第一章 小料理屋『鬼龍』の邂逅と、金曜日の海軍カレー
抜錨、異世界の緩衝地帯へ
叩きつけるような暴風雨と、雷光が海を裂く轟音が、不意にぷつりと途切れた。
「――ッ、総員、衝撃に備え……っ!」
喉の奥から絞り出した己の怒号が、どこか遠い反響となって消えていく。
視界を埋め尽くしていたのは、艦橋のコンソールに点滅する無数の赤色警報と、海上に突如として口を開けた巨大な時空の歪みだったはずだ。艦隊打撃軍の総司令官として、部下たちを一人たりとも死なせまいと舵を握り直した瞬間の、あの魂が引き裂かれるような強烈な浮遊感――。
「……おいおい。ここは、どこのど田舎じゃ」
固い土の感触を背中に覚え、男――坂上真一(五十歳)は、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。
眼前に広がっていたのは、見慣れたイージス艦の防弾ガラスでも、灰色の曇天でもなかった。
雲ひとつない抜けるような蒼穹。その天球には、あり得ないことに、青白い輪郭を帯びた「二つの太陽」が並んで輝いている。頬を撫でる風は生温かく、鼻腔をくすぐるのは潮の匂いではなく、噎せ返るような濃い草いきれと土の匂いだった。
「……夢か現か。いや、夢にしては身体中がバキバキに痛むのう」
坂上は低く呻きながら、上半身を起こした。
無骨な手を首筋に当てて骨を鳴らし、深く息を吐き出す。
身長一八〇センチを超える屈強な体躯は、五十の坂を越えてなお鋼のように引き締まっている。身に纏っているのは、潮風に晒されてきた濃紺の将官用作業服。胸元に縫い付けられた階級章と名札は無事だ。背中には、若気の至りというにはあまりに凶悪な「仁王の刺青」が彫り込まれているが、今はその刺青が、まるで生き物のようにかすかな熱を帯びて微動だにしていた。
坂上は慌てず、騒がず、まず右腕の袖を捲り上げた。
巻かれているのは、長年愛用している【無骨なブロンズ製の機械式腕時計】だ。秒針は狂いなく時を刻んでいる。
次いで、胸ポケットと腰回りの装備を確認する。
将官用の身分証、真鍮のオイルライター、そして【青いパッケージの昭和煙草(銘柄:ブルー・ホープ)】が一箱。煙草の箱は少し潰れていたが、中身は折れていない。さらにポケットの奥から、個包装されたコーヒーキャンディが三粒と、小さな紙包みが出てきた。
包み紙の隙間から見えたのは、淡いピンク色の小さな飴玉――五歳になる愛娘・千姫が、出港の朝に「パパ、おまもりだよ」と小さな掌で握らせてくれた、大好物の苺ミルク飴だった。
「千姫……恵……」
最愛の娘の無邪気な笑顔と、メガバンクでバリキャリとして働きながら家庭を支えてくれる妻・恵の凛とした顔が脳裏をよぎる。
そしてもう一人、自らが手ずから北辰一刀流と地獄のシゴキを叩き込み、陸上自衛隊のレンジャーへと巣立っていった息子・信長(二十五歳)の頑固な面構え。
――親父、また無茶しとるんじゃないじゃろうな。
今にもそんな息子のドギツい広島弁が聞こえてきそうだった。
「……弱音を吐いとる暇は、微塵もなさそうじゃの」
坂上は小さく息を漏らすと、傍らに転がっていた一本の白樫の木刀を拾い上げた。
北辰一刀流の免許皆伝を得て以来、艦長室にすら持ち込んで素振りを欠かさなかった魂の得物だ。木刀の肌に狂いはない。
立ち上がり、四方の地形を冷徹な視線で見据える。
かつて荒れ果てた暴走族総長だった坂上を更生させ、国防の道へと導いてくれた恩人は言っていた。『感情で動くな、兵法で動け』と。
坂上の思考の根底には、常に五つの書物がある。
組織の慢心を戒め、最悪を想定する『近代海戦の教訓書』。
宮本武蔵が説いた「空」の境地と変幻自在の太刀筋を記す『五輪書』。
人の上に立つ者の道義と人情を教える『論語』。
国を背負う気概を育んだ近代の歴史小説。
そして、現場指揮官として兵を無駄死にさせず必勝を期すための『孫子』だ。
「『彼を知り己を知れば、百戦して殆からず』――孫子の初歩じゃな。まずは状況の把握、拠点の確保、そして補給線の確認じゃ」
坂上はブルー・ホープを一本唇に咥え、真鍮ライターで火をつけた。
カチッ、と硬質な金属音が静まり返った草原に響き、立ち上る紫煙を肺腑に深く吸い込む。昭和の無骨な煙草の苦味が、過熱しかけた脳を氷のように冷やしていく。
二つの太陽、未知の植生、そして地平の果てにうっすらと見える、巨大すぎる樹木の影。
ここが日本でも地球でもないどこか――いわゆる異世界の類であることは、歴戦の指揮官としての直感が即座に結論づけていた。
だが、絶望して膝をつくなどという選択肢は、坂上の辞書には存在しない。
「わしがくたばったら、誰があいつらのところへ帰るんなら。……死んでたまるかい」
紫煙を天に向けて吹き消し、坂上は草を掻き分けて歩き出した。
歩くこと小半刻。
緩やかな丘を越えたところで、土埃を巻き上げる轍の刻まれた一本の街道に行き当たった。
街道の向こうから、何かがやってくる。
坂上は街道脇の茂みに身を潜め、北辰一刀流の「気配遮断」を用いてじっと目を凝らした。
姿を現したのは、巨大なトカゲのような牽引獣が引く木造の大型荷車だった。御者台に座っているのは、長い耳を生やした小柄な獣人。積荷には「ゴルド商会」と見慣れぬ文字で刻まれた木箱が山積みにされている。
