EP 2
極貧人魚姫リーザのアルバイト奮闘記
金曜の昼下がり、スパイスの芳香と極上の和風出汁の香りが路地裏に漂う小料理屋『鬼龍』の店先で、外界の平穏を容赦なく引き裂く悲鳴が響き渡った。
「ひ、人殺しですのぉぉーーッ! 誰か、誰か助けてくださいましぃぃーーッッ!」
砂埃を巻き上げ、血相を変えて逃げ込んできたのは、膝の抜けた小豆色の芋ジャージを身に纏い、ゴム底のすり減った便所サンダルをパタパタと鳴らす少女――海中国シーランの正統なる王女にして極貧地下アイドル、リーザ・シーラン・リヴァイアサンだった。
ボサボサに乱れた青銀色の髪を振り乱し、店の引き戸へ飛び込もうとするリーザ。
だが、その襟首を、後ろから伸びてきた白銀の閃光が寸分の狂いもなくガッシリと捕獲した。
「逃がさないよ、この寄生魚ッ! 今日という今日は、絶対に誤魔化させないからねッ!」
爪先にミスリル鉄板の入ったタローマン特注の重安全靴を石畳にめり込ませ、仁王立ちしていたのは村長キャルルだった。
頭頂部の長い兎耳を怒りでピーンと直立させ、手にしたバインダーをリーザの鼻先へ突きつける。
さらにその真後ろから、音もなく黒い燕尾服を翻して滑り込んできたのは、人狼族の宰相執事リバロンである。純白の手袋をはめた指先には、計算し尽くされた数字がびっしりと並ぶ一枚の請求書が挟まれていた。
「失礼いたします、リーザ様。当村のシェアハウスにおける先月分、および先々月分の家賃滞納額、締めて銀貨六枚。加えて、共用スペースに放置された怪しげな『ふ〜ん石』の撤去費用、および深夜にみかん箱の上で絶叫された騒音被害に対する示談金を含め、本日正午が法的な最終猶予期限となっております」
リバロンの糸目笑顔の奥から、絶対零度の事務的殺気が立ち上る。
「ひ、ひぃぃぃっ! リバロン様、目が笑ってませんの! 待ってくださいまし! 先日の路上ライブも、投げ銭箱には錆びた五円玉二枚とボタン一個しか入っていなかったんですのぉぉ! ない袖は振れませんわぁぁーーッ!」
「袖がないならジャージを売りなさいよ! もう猶予はおしまいだ! 耳を揃えて払えないなら、今日から村の公衆便所の便器磨き百連発の刑だよッ!」
「便器磨きは嫌ですのぉぉーーッ! お魚のヒレが塩素でカサカサになってしまいますわぁぁ!!」
キャルルとリバロンに両脇を固められ、まさにドナドナの子牛のように引きずられていこうとした――その瞬間だった。
ふわぁぁぁん……。
開け放たれた『鬼龍』の格子戸の奥から、風に乗って漂ってきたのは、抗いがたいほどに神々しい「金曜日の海軍カレー」の芳香だった。
あめ色になるまで炒め抜かれたタマネギの甘み、数十種類のスパイスの刺激、そして龍魔呂が丁寧に灰汁を引いた和の出汁が織りなす、極上の香気。
その匂いが鼻腔をくすぐった刹那、リーザの瞳孔がカッと見開かれた。
(こ、この香りは……ッ! 魂を震わせる、あのお父様の金曜カレー……ッ!)
人間、極限の飢餓と生存本能が合致した瞬間、物理法則は崩壊する。
リーザは掴まれていた襟首から、ウナギのようにヌルリとジャージの上着を脱ぎ捨てて拘束を脱出した!
「あ、こらッ!? 脱皮した!?」
キャルルが叫ぶ隙に、リーザの全身から爆発的な推進力が炸裂した。
摩擦係数ゼロ。
所要時間、わずか〇・二秒!
ズザザザザザザァァァッッ!!
床板との摩擦熱で便所サンダルから白煙を吹き上げながら、リーザは厨房の板場の手前へと滑り込み、寸分の狂いもない姿勢で坂上真一の足元へスライディング土下座を叩きつけた!
