EP 5
マンミアの「25歳未婚クライシス」と親父の無神経な一言
二つの太陽が西の稜線へと没し、深い紫紺の闇がポポロ村を包み込む頃、路地裏の小料理屋『鬼龍』は、昼の賑わいから一転して静謐な大人のBARへとその表情を変えていた。
店内に満ちているのは、控えめな間接照明の温かな琥珀色の光。
スピーカーからは、ショパンの『夜想曲 第20番 嬰ハ短調』が、物悲しくも甘美なピアノの旋律を紡ぎ出している。
カラン、と氷がグラスの縁を叩く涼やかな音。
だが、その極上の静寂を切り裂くように、カウンターの最奥から、地獄の底から響くような重苦しい溜息が漏れ出していた。
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
白木のカウンターに突っ伏していたのは、艶やかな栗色の長髪を乱した女戦士――ポポロ村自警団の最高責任者、マンミアだった。
非番のため胸元の防刃革鎧はいくぶん緩められているものの、その豊満な胸元は悔しさと虚無感で激しく上下している。
腰から下は、鍛え抜かれた純白の毛並みを持つ巨大な馬の肉体。その立派な四肢の蹄が、床板の上で所在なげにモジモジと擦れ合っていた。
傍らには、普段なら肌身離さず構えているはずのパイルバンカー内蔵盾『アグニ』と長大な鎖『メビウス』が、力なく壁へ立てかけられている。
「……グビッ、グビッ、プハァッ! ……たつまろ! おかわりだ! 太陽芋の蒸留酒『イモッカ』を、ストレートで! 並々と注いでくれ!」
マンミアはアルコール度数四十度のハードリカーを一気にあおると、空になったショットグラスをダンッと荒々しくカウンターへ叩きつけた。
その切れ長の鳶色の瞳は、すでにアルコールと涙で潤んでいる。
「……おい。これ以上煽ると、明日詰所の朝礼で立てなくなるぞ」
バーテンダーコートを完璧に着こなした龍魔呂が、手元のリネンでグラスを拭いながら、低くハスキーな声で制止した。
百九十センチの巨躯から滲み出る、静かな大人の色気。
龍魔呂はショットグラスを下げる代わりに、奥の魔導コンロで沸かしていた小さな片手鍋から、湯気の立つ深緑色の液体を陶器のカップに注ぎ入れた。
エメラルドグリーンの光を放つ薬草茶――胃腸を保護し疲労を和らげる「温かい陽薬茶」だ。
そこへ、手元のガラス瓶から取り出した大粒の【角砂糖】を二粒、コトン、コトンと落とす。
「……飲め。胃壁が焼ける前に糖分を摂れ」
スッと差し出されたカップ。
柑橘系の上品な蒸気と共に、ふわりと広がる角砂糖の優しい甘い香り。
その不器用極まりない、けれど誰よりも温かい気遣いに触れた瞬間、マンミアの頬がボッと赤く染まり、鳶色の瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「ううっ……! 優しい……! 龍魔呂は、どうしてそんなに優しいんだ……っ! 顔も良くて、身体も頑強で、料理も美味くて、そんな気遣いまでできるなんて……っ! どうして、どうして世の中の男はみんな貴様のように出来ていないんだぁぁぁーーッ!!」
「……うるさい。声のボリュームを落とせ」
龍魔呂は眉間を寄せ、ポケットから赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を取り出した。
カチッ、シュポッと真鍮ライターを弾き、紫煙を燻らせながら小さく息を吐く。
「……何かあったのか。パトロールで揉め事でも起きたか」
「事件なら、どれほど良かったか……っ! 凶悪な魔獣や武装山賊なら、このアグニで心臓ごと杭でぶち抜けば一瞬で解決する! だが……だがな、龍魔呂……っ! 世の中には、パイルバンカーでも粉砕できない『怪物』がいるんだよ……っ!!」
マンミアは両手で顔を覆い、カウンターに突っ伏して身悶えした。
「今日な……夕方のパトロール中、村の広場で同年代の元自警団仲間の町娘に会ったんだ……っ。あいつ、三年前までは一緒にドロドロになって訓練を受けていたはずなのに……両手に、小さな子供を二人も連れてやがったんだよ……っ! 『マンミアちゃん、まだ一人で物騒な鉄の盾なんて担いでるの? 早く素敵な旦那さん見つけなよ〜』って……! 赤ん坊のぷくぷくしたほっぺたを見せつけながら、満面の笑顔で言われちまったんだぁぁぁぁーーッ!!」
血を吐くような慟哭。
このマンルシア大陸において、女性の成婚適齢期はおよそ十六歳前後。
二十歳を過ぎれば「行き遅れ」と囁かれ始め、二十二歳を越えれば親戚一同から腫れ物扱いされるのが一般的な社会通念だった。
そんな過酷な世界において――マンミアの年齢は、今年でちょうど「二十五歳」。
年収一千万円を稼ぎ出す自警団最高責任者という輝かしいキャリアを持ちながら、その実態は『恋人いない歴=年齢=二十五年』!
