EP 7
フェイトの特務哨戒と、北辰一刀流の稽古
東の地平線が白み始め、夜の紫紺が淡い群青へと溶け出す未明。
二つの太陽が昇る直前のポポロ村は、凛とした朝露の冷気と、静謐な静寂に包まれていた。
村外れ、自警団の演習場として使われている荒れた平地。
立ち込める朝霧を鋭く切り裂いて、空気を震わせる乾いた打撃音が響き渡っていた。
――バシィィィィンッッ!!
踏み込み一歩で、足元の硬い土が円形に爆ぜる。
糊のきいた白い調理服の袖を捲り上げ、百九十センチの偉丈夫――鬼神龍魔呂(二十五歳)が、低空から電光石火の右掌底を突き出していた。
無駄な力みを一切削ぎ落とし、大気中の闘気を一点に凝縮させた剛撃。触れれば大樹すら根本からへし折る破壊力を秘めたその一打を――。
トン……。
正面に立つ巨躯――坂上真一(五十歳)は、手にした一本の【白樫の木刀】の平で、そっと撫でるように受け止めていた。
激突音すらない。
龍魔呂の放った破壊エネルギーのベクトルが、木刀の微細な傾きと、坂上の半歩の体捌きによって、まるで滑り台を滑り落ちる水のように虚空へと受け流される。
「……っ!?」
重心を前へと引っ張られ、龍魔呂の体勢がわずかに前のめりになる。
その刹那、坂上の木刀の切っ先が、音もなく龍魔呂の喉元一寸の位置でピタリと静止していた。
「……まだ力が入っとるのう、たつまろ。拳の威力は申し分ないが、当てにいこうとする色気が気配に出とる。宮本武蔵の『五輪書』に言う『有るを空とおもひ、空を有とおもふ』じゃ。打つ前から打つ気配を消し去って、己の身体を『空』にせんと、真の達人には通じんぞ」
濃紺の将官用作業服の襟を正し、坂上は穏やかな広島弁で告げた。
腕に嵌めた無骨なブロンズ製の機械式腕時計が、カチリと秒針を進める。
呼吸の乱れは微塵もない。背筋をピンと伸ばしたその立ち姿は、荒波の上で水平を保ち続ける戦艦の艦橋そのものだった。
「……チッ。空、か。……頭じゃわかってても、体が敵を仕留めにいっちまう」
龍魔呂は切っ先から視線を外し、荒い息を吐きながら身を引いた。
彫りの深い端正な顔立ちに、じわりと汗が滲んでいる。
ポケットから取り出した大粒の【角砂糖】を口に放り込み、奥歯で――ボリリッ、ガリリッと噛み砕いた。
悔しげに眉間を寄せる弟子に対し、坂上は破顔してポケットから真鍮ライターを取り出した。
青い昭和煙草『ブルー・ホープ』を一本咥え、カチッ、シュポッと火を灯す。
「ガハハ! 焦るなや。オドレの鬼神流の剛拳に、北辰一刀流の脱力と間合いの支配が馴染んできたら、それこそ手がつけられん化け物になるわい。……ほれ、一本いくかの?」
「……ああ」
龍魔呂も赤箱の『クリムゾン・レッド』を取り出し、愛用の真鍮ライターで火をつけた。
二条の紫煙が朝霧の中へふわりと立ち昇り、混ざり合っていく。
――その時だった。
カチャリ……カチャリ……。
演習場の外周、土手の草を踏み分ける金属音が近づいてきた。
夜通しの特務哨戒を終えたばかりの男――フェイト・ラック(二十五歳)が、大振りのミスリルソードを背負い、気怠げに歩み寄ってきたのだ。
薄いミスリルアーマーを着流し、口元には安価な『ポポロ・シガレット』を咥えている。
だが、その右手では、いつものようにピカピカと光る銀貨が、ピン、ピンと虚空を舞っていた。
