EP 6
筋肉トカゲ・イグニスの涙と、大親父の特盛りおでん
二つの太陽が西の山並みの向こうへと沈み、冷え込みの厳しい秋風が、ポポロ村の広場を吹き抜けていた。
自警団詰所の裏手、吹きさらしの土砂置き場の片隅に、ホームセンター『タローマン』のロゴが色褪せた、一張りの三人用耐火ドームテントがポツリと佇んでいる。
「……く、くそっ……。日が落ちると、急に冷え込んできやがるぜ……」
テントの薄い布地の中で、身長二メートル近い筋骨隆々の竜人――イグニス・ドラグーン(二十五歳)は、膝を抱えてガタガタと震えていた。
頭部に生えた真紅の硬質な角、全身を覆う頑強な赤鱗、太いトカゲの尻尾。
本来ならば単体で百馬力以上の怪力を誇り、軽装甲車すら両断する突撃兵であるはずの男が、いまや泥で汚れた作業着を掻き抱き、凍える指先を必死に息で温めている。
かつては村の単身者向けアパート『ポポロ・コーポ』に入居していた勝ち組だった。
だが、入居初日、就寝中の生理現象のくしゃみで水平方向へ千五百度の超高熱ブレスを盛大に放射。部屋の壁、畳、備え付けの家具をわずか〇・三秒で炭鉱のように全焼させ、激怒した自警団長マンミアにパイルバンカーを突きつけられて即日叩き出されたのだ。
敷金没収、アパート修繕費用の天引き、さらに公共事業での破壊行為の弁償代が毎月引かれ、手元に残る現金は手取り十四万円。
家賃を浮かせるためにこの耐火テントを広場に張り、冬は凍死寸前、夏は蒸し風呂という過酷なホームレス生活を送っていた。
「……腹、減ったなぁ……」
ぐうぅぅぅぅぅ……と、胃袋が地鳴りのような音を立てて悲鳴を上げる。
イグニスは震える手で、タローマンの折りたたみテーブルの上に置かれたコンビニ『タローソン』のレジ袋を引き寄せた。
中に入っていたのは、賞味期限ギリギリで五十円引きのシールが貼られた、カチカチに冷めきった『パサパサ肉椎茸弁当』。
電子レンジで温める魔石代すら惜しいため、体内で微弱な火炎を灯して掌を温め、弁当のプラスチック容器を無理やり加熱しようと試みる。だが、力加減を誤って容器の底がドロリと溶け、焦げたビニールの嫌な臭いが立ち込めた。
「あぁっ! 容器が溶けちまった……! くそっ、なんで俺様がこんな目に遭わなきゃならねぇんだよ……!」
イグニスは涙目になりながら、テントの隅に飾られた一枚の紙片を見つめた。
それは、村の印刷工房でなけなしの小遣いを払って作ってもらった、魔導フォトショ合成写真だった。
帝都の超高級ホテル『ルナミス・リッツ』のバルコニーの絵葉書に、自分の笑顔をハサミで切り貼りした粗悪な偽造写真。
裏面には、故郷の「竜人の里」へ毎月送りつけている手紙の控えが、震える筆跡で書かれている。
『親父! お袋! 俺様は今、大陸一危険な要塞都市ポポロ村の「防衛最高幹部」として、要塞のバルコニーでワインを傾けてるぜ! 来月には広場に俺様の純金像が立つ予定だから、里の連中にも自慢していいぞ!』
「……嘘八百じゃねぇかよ……」
イグニスの爬虫類のような瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ち、冷たい土間を濡らした。
純金像どころか、雨風をしのぐ屋根すらない。
手取り十四万のテント暮らしで、冷たい泥水を啜り、毎晩寒さに震えながら見切り品の弁当を齧る日々。
里を飛び出す時に「英雄になって錦を飾る」と大見得を切った手前、本当のことなど死んでも言えるはずがなかった。
「寒いよぉ……腹減ったよぉ……母ちゃんの作った山菜鍋が食いてぇよぉ……」
二十五歳の屈強な大男が、耐火テントの隅で膝を抱え、情けなく鼻をすすり上げた――その時だった。
ふわり……。
テントの隙間から吹き込んできた隙間風に乗って、暴力的なまでに芳醇な「匂い」が漂ってきた。
鼻腔を突き抜ける、刺激的でスパイシーな数十種類の香辛料の薫り。
そして――それを根底から支える、気絶するほどに濃厚で優しい、和の出汁の匂い。
丁寧に灰汁を引いた昆布の滋味、燻煙された鰹節の力強いコク、そしてじっくりと煮含められた大根と醤油の香ばしさ――。