毎年十二月二十五日の聖夜には、スーパー『タローマート』の閉店間際に並ぶ半額シールの貼られた売れ残りクリスマスケーキを一人で買い込み、「賞味期限切れの私そのものじゃん……」と涙を流しながらホールケーキをスプーンで抉ってヤケ食いする――それが、ポポロ村最強の女戦士が抱える、最大最悪の地雷『二十五歳未婚クライシス』だった!
「二十五だぞ……っ! 二十五歳だぞ私は……っ!! 今年で四半世紀、一度も殿方と手を繋いだことすらねぇんだよぉぉぉッ!! ケンタウロスの誇りにかけて、処女の背中を貫き通して何が悪いってんだァァーーッッ!!」
マンミアの絶叫が、静かなノクターンの旋律を無残に蹴散らした。
四本の脚が激しく地団駄を踏み、店内の床板がミシミシと悲鳴を上げる。
龍魔呂は何も言わず、紫煙を吐き出しながら、手元の角砂糖をボリリッと奥歯で噛み砕いた。
言葉をかければ火に油を注ぐことを、この寡黙な料理人は本能で理解していたのだ。
――だが。
この店には、もう一人、男がいた。
「おうおう、なんじゃあ、隊長さん。奥の厨房まで、えらい景気のええ嘆き節が聞こえてきとったぞ」
ガラリ、と厨房の暖簾をくぐって現れたのは、坂上真一(五十歳)だった。
濃紺の将官用作業服の腕を捲り上げ、手入れの行き届いた無骨なブロンズ製の機械式腕時計を光らせている。
手には、淡い枇杷色の肌に土の温もりが宿る、自作の【萩焼の小鉢】が握られていた。
「ほれ、夜食の差し入れじゃ。空きっ腹に強い酒なんぞ流し込んだら、胃袋が泣くけえの。……昼からじっくり煮含めておいた、ピラダイの出汁が染みた『月見大根と牛すじ風角煮』じゃ。冷めんうちに食うてみぃや」
コトン、とマンミアの目の前へ差し出された萩焼の小鉢。
立ち上る湯気と共に、昆布と節の上品な香り、そして甘辛く煮込まれた肉の濃厚な芳香がふわりと鼻腔をくすぐった。
飴色に透き通った大根の角は美しく面取りされ、箸を当てる前から崩れそうなほど柔らかく煮込まれている。
「うっ……! さ、坂上殿……っ!」
マンミアはゴクリと喉を鳴らした。
抗いがたい出汁の誘惑に負け、震える手で割り箸を取ると、大根へと刃を入れる。
すっ、と何の抵抗もなく割れた大根から、熱々の黄金出汁がジュワリと溢れ出した。
ハフハフと息を吹きかけ、一口頬張ると――。
「――ッッ!?!?」
マンミアの鳶色の瞳が見開かれた。
噛み締めた瞬間、大根の奥深くまで浸透していた極上の旨味が、まるで泉のように口内いっぱいに弾け飛んだのだ。
ピラダイの骨から取った野性味ある出汁と、トロトロに煮崩れた肉の濃厚な脂、そして大根の大地の甘み。
さらに――坂上真一のユニークスキル【金曜日の総司令官】が持つ最大権能『母港の記憶』が発動する。
胃袋から、全身の細胞の隅々へと広がっていく、圧倒的な温もりと安心感。
自警団長として、三大国の緩衝地帯という火薬庫の治安を一身に背負い続けてきた孤独と重圧。
誰にも弱音を吐けず、夜な夜な枕を濡らしていた心の傷が、まるで母の温かい掌で撫でられたかのように、じんわりと溶かされていく。
「んんん……っ! 美味い……! 芯まで味が染み渡って……身体の奥が、ポカポカする……っ!」
マンミアは夢中で箸を動かした。
角煮を口へ放り込めば、肉の繊維が舌の上でホロホロとほどけ、濃厚なコクが喉奥へと滑り落ちていく。
添えられていた陽薬茶を一口啜り、マンミアは「ふぅぅぅ……っ」と深く長い息を吐き出した。
「ごちそうさまでした、坂上殿……。美味かった……本当に、五臓六腑に染み渡る味だ……」
