EP 10
夜想曲のカウンターで語られる「2人の息子」
泥沼夫妻の狂騒が嘘のように静まり返り、ポポロ村の路地裏には、冴え渡る秋の深夜の静寂が降りていた。
天球に浮かぶ二つの月が、澄んだ青白い光を石畳へと落としている。
表の藍色の暖簾はすでに仕舞われ、小料理・BAR『鬼龍』の店内は、天井から吊るされた真鍮の間接照明だけが白木のカウンターを淡く照らし出す、静謐な空間へと移ろっていた。
バックバーに並ぶガラス瓶が琥珀色の光を返し、空間の隅々にまで、ショパンの『夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作』が流れている。
哀愁を帯びたピアノの一音一音が、夜の空気に溶け、静かに胸を締め付けるように響いていた。
カウンターの奥では、バーテンダーコートを脱ぎ、黒のタートルネック姿に戻った鬼神龍魔呂が、氷を割るピックを置いてグラスを磨いていた。
百九十センチの筋骨隆々たる巨躯。その鋭利な彫りの深い横顔には、昼間の厨房で見せる厳しさとは違う、どこか物静かな翳りが差している。
一方、カウンターの端の丸椅子には、濃紺の将官用作業服の袖を捲り上げた坂上真一(五十歳)が、どっかと腰を下ろしていた。
厨房の洗い場には、今日一日で何百人もの腹を満たした大鍋と、坂上が丹精込めて轆轤を回した自作の『萩焼の深皿』が、一枚の狂いもなくピカピカに磨き上げられて積み重ねられている。
トシュッ……トシュッ……。
清潔な純白のリネンがグラスの底を滑る音だけが、ショパンの調べの合間に小さく鳴る。
坂上は手入れの行き届いた無骨なブロンズ製の機械式腕時計に目をやり、静かに息を吐き出した。
午前一時ちょうど。
胸ポケットから取り出したのは、青いパッケージの昭和煙草『ブルー・ホープ』だ。
一本を唇に咥え、無骨な真鍮製オイルライターを指先で弾く。
ほぼ同時に、カウンターの向こうで龍魔呂もまた、赤箱のハード煙草『クリムゾン・レッド』を咥え、同じ真鍮ライターを取り出していた。
――カチッ……シュポッ。
研ぎ澄まされた二つの金属音が、寸分の狂いもなく重なり合って店内に木霊した。
立ち上る小さな二つの炎が、五十歳の歴戦の将官と、二十五歳の若き弟子の面構えを柔らかく照らし出す。
深く吸い込まれ、ふわりと天へ吹き流される二条の紫煙。
ブルー・ホープの苦くも芳醇な昭和の香りと、クリムゾン・レッドの重厚な煙が、薄暗い照明の光芒の中でゆったりと溶け合っていった。
「……ほれ、たつまろ」
坂上は煙草を指に挟みながら、ポケットから小さな包みを指先で弾いた。
宙を舞ったのは、本格珈琲のコクを閉じ込めた『コーヒーキャンディ』。
龍魔呂は右手で音もなくそれをキャッチすると、代わりにガラス瓶から取り出した大粒の【角砂糖】を一粒、無言で坂上の前のコースターへと滑らせた。
「……交換だ、親父」
「おう、ありがたく頂戴するわい」
坂上は角砂糖を口に放り込み、奥歯で――ボリリッ、ガリリッと噛み砕いた。
純粋な甘みが口いっぱいに広がり、昭和煙草の苦味を優しく包み込んでいく。
龍魔呂もまた、珈琲飴の個包装を剥いて口へ放り込み、手元で磨き終えた重厚なロックグラスに、大きな丸氷をコロンと落とした。
バックバーから取り出したのは、樽熟成された琥珀色の美酒――『サケスキー』だ。
とくとくと注がれた黄金の酒が、丸氷を伝ってグラスの底を満たしていく。
「……飲めよ。泥沼のところまで出張して、腕を酷使しただろ」
トン、とカウンター越しに滑り出されたロックグラス。
坂上は笑みを浮かべ、分厚い手でグラスを受け取った。
氷をカランと鳴らし、一口喉を湿らせると、芳醇な木の樽の香りと穀物の熱さが胃袋を心地よく刺激する。
「美味い酒じゃのう。……沁みるわい」
坂上はカウンターの上に肘をつき、煙草の煙を見つめながら、ふっと目尻を下げた。
「昼間の泥沼夫妻の騒動……。奥さんの名前が『恵』じゃと聞いた時、心臓がトクンと跳ねたんよ」
「……奥さん、か」
龍魔呂がクリムゾン・レッドの灰をトントンと落としながら、静かに相槌を打つ。
