EP 9
泥沼夫妻の「精神汚染メロン」騒動
二つの太陽が傾き、午後の穏やかな光が差し込む小料理屋『鬼龍』。
厨房では、龍魔呂が手入れの行き届いた本焼き包丁を布巾で拭い、坂上真一が自作の萩焼の皿を棚に並べていた。
――カラン、コロン……。
店の格子戸が開き、甘い白檀の香りと共に、硬質な革靴の足音と小気味よい算盤の音が響いた。
「まいど……坂上はん、龍魔呂はん。……緊急の相談に乗ってほしいんや」
入ってきたのは、金糸の羽織を着たゴルド商会支店長ニャングルと、黒の燕尾服を着こなした人狼執事リバロンだった。
だが、いつもの軽妙な関西弁や優雅な微笑みとは打って変わり、二人の表情は酷く険しい。
「なんじゃニャングルの旦那、リバロンさん。深刻な面構えして、今度はどんな怪奇野菜が暴れ出したんなら?」
坂上が青い昭和煙草『ブルー・ホープ』を指に挟み、煙を吐き出しながら笑いかける。
リバロンが胸ポケットから一通の調査報告書を取り出し、カウンターへ静かに滑らせた。
「怪奇野菜どころではございません。……村の存立基盤に関わる、極めて悪質な家庭崩壊サスペンスが発生しております」
「家庭崩壊じゃと?」
「ポポロ村屈指の広大な農地を持つ豪農、農業法人を経営する『泥沼夫妻』の件です。夫の泥沼源蔵(五十歳)、そして妻の泥沼恵(四十五歳)……」
「……あん!? 恵じゃと!?」
坂上の眉がピクリと跳ね上がった。
現世の練馬に残してきた、メガバンク幹部でバリキャリの愛妻と同じ名前だ。
「おうおう、他人事とは思えん名じゃな。その泥沼夫妻がどうしたんなら?」
「……『メロロン』や」
ニャングルがキセルをガリッと奥歯で噛み、忌々しそうに吐き捨てた。
「金儲けのために、あの精神汚染作物『メロロン』のハウス栽培に手を出してもうたんや。メロメロにして人を狂わせる魔性のメロン……! 夫の源蔵は、ぽよんぽよん揺れるクイーンメロロンの『あなたのお水が一番好き……♡』いうキャバクラ営業に骨抜きにされて夜な夜なハウスに通い詰め、妻の恵はプリンスメロロンのホスト営業に狂乱してへそくりを高ランク液肥に全額注ぎ込んどる!」
「……あァ? メロンがキャバクラとホストをやってるだと?」
龍魔呂が眉間を寄せ、氷のような眼光を向けた。
手元の角砂糖をボリリッと噛み砕き、呆れたように息を吐く。
「馬鹿馬鹿しい。野菜に色恋営業仕掛けられて惑わされるなんざ、ただの阿呆だろ」
「笑い事やないで龍魔呂はん! メロロンのチャームは魂の奥底まで狂わせるんや! かつては村一番のおしどり夫婦で、手作りの肉椎茸ハンバーグを笑顔で分け合ってた仲やったのに……食卓が完全に崩壊して、今や二人が口にするのは『カチカチの生米と水道水』だけなんや!」
「生米と水……!?」
坂上の眼光が、カッと鋭い光を放った。
料理を、そして食卓を何よりも重んじる五十歳の父親にとって、その事態は見過ごせるものではなかった。
「外では補助金打ち切りと世間体を気にして、無理に腕を組んで笑顔を作る『仮面夫婦』を演じとるが、中身は冷戦状態のゾンビ同然や。……坂上はん、頼む。アンタのあの『魂を救う料理』で、あの二人を正気に戻してやってくれへんか!」
「……ふぅぅぅ……っ。話はわかったわい」
坂上はブルー・ホープをもみ消すと、純白の木綿エプロンをきりりと締め直した。