「お父様ぁぁぁぁぁーーッッ!! どうか、どうか哀れなわたくしめをお救いくださいましぃぃーーッッ!!」
ドンッ!と額を床に擦り付け、涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫するリーザ。
カウンターの奥で、純白のエプロンを着けて真鍮のお玉を握っていた坂上真一は、目を丸くして足元を見下ろした。
「……なんじゃあ、オドレ。相変わらず見事な滑り込みじゃのう。甲子園の審判でも両手を横に広げて『セーフ!』と叫ぶレベルじゃわい」
「セーフではありませんの! わたくし、人生のアウトカウントがスリーアウトチェンジ寸前なんですのぉ!」
リーザはすがりつくように坂上の作業ズボンの裾を握りしめ、必死の形相で上目遣いに訴えかけた。
「お父様! お願いです、わたくしをこの『鬼龍』でアルバイトとして雇ってくださいまし! お皿洗いでも、床の雑巾がけでも、呼び込みでも、みかん箱の上で三日三晩歌い続けることでも何でもいたしますわ! お給料は……お給料は、そのお鍋に残った金曜カレーと煮込みおでんの現物支給で構いませんのぉぉーーッ!!」
額から血を滲ませる勢いで、必死に頭を上下させる極貧人魚姫。
そのただならぬ形相を前に、坂上は口元に咥えていた青い昭和煙草『ブルー・ホープ』から、ふわりと紫煙を天へ吹き消した。
「おい、寄生魚」
厨房の奥から、氷点下のハスキーボイスが降ってきた。
まな板の前で尺一寸の本焼き包丁を布巾で拭っていた龍魔呂が、冷徹な漆黒の双眸でリーザを見下ろしている。
ポケットから取り出した角砂糖を奥歯でガリリ、ボリッと噛み砕き、苛立たしげに眉間を寄せた。
「……ここを何の場所だと思ってやがる。ここは客が静かに飯を食い、酒を味わう神聖な板場だ。薄汚れたジャージで喚き散らすような奴を、雇い入れる余地なんざ微塵もねぇよ。さっさと出ていけ」
「ひぃっ、龍魔呂様ぁ! そこをなんとか! お皿の一枚も割ったら、わたくしの背びれを刺身にして提供してくださっても構いませんからぁぁ!」
「……魚類の手前ぇのヒレなんざ、出汁の足しにもならねぇよ」
冷たく言い放つ龍魔呂。
追いついてきたキャルルも、ため息をつきながら腕を組んだ。
「真一さん、龍魔呂さん、すまないね。こいつはただの居候の厄介者なんだ。村の公務で強制労働させて、きっちり家賃分を回収するから――」
「まあ待てや、キャルル村長、たつまろ」
坂上が温厚な広島弁で、低く制止の声をかけた。
無骨な手でブルー・ホープを携帯灰皿にもみ消すと、腕に嵌めたブロンズ製の機械式腕時計をトントンと指先で叩く。
「『論語』に曰く、『過ちて改めざる、これを過ちという』。……銭を滞納したのはこやつの落ち度じゃが、己の身体を張って働いて、腹を満たして借金を返そうっちゅう気概そのものは、決して恥ずべきもんじゃありゃせん」
坂上はしゃがみ込み、泥だらけになって震えるリーザの頭へ、分厚く温かい手のひらをぽんと乗せた。
その眼差しには、現世に残してきた愛娘・千姫や、かつて過酷なシゴキに耐え抜いた息子・信長を見つめていた時と同じ、深い「父親の慈愛」が宿っていた。
「お嬢ちゃん、名はリーザ言うたんじゃな。……腹が減っとる時に、人は一番みじめな気持ちになるもんじゃ。じゃがの、真っ当に汗を流して稼いだ飯は、どんな宝石よりも尊いぞ。……本当に、この店の看板娘として働く覚悟はあるか?」
「は、はいですの! ありますわ! 何でもやりますのぉ!」
「よし、なら決まりじゃ。今日からオドレを『鬼龍』のアルバイト一号に任命する。――たつまろ、ええじゃろ?」
坂上が振り返って破顔すると、龍魔呂は赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を唇に咥え、深いため息を吐き出した。
カチッ、シュポッと真鍮ライターを弾き、紫煙を燻らせながらそっぽを向く。
「……好きにしろよ、親父。……だが、接客で客を不快にさせたり、料理に泥でも落としたら、その場で外の肥溜めに叩き落とすからな」
「ガハハ! ほら見ぃ、たつまろも許可を出しとるわい! ――キャルル村長、リバロンさん。こやつの給料の一部は、わしが責任を持って家賃の返済に天引きして納めるけえ、今日のところは勘弁してやってくれんかの?」
坂上の堂々たる申し出に、キャルルは兎耳をパタパタと揺らし、苦笑いを浮かべた。