「……っ!? な、なんだこの神の供物みたいな匂いは……!?」
イグニスの真っ赤な鼻が、ピクピクと激しく痙攣した。
寒さで凍りついていた大脳が一瞬で覚醒し、口内からダムが決壊したかのように大量の涎が溢れ出す。
たまらずテントのジッパーを開け、這い出るようにして外へ顔を出した。
薄暗い広場。
冷たい夜風の中、こちらへ向かって歩いてくる、二つの巨大な影があった。
「おう、トカゲの兄ちゃん。やっぱりここにおったか」
ドスの利いた、だがどこまでも温かい広島弁が、静寂を破った。
歩み寄ってきたのは、濃紺の将官用作業服の袖を捲り上げ、純白の木綿エプロンをきりりと締めた男――坂上真一(五十歳)だった。
口元には青いパッケージの昭和煙草『ブルー・ホープ』が燻り、手入れの行き届いた無骨なブロンズ製の機械式腕時計が月光を浴びて鈍く光っている。
その両手には、湯気をもうもうと噴き上げる巨大な銅鍋が抱えられていた。
そして、その真横に並び立っていたのは――。
糊のきいた純白の調理服を着こなした、百九十センチの偉丈夫・鬼神龍魔呂(二十五歳)だった。
口には赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を咥え、片手には大きな木箱と、ほかほかの白飯が詰まった特大の飯びつを軽々と提げている。
「だ、大親父……!? それに、若頭(兄貴)まで……ッ!?」
イグニスは腰を抜かさんばかりに目を丸くした。
龍魔呂が視線を向けた瞬間、イグニスの身体が条件反射で「直立不動の直角お辞儀」へと跳ね上がる!
「こ、こんばんはっす! 俺様、火気は一切使ってねぇっす! テントの布も焦がしてねぇっすぅぅッ!!」
「……やかましいぞ、トカゲ。夜の広場で大声を出すな」
龍魔呂は低くハスキーな声で告げると、ポケットから取り出した大粒の【角砂糖】を口へ放り込み、奥歯で――ボリリッ、ガリリッと威嚇するように噛み砕いた。
その硬質な音にイグニスが「ヒッ……!」と喉を鳴らして縮み上がる。
「ガハハ! たつまろ、そう脅すなや。……ほれ、イグニス言うたな。昼の仕込みの時に、オドレが遠くから腹を空かせた野良犬のような目で『鬼龍』の寸胴を見つめとったのを、このわしが見逃すはずなかろうが」
坂上は豪快に笑いながら、タローマンの折りたたみテーブルの上へ、ズシリと重みのある銅鍋を置いた。
そして、龍魔呂が持ってきた木箱から、一枚の巨大な器を取り出す。
それは、淡い枇杷色の肌に、土の素朴な温もりを宿した、坂上の自作【萩焼の特大深鉢】だった。
通常の丼の二倍以上はある、すり鉢のような特大サイズだ。
「男が腹を空かせて震えとる姿ほど、見苦しいもんはありゃせん。『孫子』にもあるが、兵站(補給)を欠いた軍は戦う前に自滅するんじゃ。……オドレがこの村の防空と開墾を担う突撃兵なら、親父の手料理で胃袋を満たすんが筋道じゃろうが」
パカッ、と銅鍋の木蓋が開け放たれた。
ボシュゥゥゥゥッッ!!
夜の寒気を一瞬で春の陽だまりに変えてしまうほどの、凄まじい熱気と香気が爆発した!
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッッ!!」
イグニスの口から、魂の叫びが漏れた。
大鍋の中で踊っていたのは、極限まで旨味を吸い込んだ『染み染み月見大根の煮込みおでん』だった。
角が見事に面取りされ、中心まで琥珀色の出汁が浸透して飴色に透き通った巨大な月見大根。
ピラダイの骨から取った野性味ある出汁を吸ってパンパンに膨らんだ厚揚げ、黄金色の出汁を纏った茹で卵、手作りのピラダイ極上つみれ、そしてトロトロになるまで煮込まれた牛すじ風の角煮塊。
坂上は真鍮のお玉を握ると、その具材を萩焼の特大鉢へ、山のように盛り付けていく。
さらに、龍魔呂が差し出した特大どんぶりの白米の上に、寸胴の底からすくい上げた――あめ色タマネギとスパイスが凝縮された『金曜日の海軍カレー』の濃厚な黄金ルーを、並々と豪快に回しかけた。
ドンッ!! ドンッ!!