「食卓が腐った家庭は、国が滅ぶより先に心が死ぬ。……たつまろ、仕込み道具と出汁の寸胴を抱えぇや。泥沼農園へカチコミじゃいッ!」
「……了解だ、親父」
ポポロ村南部、見渡す限りの広大な農地が広がる泥沼農園。
その一角に建つ巨大な魔導ビニールハウスの前に立った瞬間、むせ返るような濃厚な果実の香りと、甘ったるいピンク色の蒸気が漂ってきた。
ハウスの扉を開けると、そこは異様な光景だった。
「源蔵パパぁ……♡ 今日も来てくれたのね? 私、あなたが来るのをずーっと待ってたの……。他のみんなには内緒よ? 源蔵パパのお水が、一番美味しいんだから……♡」
ぽよんぽよんと艶やかな果肉を揺らし、フェロモン全開の甘い声で囁いていたのは、網目模様が網タイツのように艶かしい『クイーンメロロン』だった。
その足元で、泥だらけの長靴を履いた五十歳の農夫・泥沼源蔵が、鼻の下を限界まで伸ばして高級ジョウロを抱きしめている。
「へへ……メロロンちゃん、可愛いよメロロンちゃん……! 女房の飯なんてもう食えねぇ! 俺の全財産でお前に最高級の液肥を注ぎ込んでやるからなぁ……!」
一方、ハウスの反対側では――。
「恵さん、今日も美しいね……。君の透き通るような肌は、泥にまみれるべきじゃないよ。さあ、僕の作った特製メロロン酒をお飲み……。嫌な現実なんて、全部忘れていいんだよ……♡」
涼やかなホストボイスを響かせる、スタイリッシュなヘタを生やした『プリンスメロロン』。
その前で、やつれ果てた四十五歳の妻・恵が、うっとりと頬を染めて財布から金貨をばら撒いていた。
「プリンス様ぁ……♡ あなただけよ、私の苦労をわかってくれるのは……! あの不潔な夫なんて視界に入れたくもないわ……!」
二人の足元には、タローマートの買い物袋から転がり出た、カチカチの生米と濁った水道水のコップが放置されていた。
互いに顔を合わせることもなく、虚ろな目でメロンにすべてを吸い取られている。
「うわぁ……ひっどい有様や……。完全に脳味噌が糖分で蕩けとるで……」
ニャングルが引きつった顔で耳を伏せる。
その時、侵入者に気づいたクイーンメロロンとプリンスメロロンが、ギロリと妖しい光を放ち、坂上と龍魔呂へ向けて濃厚なチャームフェロモンを噴射した!
「あらぁ……? 見慣れない屈強な殿方たちねぇ……♡ そこの厳ついオジ様も、綺麗な黒髪のお兄様も、私に甘えていいのよ……? 全部忘れて、メロメロになりなさいな……♡」
ピンク色の霧が二人を包み込む!
だが――。
ボリリッ、ガリリッ。
龍魔呂が、手元の角砂糖を無造作に奥歯で噛み砕いた。
立ち上る赤箱煙草『クリムゾン・レッド』の紫煙越しに、絶対零度の漆黒の双眸がメロンどもを射抜く。
「……消えろ。角砂糖以上の甘ったるい言葉なんざ、俺には虫酸が走るだけだ」
ヒュッ、と放たれた龍魔呂の殺気に、メロロンたちが「ヒィッ!?」と果肉を硬直させて震え上がった。
そして――坂上真一の背中に眠る「仁王の刺青」が、作業服を透かして黄金の神々しい熱を放った!
「オドレら、ええ加減にしとかんかいッッ!!!!」
ドォォォォォンッッ!!
坂上の怒号が、ハウスのガラスをビリビリと震わせた!
その一喝だけで、充満していたピンク色の幻惑霧が木っ端微塵に吹き飛ぶ!
