うにはあまりに重すぎる、救いのない業の深さ。
「たつまろ。……オドレ、えらい深い地獄の底を歩いてきた顔をしとるのう」
坂上が低く、だが温かみを帯びた声で呟いた瞬間だった。
ピシリ、と店内の空気が凍りついた。
龍魔呂の指先がわずかに止まり、その双眸に宿る光が、一瞬にして猛獣のような殺気を帯びた。
カウンター越しに放たれた無言の威圧――通常人ならば息を呑み、恐怖で卒倒しかねないほどの濃密な「死の気配」。
だが、坂上は眉毛ひとつ動かさなかった。
数千の将兵の命を預かり、荒波と硝煙の戦場を統括してきた艦隊総司令官。
宮本武蔵の『五輪書』が説く「空」の境地を胸に宿す男にとって、若者の剥き出しの殺気など、春先のそよ風と大差はなかった。
坂上はただ穏やかに、ブルー・ホープの紫煙をふわりと天へ吹き流すだけだ。
「……余計なお喋りだったかの。すまなんだ」
「…………」
龍魔呂はしばし坂上を冷たく凝視していたが、やがてフッと殺気を霧散させた。
手元のガラス瓶から、角砂糖を一つ指先でつまみ上げる。
それをそのまま口に放り込むと、奥歯で――ボリッ、ボリリッと、硬質な音を立てて噛み砕いた。
「……食ったら、さっさと出ていきな。ここはあんたみたいな余所者が長居する場所じゃねぇ」
「そう言うなや。この出汁の味、わしゃあ惚れたけえの」
坂上がニヤリと笑った、その時だった。
ドタドタドタドタッ――!!
静かな路地裏を揺るがすような、凄まじい勢いの足音が店へと近づいてきた。
それも、一つや二つではない。
何かから必死で逃げ惑うような、あるいは何かに猛烈に飢え狂ったような、ドタバタとした狂乱の足音――。
「た、助けてくださぁぁーーいッ!! 龍魔呂さぁぁーーんッ!!」
店の格子戸が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いでガラリと蹴破るように開け放たれた。
二人の男の静かな時間が、一瞬にして音を立てて崩壊する。
読んでいただきありがとうございます。
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