「……ふぁ〜あ。だりぃ……。夜勤明けの身体に、朝っぱらから演習場の土埃は目に染みるぜ……」
フェイトはあくびを噛み殺しながら銀貨をキャッチし、演習場の中央を見やった。
そして――その足が、ピタリと止まった。
「…………おいおい、マジかよ」
咥えていたシガレットが、唇からポロリと落ちそうになる。
フェイトは元A級冒険者だ。
幾多の迷宮を突破し、数々の凶悪な魔獣や手練れの暗殺者と刃を交えてきた歴戦の戦士である。
だからこそ、目の前の光景の「異常さ」が、肌を粟立たせるほど克明に理解できてしまった。
演習場の地面。
龍魔呂の踏み込みによってクレーターのように抉れた土塊と、坂上が木刀一本で受け流した際に巻き起こった衝撃波で、周囲三十メートル四方の朝霧がドーナツ状に完全に消し飛ばされていたのだ。
何より、紫煙を燻らせて佇む二人の男から放たれている、目に見えぬ「重圧」。
片や、通常時でも三百五十馬力を誇る破壊の処刑人。
片や、数千の将兵の命を預かり、北辰一刀流免許皆伝の武を宿す不沈の艦隊司令官。
「……おいおいおい。俺、まだ酒が抜けてなくて幻覚でも見てんのか? 早朝の軽い稽古で、なんで地形が改変されてんだよ……」
「おう、若いの! 夜通しの哨戒、ご苦労さんじゃったな!」
坂上がフェイトに気づき、豪快な笑顔で手を挙げた。
濃紺の作業服の胸元からブルー・ホープの煙を吹き出し、手招きする。
「ちょうどええところに来たわい。フェイト言うたな。オドレも今年で二十五歳、たつまろやうちの息子の信長と同い年じゃろうが。……どうじゃ、夜勤明けの身体をほぐすのに、一本竹刀を交えていかんかの?」
「げっ……!? お、俺と稽古ぉ!?」
フェイトの顔からサァッと血の気が引いた。
ぶんぶんと両手を激しく横に振る。
「勘弁してくれよ真一さん! 俺はただの月給三十万円のしがない自警団員だぜ? あんな岩盤を粉砕するような怪物師弟の間に割り込んだら、俺の骨が何本あっても足りねぇよ!」
「……逃げるのか、冒険者」
そこへ、冷酷無比なハスキーボイスが突き刺さった。
龍魔呂が赤箱の煙草をもみ消し、氷のような双眸でフェイトを射抜く。
指先で弄んでいた真鍮ライターを、静寂の中に――カチッ……シュポッ、と鳴らした。
「……元A級の看板を掲げておいて、稽古の一本も受けられないとは情けねぇな。親父の木刀は、そこらの魔獣の爪より余程ためになるぞ。……それとも、ビビって足が竦んでるのか?」
「ぐっ……! り、龍魔呂、てめぇ……!」
煽られたフェイトの額に、ピシリと青筋が浮かんだ。
根は実力派の剣士であり、プライドがないわけではない。
フェイトは不敵に口元を吊り上げると、右手の親指に乗せた銀貨を、チャリンと高く弾き上げた。
「へっ……! そこまで言われちゃ、男が廃るってもんだぜ! ただし、俺はギャンブラーだ! 真っ向勝負なんてガラじゃねぇ! ――俺のユニークスキル【コイントス】!!」
ヒュルルルルルッ!と回転しながら宙を舞う銀貨。
フェイトの全身から、ギャンブル特有の昂揚した闘気が立ち上る!
「表が出たら、俺の能力値と運気は『二倍』! 身体強化が二倍になれば、オッサン相手だろうが龍魔呂だろうが一撃で場外へ吹き飛ばせる! 行くぜ、俺の運命のコイントス……ッ!!」
パシィッ!!