テーブルの上に並べられた、総重量三キロを超える『特盛りおでん鉢』と『特大カレードンブリ』!
「ほれ、食いさらせぇいッ! 残したら、木刀でケツ百叩きじゃけえの!」
「……残すなよ、トカゲ。親父が朝の四時から仕込んだ極上もんだ。一粒でも残したら、そのツノをへし折るぞ」
龍魔呂が赤箱の煙草をもみ消し、氷のような、だが温かい目で割り箸を突き出した。
「い、いただき……いただきますっすぅぅぅーーッッ!!」
イグニスは両手で割り箸をもぎ取るように割ると、まずは特盛りおでん鉢の中央に鎮座する、握り拳大の月見大根へと箸を突き立てた。
何の抵抗もなく、スウッと刃が吸い込まれる。
割れ目から、湯気と共にジュワジュワと溢れ出す黄金の出汁。
ハフハフと息を吹きかけ、一口でその半分を口の中へ放り込んだ!
「――ッ!?!?!?!?」
噛み締めた瞬間、イグニスの脳内で何かが爆発した。
ジュワァァァァァッ!と、大根の繊維の奥深くに閉じ込められていた熱々の出汁が、まるで鉄砲水のように口内いっぱいに弾け飛んだのだ。
昆布の上品な甘み、鰹節の力強い芳香、ピラダイの海の旨味、そして大根そのものが持つ大地の滋味。
下茹でで完全に灰汁を抜かれ、隠し包丁を施された大根は、噛む必要すらないほどホロホロと舌の上でとろけていく。
「んんんんんんんんまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッッッッ!!!!」
夜空を切り裂くようなイグニスの絶叫!
続け様に、出汁を吸い尽くしてふっくら膨らんだ厚揚げを頬張り、煮卵を口へ放り込む。
白身はぷるぷると弾力を保ち、半熟の黄身に出汁の塩気が完璧に染み渡っている。
さらに、坂上の金曜海軍カレーをスプーンで山盛りにすくい上げ、熱い白米ごとかき込んだ!
「――ッッッッ!!!!」
鮮烈なスパイスの刺激が鼻腔を突き抜け、あめ色タマネギの重厚な甘みと、隠し味の珈琲のコクが喉を焼き焦がすように胃袋へと落ちていく。
その瞬間――!
坂上真一の背中に眠る「仁王の刺青」が、黄金色の神々しい光を放った。
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】――権能①『母港の記憶』発動》
《対象:イグニス・ドラグーンの肉体疲労、凍傷、精神的孤独を完全浄化》
ゴオオオオオオッッ!!
イグニスの全身の赤い鱗から、白い湯気と共にパチパチと黄金の燐光が立ち昇った!
手足の芯まで冷え切っていた冷気が一瞬で吹き飛び、血流が爆発的に加速する。
日々の過酷な開墾作業で軋んでいた筋肉、マンミアにどやされて縮こまっていた心臓、手取り十四万の生活苦――そのすべてが、まるで母の温かい毛布で包まれたかのように、みるみるうちに解きほぐされていく。
そして――イグニスの脳裏に、遠い故郷の風景が蘇っていた。
ドラゴンスパイン山の麓、貧しくとも笑い合っていた家族の食卓。
不器用な手つきで大鍋をかき混ぜていた母親の背中。
「男なら、弱音を吐かずに腹いっぱい食え!」と笑っていた、頑固な父親の顔――。
「……っ、う……あ……っ」
イグニスの箸が、ピタリと止まった。
ボロボロ、ポロポロと、大粒の涙が両目から滝のように溢れ出し、特盛りのカレーの上にポタポタと落ちていく。
「あったけぇ……っ。美味ぇよぉ……っ! こんなに温かい飯……故郷を出てから、一度も食ったことなかったっすぅぅ……っ!!」
ガツガツ、ワシワシと、イグニスは涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、一心不乱に飯を貪った。
萩焼の鉢の底に残った出汁の一滴まで椀を持ち上げて飲み干し、カレーの米粒ひとつ残さず綺麗に平らげる。
「ぷはぁぁぁぁっ……! ご、ごちそうさまでしたっす……っ!!」
空っぽになった器をテーブルに置いた瞬間、イグニスは地面の泥濘の上へと、ドガァンッ!と両膝を突いた。
両手を揃え、額を地面にめり込ませるほどの勢いで、全力の土下座を叩きつける!