「おうよ。現世の練馬に残してきた、わしの嫁さんの名前も恵(四十四歳)言うてな。メガバンクの幹部やっとるバリキャリで、頭が切れて、気が強うて、わしが暴走族上がりのアホな総長じゃった頃から、ずっとケツを叩いて支えてくれた本物の女傑よ」
坂上の口元に、懐かしさと深い敬愛が滲む。
「休日に家でエプロン着けてカレーを炊いとる時も、恵はリビングで書類をめくりながら『真一、隠し味の珈琲入れすぎじゃない?』なんて笑いよった。……あいつには、頭が上がらんわい」
「……へぇ。親父を尻に敷く女がいるとはな」
龍魔呂が微かに口端を吊り上げた。
坂上は豪快に笑い、作業服の胸ポケットから、もう一つの小さな紙包みを取り出した。
淡いピンク色の包み紙――愛娘・千姫(五歳)が、出港の朝に小さな掌で握らせてくれた『苺ミルク飴』だ。
「そして、この飴をくれたんが、末っ子の千姫じゃ。五歳になるんじゃが、もう目に入れても痛くないほど可愛うてのう。『パパ、いってらっしゃい、おまもりだよ』って、小さな手で渡してくれたんよ。……異世界に飛ばされて、二つの太陽を見上げた時、この飴の包み紙を見てどれほど救われたか分からんわい」
坂上の指先が、紙包みを慈しむようにそっと撫でる。
その横顔には、イージス艦長や艦隊司令官としての峻厳さはなく、ただ家族を心から愛する一人の父親の顔だけがあった。
そして――坂上は視線を上げ、カウンターの向こうに立つ龍魔呂の瞳を、じっと見つめた。
「……そして、もう一人おるんじゃ。長男の、信長がな」
「信長……。自衛隊でレンジャーをやってるっていう、息子か」
「おうよ。オドレと同じ、今年でちょうど『二十五歳』になる」
坂上はブルー・ホープの紫煙を深く吐き出し、遠い目をしながら語り始めた。
「高校の頃は甲子園で四番を打っとってな、身体能力だけは化物じみた男じゃった。じゃが、親父が自衛隊の艦隊司令官なんぞやっとるもんじゃから、周囲からは常に『坂上の息子』と見られとったんよ。それが悔しかったんじゃろうな。防衛大学校を出た後、わしのいる『海』じゃなく、一番泥臭い『陸』の道を選びおった」
「……陸、か」
「ああ。陸上自衛隊の最難関、レンジャー訓練を若くして突破しおったわい。……わしはな、あいつが幼い頃から、徹底的に北辰一刀流の木刀を叩き込んできた。顔を合わせれば道場でボコボコにシゴいて、手加減なんざ一切せんかった」
坂上は自らの硬い拳を見つめ、低く呟いた。
「『オドレはまだ地獄に浸かっとらん。兵士が地獄に浸かって進まんと、国民は守れんのじゃ!』――そう怒鳴りつけて、あいつの身体中をあざだらけにして追い込んだ。……厳しすぎる親父じゃったと思うわい」
「…………」
龍魔呂は何も言わず、静かに坂上の言葉を受け止めていた。
「じゃがな、たつまろ。あいつがどれほど憎まれ口を叩いてわしを睨みつけても、シゴきの夜には、わしは大鍋いっぱいに特盛りのカレーを炊いて待っとったんよ。あいつが胃袋いっぱい飯をかき込んで、無言で『ごちそうさま』と器を洗う背中を見るのが、親父としての誇りじゃった」
坂上はサケスキーを一口呷り、ふっと口元を緩めた。
「あいつは今でも、わしを超えようと必死で汗を流しとるはずじゃ。『親父の背中は遠い。じゃが俺が陸で地獄を喰い破らんと、この国は守れんのじゃ!』……そう吠えながら、部下の前で胸を張っとる頑固者よ。……不器用で、真っ直ぐで、誰よりも優しい、わしの自慢の息子じゃけえな」
ノクターンの切ない旋律が、二人の男の間にそっと流れていく。
龍魔呂は、手元のグラスを磨く手を完全に止めていた。
二十五歳。
信長という青年と、自分。
同じ歳、同じ頑丈な肉体、そして同じ「北辰一刀流」の木刀の重みを知る者。
だが、決定的な違いがあった。
信長には、過酷なシゴキの果てに帰る「家」があった。
泥だらけになって倒れても、大鍋に温かいカレーを炊いて待っていてくれる「親父」がいた。
自分には、それがなかった。
赤ん坊の頃に貧民街に捨てられ、父親の顔も知らず、七歳で母を亡くし、十歳で地下奴隷闘技場へ売り飛ばされた。
五年間、無敗の怪物として人をミンチにし続け、十五歳の冬、弟・ユウを冷たいゴミ捨て場で喪った。