「な、なんだぁアンタたちは……!? 俺とメロロンちゃんの愛の巣を邪魔する気かぁっ!?」
「そうよ! 警察を呼ぶわよッ!」
我に返った源蔵と恵が、血走った目で喚き散らす。
その夫婦の前に、坂上真一はドカッと歩み寄ると、仁王立ちになって二人を見据えた。
「源蔵さん、恵さん。……オドレら、鏡で自分のツラを見たことがあるんか?」
「な、何だと……!?」
「生米を齧り、水を啜り、虚飾の甘言に魂を売り渡して……それが、二人で汗水流してこのデカい農場を切り拓いてきた人間の顔かッ!」
坂上の声は、怒声でありながら、胸の芯を抉るような痛切な悲しみを帯びていた。
「『論語』に曰く――『巧言令色、鮮なし仁』じゃ! 口先だけの甘い言葉を並べ立てる者に、まことの情などありゃあせんのじゃい! オドレらが本当に腹を満たしたいんは、こんな作り物の甘味じゃないはずじゃろうがッ!!」
「う、うるさい! 他人に何がわかる! 俺たちはもう冷めきったんだよ!」
「……たつまろ! 板場を展開せいッ!」
「……応ッ!」
龍魔呂が手際よく、持ち込んだ調理台とコンロをハウスの中央へ据え付けた。
坂上は純白のエプロンを締め、銅鍋に火を入れる。
「かつて二人が愛し合った味……村で採れた『肉椎茸』のハンバーグじゃったな。――たつまろ、極上の肉椎茸を刻めいッ!」
「任せろ」
トトトトトトトッ!と、龍魔呂の包丁が閃いた。
肉厚でジューシーな肉椎茸が瞬く間に細かく刻まれ、牛すじ肉のミンチと合わせられる。
坂上が太い腕で力強くタネを捏ね上げ、空気を抜きながら手のひらで丸めていく。
熱した鉄板に落とすと――ジュワァァァァァッッ!!と、肉汁とキノコの暴力的なまでの旨味香が立ち上った!
さらにそこへ、坂上は大鍋の木蓋を外した。
何時間も炒め抜かれたあめ色タマネギの海。
龍魔呂が早朝から丁寧に灰汁を引いた至高の昆布・鰹出汁、そして数十種類のスパイスが溶け込んだ『金曜日の海軍カレー』の黄金ルーだ。
香ばしく焼き目をつけた肉椎茸ハンバーグを、その熱々のカレールーの海へと一気に投入する!
グツグツ、グツグツ……。
出汁と肉汁、そしてスパイスが渾然一体となって溶け合っていく。
その瞬間、坂上真一の背中に彫られた仁王が、黄金の極光を解き放った!
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】――権能①『母港の記憶』完全臨界発動》
《概念定着:【夫婦の原点】【食卓の温もり】【絶対の絆】》
「ほれッ! 坂上特製――『肉椎茸の煮込みハンバーグ海軍カレー』じゃいッ!! 冷めんうちに食いさらせぇぇぇいッッ!!」
ドンッ! ドンッ!
自作の【萩焼の深皿】に盛られた熱々のカレーが、源蔵と恵の目の前へ叩きつけられた。
淡い枇杷色の器の上で、ふっくらと煮込まれた巨大な肉椎茸ハンバーグが湯気を吹き上げ、黄金のルーが艶やかに輝いている。
「な……っ!? こ、この香りは……っ!?」
源蔵の鼻腔を、香ばしい肉とキノコの匂いが貫いた。
恵の喉が、激しく鳴る。
抗いがたい本能に突き動かされ、二人は震える手でスプーンを握り、ハンバーグを割った。
ジュワリと溢れ出す肉汁と、出汁の効いた濃厚なルー。
そのまま、夢中で口の中へ放り込む――!