「……真一さんがそこまで言うなら、文句はないよ。本当にあんたはお人好しなんだから。ほらリーザ、真一さんと龍魔呂さんに死ぬ気で感謝しなよ!」
「パパぁぁぁぁぁーーッ!! 今日からわたくしの本名は坂上リーザですわぁぁーーッ!!」
「勝手に養子縁組を結ぶな、寄生魚」
龍魔呂の鋭いツッコミが飛ぶ中、リーザの『鬼龍』看板娘としての初出勤が幕を開けた。
「い、いらっしゃいませですのぉーーッ!!」
小豆色の芋ジャージの上から、坂上に手渡された清潔な純白のサロンエプロンをきりりと巻き、自作の壊れた拡声器を片手に、リーザは満面の笑顔で暖簾の前に立っていた。
昼の営業が始まると同時に、『鬼龍』の店内は瞬く間に満席となった。
金曜限定の海軍カレーと煮込みおでんを求め、村の農民、自警団の面々、そして街道を行く商人たちが次々と暖簾をくぐってくる。
「お水とおしぼりをお持ちしましたわ! 本日の金曜カレーは、お父様が魂を込めて仕込んだ奇跡の絶品ですの! 食べないと一生の損失、末代までの恥ですわよ〜!」
「おいおい、ずいぶん威勢のいい看板娘が入ったじゃねえか!」
「可愛いじゃねえか、人魚の嬢ちゃん! カレー大盛りで頼むぜ!」
普段はみかん箱の上で泥水を啜りながら地下アイドル活動を続けているだけあり、リーザの「客を惹きつける愛嬌と度胸」は本物だった。
透き通るような白肌とエメラルドグリーンの大きな瞳を輝かせ、店内を小気味よく駆け回る。
だが――問題は、料理の配膳時だった。
「お待たせいたしましたの……! こちら、金曜日の海軍カレー大盛り、ピラダイつみれトッピングですわ……!」
坂上の自作した淡い枇杷色の萩焼の皿に、黄金色に輝く濃厚なルーがたっぷりと盛られている。
立ち上るスパイシーな湯気が、リーザの顔面を直撃した。
「…………ごくり」
喉が、地鳴りのような音を立てて鳴った。
リーザの瞳孔が開き、客のテーブルに皿を置いたまま、両手で盆を握りしめてピタリと硬直する。
その口端から、透明な液体が一筋、タラリと垂れ落ちそうになっていた。
「お、おい嬢ちゃん……? そんなに物欲しそうな顔で俺の皿を見つめないでくれよ……食べづらいだろ……」
「……あぁ、神々しい……! 角切りの月見大根が……飴色に透き通って……ルーの海で泳いでおりますわ……! 一口……一口だけでいいから、スプーンの端っこを舐めさせて……」
手が勝手に客の皿へ伸びようとした――その瞬間!
ピシィッ!
「あ痛っ!?」
厨房の奥から音もなく飛来した一粒の【角砂糖】が、寸分の狂いもなくリーザの額の真ん中に命中した。
「……おい、寄生魚。客の飯を凝視するな。三番テーブルのバッシングをして、さっさと洗い場へ皿を運べ」
板場でピラダイの骨抜きをしていた龍魔呂が、氷のような眼光で睨み据えている。
「ひ、ひぃぃん! 龍魔呂様、額に角砂糖のスナイプは痛いですのぉ! で、でも、落ちたこの角砂糖は……わたくしが美味しく回収してもよろしいかしら……!?」
「床の砂糖を拾い食いしようとするな! さっさと手を洗って働け!」
「はいですのぉぉーーッ!」
ドタバタと厨房の洗い場へ走り、割烹着姿で懸命に皿を洗い始めるリーザ。
その様子をカウンターの端で見守っていた坂上は、豪快に笑いながら大鍋を木べらでかき混ぜた。
「ガハハハハ! 賑やかでええのう! たつまろ、オドレも昔はあんなふうに、美味い飯を前にして目を輝かせとったんじゃないんか?」
「……あんな卑しい真似はしてねぇよ、親父」
龍魔呂はぶっきらぼうに返しつつも、手元の和包丁の刃先をわずかに緩め、洗い場で泡まみれになって奮闘する少女の背中を、微かに柔らかな目で見つめていた。
かつて、泥水を啜りながら弟・ユウと分け合っていた、あのひもじい日々の記憶。
飢えの苦しさを誰よりも知っているからこそ、なりふり構わず飯のために働くリーザの姿を、龍魔呂は決して本気で嫌悪することはできなかったのだ。
やがて、太陽が天頂を過ぎ、昼の激しいラッシュが一段落した。
暖簾を一時的に仕舞い、静けさを取り戻した店内のテーブル席で、リーザは力尽きたように突っ伏していた。
「ふ、ふぃ〜〜……! 生きて……生きてますわ……! お皿を百枚以上洗って、腕がパンパンですの……! 内臓が……内臓が『キュルルルル』と最後の晩鐘を鳴らしておりますわぁ……」
そこへ――。
トン……。