「ガハハ! 綺麗に平らげてくれて何よりじゃ! 女子供が美味そうに飯を食う姿ほど、見ていて気持ちのええもんはありゃせんわい!」
坂上は豪快に笑いながら、作業服の胸ポケットから青いパッケージの昭和煙草『ブルー・ホープ』を取り出した。
真鍮ライターでカチッ、シュポッと火を灯し、紫煙をふわりと天へ吹き流す。
「……じゃが隊長さん。さっきから耳に入ってきとったが、オドレ、二十五歳独身のことでそんなに悩んどったんか?」
「うっ……! き、聞こえていたのか……っ」
マンミアは恥ずかしそうに下半身の馬足をモジモジと動かし、耳の先まで赤く染めた。
「……無理もないだろう。この歳になっても、色恋沙汰の一つもなく、毎日重火器の手入れと書類仕事ばかりだ。……私だって、本当は誰かの温もりに縋りたい夜もある……! だが、私のような筋骨隆々で男勝りなケンタウロスを、一体どこの奇特な男が嫁に貰ってくれるというのだ……っ」
自嘲気味に俯くマンミア。
二十歳の村長キャルルを支え、村の防衛を一手に担う誇り高き元騎士団長の、あまりに痛切で哀しい本音だった。
――だが。
昭和の現場を泥水啜って生き抜いてきた、五十歳の叩き上げの頑固親父・坂上真一の思考回路は、そんな乙女の繊細な心理など、銀河系の彼方まで豪快に飛び越えていた!
「なんじゃあッ! そんな下らんことでウジウジ悩んどったんかッ!!」
ドォォォォンッ!と、坂上がカウンターを分厚い掌で力任せに叩いた!
「へっ……? く、くだらない……?」
目を丸くするマンミアに対し、坂上はブルー・ホープを指に挟み、ドスの利いた温かい広島弁をまくし立てた。
「当たり前じゃろうがッ! 二十五歳がなんぼのもんじゃい! 人生五十年、これからが女の本当の脂が乗る一番ええ時期じゃろうがッ! 周囲の小娘どもの下らん世間体なんぞ、孫子の兵法で言えば『雑音』に過ぎんわいッ!」
「は、はぁ……」
「だいたいな! オドレのように責任感が強くて、身体が頑丈で、情に厚くて、飯を美味そうに食う別嬪さんを嫁に貰えん男がおるとしたら、そいつはただの節穴じゃ! ……そうじゃ、ええことを思いついたぞ!」
坂上はポンと手を叩き、満面の笑みを浮かべて身を乗り出した。
そして――。
「隊長さん! 実はの、わしが現世に残してきた息子の信長も、今年でちょうど『二十五歳』で独身なんじゃッ!!」
「……えっ? む、息子さん……?」
「おうよ! 陸上自衛隊でレンジャー部隊の隊長やっとる屈強な男での、甲子園で四番打っとった身体能力の化け物じゃ! 顔はわしに似てちぃと厳ついが、根は真面目で、料理もプロ級に上手い! ただ、女っ気が一切なくてのう、浮いた話の一つもありゃせんのよ!」
坂上は紫煙を燻らせながら、カウンターの奥でグラスを拭いている龍魔呂を手で指し示した。
「そして目の前におるこのたつまろも、今年でちょうど『二十五歳』じゃ! 口は悪いし目つきは凶悪じゃが、腕の立つ料理人で、子供に優しくて、芯の通った一本気な男じゃぞ! ――どうじゃ隊長さん! うちの信長か、それとも目の前のたつまろ、オドレの婿にどっちか貰うてくれんかのう!? わしが太鼓判を押す、自慢の息子たちじゃけえなッッ!!」
シィィィィィィィン……。
時が、止まった。
薄暗い店内に、ノクターンの物悲しいピアノの音だけがポロロンと響き渡る。
「…………」
「…………」
龍魔呂が、グラスを拭く手を完全にピタリと止めた。
咥えていたクリムゾン・レッドの灰が、ポロリと床へ落ちる。
そして――マンミアは。
ピキィィィィィィィィンッッッッ!!!!