「――ッッ!?!?!?!?!?!?」
落雷を浴びたかのように、二人の身体が硬直した。
舌の上で弾けたのは、肉椎茸の圧倒的な弾力と、大地と肉の野性味あふれる旨味。
それを包み込む、あめ色タマネギの奥深い甘みと、龍魔呂の引いた和風出汁の優しさ、そしてスパイスの鮮烈な熱気。
だが――二人の胸を激しく締め付けたのは、味の美味さだけではなかった。
ドォォォォン……ッ。
坂上の『母港の記憶』が、二人の大脳にこびりついていたメロロンの精神汚染を、一瞬にして消し炭にしたのだ。
脳裏に溢れ出してきたのは、三十年前の記憶――。
貧しくて、何もない荒野を、二人で鍬を振るって開墾した日々。
初めて収穫できた小さな肉椎茸を、狭い台所で恵がハンバーグにしてくれて、源蔵が「美味い、世界一美味いぞ恵!」と泣いて喜んだ、あの夕暮れの食卓。
互いの手を握り合い、「二人で日本一……いや、大陸一の農家になろうな」と誓い合った、あの温かい笑顔――。
「……あ……あぁ……っ」
源蔵の手から、スプーンがポロリと落ちた。
目から、滝のような涙が溢れ出し、泥だらけの頬を伝い落ちる。
「恵……恵……! 俺は……俺は何をとち狂ってたんだ……っ! メロンなんかにうつつを抜かして……お前を放り出して、生米なんか食わせて……! すまねぇ……すまねぇ恵ぇぇぇっ!!」
「あなた……! あなたぁぁっ……! 私の方こそ……寂しさに負けて、あなたを責めてばかりで……! ごめんなさい、あなたぁぁぁっ!!」
二人は萩焼の皿を挟んで、抱き合って号泣した。
三十年の歳月で積み重なった心の澱が、坂上のカレーがもたらす「家庭の温もり」によって、完全に溶け去っていく。
「ぎゃあああっ!? チャームが解けたぁっ!?」
「不味いわ、愛の逃避行ビジネスが破綻したわぁっ!」
慌てふためくクイーンメロロンとプリンスメロロン。
そこへ、背後から音もなく滑り込んだ影があった。
バサァッッ!!
リバロンの放った二枚のテーブルクロスが、メロロンたちを瞬時にぐるぐる巻きに拘束する!
「確保いたしました。……精神汚染作物の無認可栽培および詐欺的婚姻破綻誘発罪として、全数出荷制限、ならびにゴルド商会の厳重管理下における『高級フルーツパーラー用食材』への強制転換手続きを執行いたします」
「へへっ、まいどあり! チャームの抜けたメロロンは、ムーンキャピタルの貴族共に金貨百枚で売り捌いたるわ!」
ニャングルがパチンと算盤を弾いて不敵に笑う。
夕闇が迫るハウスの中で、源蔵と恵は涙を拭いながら、残りのカレーを一粒残さず綺麗に平らげた。
そして、坂上真一の前に深々と頭を垂れた。
「坂上さん……龍魔呂さん……。本当に……本当にありがとうございました……! 俺たち、もう一度、二人で笑い合える食卓を一からやり直します!」
「おうよ! 夫婦喧嘩なんぞ、美味い飯を一緒に食やあその日のうちに解決じゃ! 源蔵さん、恵さん、これからも村のために美味い野菜をいっぱい作ってくれぇや!」
坂上が豪快に笑い飛ばし、ポンと二人の背中を叩いた。
横で見ていた龍魔呂も、赤箱煙草の煙をふわりと吐き出しながら、手元の角砂糖をボリリッと噛み砕いて微かに口元を緩めた。
家庭の危機を救い、また一つ、温かい絆を取り戻したポポロ村。
だが、この夜の営業の後――静まり返る『鬼龍』のカウンターで、坂上と龍魔呂は、それぞれの胸の奥に眠る「大切な息子」への想いを、深く静かに交錯させることになるのだった――。
読んでいただきありがとうございます。
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