フェイトのミスリル籠手の上へ、銀貨が鋭い音を立てて落ちた。
固唾を呑んで覗き込むフェイト。
示されたのは――。
パタリ。
……見事なまでの『裏』だった。
「…………」
シィィィィン……と、朝の演習場に静寂が落ちる。
次の瞬間、フェイトの膝がガクガクと震え出し、その場に崩れ落ちるように腹を押さえた。
「う……うぅぅ……ッ! き、急に……急に右足の小指の爪の付け根が激痛に襲われて、熱が四十度くらい出てきた……! す、すまん真一さん、龍魔呂……! 親友の従兄弟の隣のおばさんの友達の飼い犬の、そのまた近所の野良猫の葬式に行かなきゃならねぇから、今日の稽古は辞退させてくれ……ッ!!」
「もう関係ないじゃろがいッッ!!!!」
ドッガァァァァァンッッ!!
坂上のドスの利いたド直球の広島弁怒号が、雷鳴のように演習場を揺るがした!
疾風のごとく間合いを詰めた坂上の白樫の木刀が、地面に突っ伏していたフェイトの尻へ、寸分の狂いもなく【愛あるケツバット】として叩き込まれる!
バシィィィィンッッ!!
「ぎゃあああああああッ!? 痛ぇぇぇぇッ!? なんでミスリルアーマーの上からダイレクトに骨まで響くんだよぉぉッ!?」
ケツを押さえて三メートル跳ね上がるフェイト。
「当たり前じゃろうがッ! 北辰一刀流の勁力を舐めるんじゃないわいッ!」
坂上は仁王立ちになり、木刀の切っ先をビシッとフェイトの鼻先へ突きつけた。
その眼光には、ふざけた言い訳を絶対に許さぬ、歴戦の指揮官たる峻厳な威光が宿っている。
「オドレ、剣の腕も体術もA級と聞き及んどるが、なんじゃその体たらくは! 戦う前からコインなんぞに己の命運を預けてどうするんなら! 『孫子』に曰く――『勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひ、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝を求む』じゃ! 勝つ者はな、戦う前の準備と鍛錬で勝敗を決めておくんじゃ! 一か八かの運に逃げる奴を、戦士とは呼ばんのじゃいッ!!」
「う、うぐっ……!」
坂上のド正論の喝に、フェイトはぐうの音も出ない。
坂上は木刀を下段に構え直すと、静かに告げた。
「ミスリルソードを抜け、フェイト。スキルなんぞ使わんでええ。オドレが今まで血反吐を吐いて磨いてきた、本物の腕前でかかってこい! わしが全部、受け止めちゃるけえ!」
「……チッ。そこまで言われちゃ、引き下がれねぇよな!」
フェイトの瞳から、ギャンブルの濁りが消えた。
背中から大振りのミスリルソードを一息に引き抜く。
ジャキィンッ!と、朝日に反射して白銀の刀身が眩い光を放った。
構えは中段。
足の幅、肩の脱力、剣先の微動だにしない安定感――それは、数々の修羅場をくぐり抜けてきたA級冒険者そのものの、研ぎ澄まされた実力だった。
「行くぜ、真一さんッ!!」
ザッッ!!
フェイトの身体がブレた。
スキルなしでの最高速度の踏み込み。
ミスリルソードが空気を切り裂き、鋭利な横薙ぎとなって坂上の胴を両断せんと迫る!
速い。太刀筋に一切の迷いがない。
しかし――。
「……腕は確かじゃ。じゃが、踏み込みが半歩浅い喃!」
カンッ!!
坂上は左足をわずかに軸にして半回転し、紙一重の差で刃筋をかわすと、白樫の木刀でミスリルソードの峰を軽く叩いた。
ただそれだけで、フェイトの渾身の一撃は軌道を外へと跳ね上げられ、両腕に強烈な痺れが走る!
「なっ……!? 剣の重さが……消えた!?」
「『五輪書』の空の太刀じゃ。相手の力と正面から喧嘩するんじゃない。流れを読み、その先を制するんよ!」
坂上の木刀が、電光石火の速度でフェイトの小手、肩口、そして胴へと、寸止めの連撃を叩き込んでいく!