さらに、街道の先には、巨大な木製の防壁と見張り塔に囲まれた集落の輪郭が見えた。
「集落があるな。……じゃが、なんじゃありゃあ?」
坂上は思わず目を細めた。
集落の入り口には、木彫りの粗末な看板が掲げられている。
公用語とおぼしき文字の横に、親切にも絵文字が添えられていた。
『三大国緩衝地帯・超重武装農村 ポポロ村』
農村、という素朴な響きとは裏腹に、集落の周囲は明らかに異常だった。
のどかな麦畑の真ん中に、なぜかゴテゴテとした装甲を施された魔導戦車の残骸がトーチカ代わりに埋め込まれており、見張り塔の上には丸太のような口径の魔導重火器が据え付けられている。
通りを行き交う住民たちも一癖も二癖もある連中ばかりだ。上半身が筋骨隆々の人間で下半身が馬のケンタウロス族が重厚な盾を背負ってパトロールしており、広場の隅では真っ赤なトカゲ頭の竜人が、くしゃみと共に景気良く火柱を吹き上げて仲間から怒鳴られている。
「……武装農村とはよう言うたもんじゃ。下手な前線基地より物騒な面構えしとるのう」
坂上は苦笑を漏らしたが、同時に安堵もしていた。
これほど過剰な防衛網を敷いているということは、治安は悪いにせよ、集落の内側には確固たる自治と「生活」が存在している証拠だ。
敵か味方かも定かではない世界で、最初に行き当たる拠点としては上出来だった。
ぐうぅぅ――。
その時、坂上の腹が派手な音を立てて鳴いた。
「……いかんの。胃袋が空じゃと、孫子の兵法も頭に入らんわ」
時計を見れば、針はちょうど正午を指していた。
現世にいれば、今日はちょうど艦内が活気付く「金曜日」だったはずだ。
海上自衛隊において、金曜日の昼といえば決まっている。長期の航海で曜日感覚を失わないために全艦で一斉に炊き上げられる、あのスパイシーでコク深い「海軍カレー」の日だ。
休日に練馬の自宅でエプロンを締め、自作の萩焼の皿に盛り付けて家族に振る舞うカレーの味を思い出し、坂上は喉を鳴らした。
その瞬間だった。
坂上の胸の奥、そして背中の「仁王の刺青」が、ジワリと心地よい熱を放った。
脳裏に、自らの声ではない重厚な響きが木霊する。
《個体名・坂上真一:固有概念の定着を確認》
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】が覚醒しました》
「……あァ? なんじゃ、今の声は」
坂上は眉を顰め、背中を手で撫でた。刺青の熱はすぐに収まったが、どこか身体の芯に、揺るぎない「力」が満ちたような奇妙な感覚が残っている。
だが、今は頭でっかちに詮索している場合ではない。
「腹が減っては戦はできん。まずはあの村に入って、飯屋と情報収集じゃな」
坂上は作業服の襟を正し、白樫の木刀を腰に差すと、堂々たる足取りで茂みを出て街道へと歩み出た。
元暴走族総長にして、数千の将兵を率いてきた艦隊総司令官。背筋をピンと伸ばし、堂々と歩くその姿には、見知らぬ異世界の空の下であっても、周囲を威圧する圧倒的な「器」が宿っていた。
集落の大門をくぐると、土と硝煙の匂いに混ざって、様々な生活の匂いが漂ってきた。
露店で並ぶ得体の知れない果物、鍛冶屋から響く鉄を打つ音、酒場から漏れる粗野な笑い声。
異形の住民たちが、見慣れぬ紺色の服を着た巨躯の坂上を物珍しそうにチラチラと見てくるが、坂上が「おう、精が出るのう」と温厚かつドスの利いた笑顔で会釈を返すと、誰もが気圧されたように道を譲った。
その時だった。
風に乗って、坂上の鋭い嗅覚をくすぐる「匂い」があった。
「……ん?」
坂上は足を止めた。
それは、周囲の屋台が撒き散らしている油臭い串焼きや、安酒の饐えた匂いとは根本から異なっていた。
凛として澄み切った、極上の海の香り。
丁寧に灰汁を引いた昆布の滋味と、香ばしく削り上げられた鰹節が織りなす――紛れもない、本物の「和の出汁」の匂いだった。
「嘘じゃろ……この世界のど田舎で、この出汁の香気配……!?」
坂上の足は、吸い寄せられるように匂いの元へと向かっていた。
メインストリートから一本外れた、少し薄暗い路地裏。
喧騒から切り離されたその静かな一角に、周囲の荒くれじみた建物とは一線を画す、渋い焦げ茶色の格子戸を備えた一軒の店が佇んでいた。
軒先には、小料理屋にふさわしい小ぶりで清潔な藍色の暖簾が揺れている。
そこに染め抜かれた屋号の文字を見た瞬間、坂上は思わず目を瞠った。
『小料理・BAR 鬼龍』
店先には、手入れの行き届いた黒い大型魔導クルーザーが停められ、店の奥からは、クラシックのチェロが奏でる重厚で静謐なバッハの調べが微かに漏れ聞こえてくる。
「……鬼龍、じゃと?」
坂上は口元に不敵な笑みを浮かべた。
何やらとんでもなく不穏で、それでいて強烈に男の魂を惹きつける匂いがプンプンとする。
唇からブルー・ホープの吸い殻を外し、携帯灰皿に押し込むと、坂上真一は藍色の暖簾に力強く手をかけた。
「頼もう。――腹を空かせた親父が一匹、飯にありつけるかの?」
ガラリと格子戸を開けたその瞬間、運命の歯車が、音を立てて噛み合い始めた。
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