マンミアの全身の毛穴という毛穴から、超高圧の蒸気がシュゴォォォォッと噴き出した!
顔面は耳の先から首筋、豊満な胸元に至るまで、熟れきったトマトのように真っ赤に沸騰!
鳶色の瞳がぐるぐると渦を巻いて激しく痙攣し、四肢の蹄が完全にピンと直立不動で硬直した!
「む……む……むむむ……ッ!?」
「隊長さん? どうしたんなら、顔が真っ赤じゃぞ?」
「む、む、む、婿ぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーッッッッ!??!?!?!」
ドッガァァァァァァァァンッッッッ!!!!
マンミアの絶叫と共に、爆発的な脚力が炸裂した!
前足が高く跳ね上がり、ヒヒィィィンッ!という馬の嘶きと共に、カウンターの床板を乱れ打ちに踏み荒らす!
あまりの衝撃に、棚の酒瓶がガタガタと悲鳴を上げて揺れた!
「ななな、何を言っているんだ坂上殿ぉぉぉぉーーッッ!? む、婿って何だ婿ってぇぇぇっ!? だ、第一、息子さんって誰だ! 異世界のレンジャー部隊って何だ! 会ったこともない男のところへ嫁に行けるかぁぁーーッ!!」
「ガハハ! 信長が遠いなら、たつまろでええがな! 毎日美味い飯が食えるぞ!」
「たつまろぉぉぉぉッ!?!? り、龍魔呂と私が……め、夫婦……!?」
マンミアはガバッと龍魔呂の方を振り返った。
バーテンダーコートを着て、彫りの深い美貌で静かにこちらを見つめる龍魔呂の姿が視界に入った瞬間、マンミアの脳内CPUが限界突破してショートした!
「む、無理だぁぁぁぁーーッッ!! こんな国宝級の美男子が毎朝私の隣で起きて『飯にするか?』なんて言われたら、心臓麻痺でショック死してしまうぅぅーーッ!! だ、大体なっ! ケンタウロスの背中に男を乗せるというのは、生涯の伴侶と認めた者だけに許された神聖不可侵の儀式なのだぞっ!? しょ、処女の背中なんだぞぉぉぉーーッッ!!」
「背中くらい、なんぼでも乗せてやりゃあええがな! 男は女房の背中に乗るんじゃなく、女房をおぶって歩くもんじゃい!」
「そういう物理的な話じゃないんだぁぁぁぁーーッッッッ!!!!」
カチャリッ! ジャキィィィィンッッ!!
パニックの極限に達したマンミアの手が、壁に立てかけてあったシールド『アグニ』の引き金に誤って触れてしまった!
けたたましい火花と共に、火薬式の極太鉄杭が装填され、銃身がカウンターの天井へと向けられる!
「……おい、親父」
その瞬間、龍魔呂が氷点下のドスの利いた声で呟いた。
指先で赤箱の煙草をもみ消し、鋭利な眼光で坂上を睨み据える。
「……余計な地雷を踏み抜くな。……天井にパイルバンカーが直撃したら、二階の俺の部屋が吹き飛ぶぞ」
「オドレ、避難訓練じゃ! 総員、衝撃に備えぇぇぇーーいッッ!!」
「ふざけんなクソ親父ィィィーーッッ!!」
ドッガァァァァァァァァンッッッッ!!!!
夜のポポロ村の路地裏に、パイルバンカーの豪快な空砲音と、ケンタウロスの乙女の絶叫、そして五十歳の元総司令官の爆笑が轟き渡った。
ショパンのノクターンが流れるはずだった小料理屋『鬼龍』の夜は、今宵もまた、最高に騒がしく、そして温かい親子の笑い声で更けていくのだった――!
読んでいただきありがとうございます。
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