パシィン! トン! パシィッ!
「ぐわっ……! くそっ、見えねぇ……ッ!」
フェイトは必死にミスリルソードを振り回すが、坂上の足捌きを捉えることすらできない。
五十歳の中年男の動きとは思えない。
まるで、巨大な荒波のうねりそのものに翻弄されているかのような絶望感。
「そこだ、フェイト」
背後から、低く鋭い声が響いた。
振り返る暇もなく、横合いから滑り込んできた龍魔呂の掌底が、フェイトの背中のミスリルアーマーを軽く叩いた!
ドォンッ!
「あがっ!?」
衝撃波が通り抜け、フェイトは前方へとつんのめり、土煙を上げて地面へと転がった。
手からミスリルソードが滑り落ち、砂の上に転がる。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……! ま、参った……! 完敗だ……ッ!!」
大の字に倒れ伏し、フェイトは天を仰いで息を吐き出した。
全身の筋肉が心地よい疲労で軋んでいる。
だが、その瞳には、先ほどまでの気怠さは欠片も残っていなかった。
「……すげぇな、あんたたち。龍魔呂の素手の打撃もヤバいが、真一さんの木刀……あんなの、帝国の近衛騎士団長だって受け切れねぇぞ」
フェイトは起き上がり、土を払いながら、心底からの敬意を込めて呟いた。
村の治安維持を任された遊撃戦力として、フェイトはずっと懸念していたのだ。前村長の資金持ち逃げ、三大国の国境の睨み合い、そしていつ押し寄せてくるかも知れぬ凶悪な外敵。
だが――目の前の二人の存在が、その不安を完全に粉砕していた。
(この二人が並び立ってる限り……このポポロ村は、帝国の正規軍が一個師団攻めてきてもビクともしねぇぞ……ッ!)
戦力が次元を超えた。
もはや一介の農村の防衛力などという生易しい規模ではない。
絶対不沈の要塞が、この二人の師弟によって完成しつつあった。
「ガハハ! よう動いたのう、フェイト! オドレ、運に頼らん時の剣筋は、見事なもんじゃぞ! うちの息子の信長に見せてやりたいくらいじゃわい!」
坂上は豪快に笑いながら木刀を腰に差し、倒れていたフェイトへ太い手を差し伸べた。
その手を掴んで立ち上がったフェイトへ、龍魔呂が冷たい麦茶の入った水筒を無言で放ってやる。
「……飲め。汗をかいた後に一気に煽ると、胃が痙攣するぞ」
「へへっ、サンキュー龍魔呂。相変わらず不器用な優しさだな」
フェイトが麦茶をごくごくと喉を鳴らして飲み干した、その時だった。
ぐうぅぅぅぅぅ……と、フェイトの腹が情けない音を立てて鳴いた。
「……あ。そういや、昨日の昼から何も食ってねぇや」
「ガハハハハ! そうじゃろう、そうじゃろう! しっかり身体を動かした後は、胃袋が美味い飯を呼ぶんじゃ!」
坂上はポンと手を叩き、自作の萩焼の器を思い浮かべながら破顔した。
「たつまろ! 朝の仕込みに戻るぞ! 今朝は、昨日のおでんの極上出汁を使った『ピラダイと月見大根の出汁茶漬け』じゃけえの! フェイト、オドレも腹いっぱい食うていきぃや!」
「……ああ。出汁巻き卵も焼いてやる。残したら、そのミスリルソードをへし折るからな」
「へへっ、望むところだ! コイントスで負けても、飯が美味けりゃ最高の朝だぜ!」
朝焼けに染まるポポロ村の空の下、三人の男たちの笑い声が心地よく響き渡る。
二つの太陽が昇り始め、小料理屋『鬼龍』の煙突から、温かな出汁の湯気がふわりと立ち上っていった――。
読んでいただきありがとうございます。
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