「大親父ぃぃぃぃぃぃーーッッ!! 若頭ぁぁぁぁぁーーッッ!!」
広場全体を震わせるような、魂の咆哮。
「俺様……いや、俺! 一生、お二方についていきますっす!! アパートを燃やして、見栄張って、嘘ついて、タローソンの見切り品ばっかり食って腐りかけてた俺の根性を……大親父の飯が、叩き直してくれたっすぅぅーーッ!!」
泥まみれになって号泣する竜人の巨躯。
その背中へ、坂上真一は濃紺の作業服のポケットから手を取り出し、ポンと分厚い掌を乗せてやった。
「……頭を上げぇや、イグニス」
坂上の声は、低く、優しく、そして泰山のように揺るぎなかった。
「故郷の親父さんやお袋さんに、格好つけたい気持ちは痛いほどわかるわい。……男なら誰だって、親の前では胸を張りたいもんじゃけえな。じゃがの、本当の誇りっちゅうんは、豪勢な城に住むことでも、純金の像を建てることでもありゃせんのじゃ」
坂上はブルー・ホープの紫煙を夜空へ吹き流し、言葉を続けた。
「泥にまみれても、自分の手で土を耕し、汗水流して、真っ当に稼いだ飯を食う。仲間を守るために盾となり、弱き者のためにその怪力を振るう。……オドレがこの村でやっとることは、立派な男の生き様じゃろうが! 胸を張れや、イグニス! オドレは、立派な自警団の突撃兵じゃいッ!!」
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ!! 大親父ぃぃぃぃーーッッ!!」
イグニスは坂上の膝にしがみつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
手取り十四万の生活苦も、実家への大嘘の後ろめたさも、坂上の言葉と温かい飯によって、すべて洗い流されていく。
「……おい、親父」
横で見守っていた龍魔呂が、赤箱の煙草をもみ消しながら、呆れたようにため息をついた。
「……あんまり甘やかすなよ。こいつ、調子に乗ってまたアパートの敷地を炭鉱にするぞ」
「ガハハハハ! その時はまた、わしが木刀でケツを引っぱたいて鍛え直してやるわい!」
「あ、若頭ぁ! 俺、明日の朝から『鬼龍』の薪割りとゴミ捨て、全部タダでやらせてくださいっす! 皿洗いもピカピカに磨くっす!!」
「……皿は割るなよ、トカゲ。萩焼の皿は親父の手作りだ、一枚でもヒビを入れたら――その尻尾を切り落として出汁の具にするからな」
「ひぃぃっ! 死ぬ気で丁寧に洗いますぅぅッ!!」
直立不動で敬礼するイグニスと、苦笑いする坂上、そして手元の角砂糖をボリリッと噛み砕く龍魔呂。
そこへ――。
「まったく、夜の広場で何やってるのさ、あんたたちは!」
カツン、カツンと鉄板入り安全靴を響かせ、村長キャルルがパトロールの途中で駆け寄ってきた。
頭上の長い兎耳をピクピクと揺らし、呆れたように腰に手を当てる。
その背後からは、小豆色の芋ジャージを着たリーザが、便所サンダルを鳴らしながら涎を垂らして突進してきた。
「お父様ぁぁぁーッ! イグニスさんだけズルいですのぉぉーッ! わたくしにも夜食のおでんを恵んでくださいましぃぃーーッッ!!」
「こらリーザ! あんたはさっき『鬼龍』の賄いでカツカレーを二杯も平らげたでしょッ!」
「カレーとおでんは別腹ですのぉぉーーッ!!」
ズザザザザザザァァッ!と、安定の〇・二秒スライディング土下座をイグニスの隣で決めるリーザ。
キャルルが鋭い安全靴ツッコミを繰り出し、広場に爆笑が渦巻く。
「ガッハハハハハハハッ!! 今夜は宴会じゃ! 鍋に残ったおでん、全員で腹いっぱい平らげぇや!!」
坂上真一の豪快な号令が、満天の星々が瞬くポポロ村の夜空へ轟き渡った。
凍える耐火テントの前で結ばれた、熱き親父と舎弟の絆。
小料理屋『鬼龍』を取り巻く家族の輪は、また一つ、力強く温かな光を増していくのだった――!
読んでいただきありがとうございます。
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