心地よい陶器の重みと共に、テーブルの上に一枚の皿が置かれた。
淡い枇杷色の肌に、土の温もりを宿した自作の萩焼の深皿。
その上に、山盛りのつややかな白米と、並々と注がれた褐色の黄金ルー。
じっくりと煮込まれてトロトロになった肉の塊、出汁をたっぷりと吸い込んだ大根、そして頂点には、黄金色にカラリと揚げられたピラダイの特製カツが鎮座していた。
脇には、琥珀色の透き通った煮込みおでんの出汁スープが、湯気を立てて添えられている。
「……えっ?」
リーザが顔を上げた。
目の前に立っていたのは、エプロンを外して腕まくりをした坂上真一だった。
厳つい五十歳の顔に、これ以上ないほど温かい笑みを浮かべ、一本の銀色のスプーンをリーザの手のひらに握らせてやる。
「よう働いたのう、リーザ。……約束の、賄いじゃ。皿の一枚も割らんと、見事な働きっぷりじゃったぞ」
「お、お父様……! こ、こんなに山盛りの……カツまで乗っかってますの……!?」
「おうよ。汗水流して働いた者には、腹いっぱい美味いもんを食わせる。それが『鬼龍』の鉄則じゃけえな」
坂上がポンと頭を撫でてやると、カウンターの奥から龍魔呂が、氷を入れた冷たい麦茶のグラスをコトンと滑らせてきた。
「……冷めねぇうちに食え。残したら、明日の朝飯抜きだぞ」
「龍魔呂様……ッ!」
リーザの大きなエメラルドグリーンの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
震える両手でスプーンを握りしめ、胸の前で強く祈るように合わせる。
「いただきますのぉぉーーッッ!!」
大盛りのご飯とルー、そして揚げたてのカツをスプーン一杯にすくい上げ、口の中へ豪快に放り込んだ!
「――ッ!?!?!?」
噛み締めた瞬間、口内を満たしたのは、暴力的なまでの幸福の爆発だった。
サクッ!と音を立てて弾けたカツの衣から、ピラダイの芳醇な海の旨味と脂がジュワリと溢れ出す。
それを包み込む、濃厚でスパイシーなルーのコク。タマネギの甘みと深煎り珈琲の隠し味が舌の上で完璧に調和し、龍魔呂の引いた和の出汁が、どこまでも優しく胃袋へと染み渡っていく。
さらに――坂上のユニークスキル【金曜日の総司令官】が持つ権能『母港の記憶』が発動する。
労働で疲れ果てていた手足の筋肉からスーッと疲労が抜け、冷え切っていた胃袋の底から、ぽかぽかとした陽だまりのような温もりが全身を満たしていった。
「んんんんんんまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッッッッ!!!!」
リーザは頭を抱えて椅子の上で足をバタつかせ、歓喜のあまり絶叫した!
「なんですかこれぇぇぇ!? 美味しい! 温かい! カツがサクサクで、カレーがお出汁の旨味で満たされていて……! 雑草やパンの耳なんかじゃ絶対に味わえない、命の味がしますわぁぁぁーーッ!!」
ガツガツ、ワシワシと、一心不乱にスプーンを動かすリーザ。
涙と鼻水を流しながら、米粒ひとつ残さず皿を綺麗に平らげ、添えられていたおでんの出汁スープを両手で持って一気に飲み干す。
「ぷはぁぁぁぁっ……! ご、ごちそうさまでしたの……っ!」
空っぽになった萩焼の皿を見つめ、リーザはぽろぽろと涙を拭った。
そして、カウンター越しに立つ坂上を見上げ、満面の笑みを咲かせた。
「パパぁ……! わたくし、明日も明後日も、ずっとここで働きますわ! このカレーのためなら、どんなお皿でもピカピカに磨き上げてみせますの!」
「ガハハハハ! 頼もしい看板娘じゃわい! しっかり稼いで、キャルル村長に家賃を返してやりぃや!」
坂上が豪快に笑い飛ばすと、龍魔呂は赤箱の煙草をもみ消し、フッと口元を緩めた。
「……おい、寄生魚。食ったなら、自分の皿くらい自分で洗え。萩焼の皿は割れやすいんだ、丁寧に扱えよ」
「はいですの、龍魔呂お兄様ぁ!」
「誰がお兄様だ」
呆れたような龍魔呂のツッコミと、リーザの屈託のない笑い声、そして坂上の大らかな笑いが、小料理屋『鬼龍』の店内に心地よく響き渡る。
新たな居候看板娘を迎え入れた『鬼龍』の航海は、さらに賑やかで温かな光を帯び始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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