誰も叱ってくれなかった。
誰も抱きしめてくれなかった。
血反吐を吐いて帰る場所など、この世界のどこにも存在しなかった。
「…………」
龍魔呂はポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、長年愛用している小さな銀色の金属の筒――一本の『ハーモニカ』だった。
龍魔呂はそれを静かに取り出し、布巾で丁寧に拭うと、唇へと当てた。
目を閉じ、深く、静かに息を吹き込む。
――ふぅぅぅ……。
店内に響き渡ったのは、チェロでもピアノでもない、素朴で、どこまでも澄み切った一音だった。
流れてきたのは、童謡――『シャボン玉』。
シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ……。
飛んで壊れて、消えてしまった……。
夕暮れの広場で、いつも村の子供たちを膝に乗せて吹いて聴かせていた曲。
生まれてすぐに壊れて消えてしまった幼い命を悼み、空へと還っていく魂を優しく見送る、祈りと鎮魂の調べ。
龍魔呂の胸の奥底で、幼い日の記憶が揺らめいていた。
寒さに震える掘っ立て小屋で、泥だらけの手を握り合っていた弟・ユウの笑顔。
「にいちゃん、お腹すいたね」と笑っていた、あのかけがえのない温もり。
そして――十五歳のあの日、守りきれずに冷たくなってしまった、小さな身体。
だが、今のその旋律には、かつてのような「呪詛」や「狂気」の濁りはなかった。
坂上の金曜カレーによって魂の氷を溶かされ、抱きしめられ、「オドレの地獄、わしが半分背負うちゃる」と告げられたあの日から、龍魔呂のハーモニカには、確かな「光」が宿っていた。
風になって飛んでいけ。
壊れて消えてしまった弟の魂へ、届くように。
そして、遠い異世界の空の下にいる、もう一人の「息子」へ届くように――。
「…………」
坂上は静かに目を閉じ、ブルー・ホープの紫煙を燻らせながら、弟子の吹く音色に耳を傾けていた。
胸郭の奥で、カチリと時計の針が進む。
背中の「仁王の刺青」が、微かな温もりを帯びて静かに脈動している。
(……ええ音じゃな、たつまろ)
血は繋がっていない。
生きてきた世界も、背負ってきた歴史もまるで違う。
だが、目の前で魂を込めてハーモニカを吹くこの若者は、間違いなく、自分が命懸けで守り、鍛え、導くべき「息子」だった。
やがて、最後の一音が夜の空気に溶け、静かにハーモニカが口元から離された。
静まり返る店内。
龍魔呂はハーモニカをポケットにしまうと、そっぽを向いて赤箱の煙草をもみ消した。
そして、掠れたハスキーな声で、ぽつりと呟いた。
「……親父」
「ん? なんじゃ」
「信長って奴は……きっと、アンタの自慢の息子だな」
その言葉に、坂上真一は破顔した。
ロックグラスをカウンターへ置き、立ち上がると、龍魔呂の頭にポンと太い掌を乗せ、力強くその黒髪をくしゃりと撫でてやった。
「当たり前じゃろうが! ……そしてな、たつまろ」
「……あ?」
「オドレもな、この坂上真一の……自慢の息子じゃいッ!!」
「――ッ」
龍魔呂の肩が、微かに跳ねた。
照れ隠しのように視線を逸らし、手元のガラス瓶から取り出した角砂糖を、奥歯で――ボリリッ、ガリリッと乱暴に噛み砕く。
「……甘ったるいこと言ってんじゃねぇよ、クソ親父。……酒が不味くなる」
「ガッハハハハハハハッ!! よう言うたわい! それでこそわしの弟子じゃ!」
坂上の豪快な笑い声が、夜想曲の流れる『鬼龍』の店内に心地よく響き渡った。
二つの太陽が昇る異世界のポポロ村。
迷い込んだ五十歳の艦隊司令官と、孤独だった二十五歳の元処刑人。
一杯の金曜カレーから始まった二人の歩みは、個性豊かな仲間たちを巻き込みながら、血よりも濃い家族の絆を確かに結び上げていた。
だが――。
平穏な日常の裏側、緩衝地帯ポポロ村の莫大な富と好景気を嗅ぎつけた「三匹のハイエナ」の影が、すぐそこまで忍び寄ってきていた――。
(第2章 完/第3章へ続く)
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