第ニ章 ポポロ村の居候ヒロインたちと、親父のおでん屋台
『鬼龍』の金曜限定メニューと、角砂糖を噛む弟子
二つの太陽が東の空から昇り、緩衝地帯ポポロ村の冷涼な朝霧をゆっくりと黄金色に溶かしていく。
路地裏にひっそりと佇む小料理・BAR『鬼龍』の板場には、夜明け前から心地よい薪の爆ぜる音と、静謐な弦の調べが響いていた。
店内に流れているのは、J・S・バッハの『無伴奏チェロ組曲』。
一音一音が空間を清め、研ぎ澄まされた静寂を紡ぎ出している。
だが、その厳かな空気とは裏腹に、厨房の熱気はすでに沸点へと達しつつあった。
「たつまろ。……火が強すぎるわい。大根を煮る時はの、グラグラ煮立たせたら角が落ちて出汁が濁る。鍋の底から小さな気泡が、ふつふつと顔を出す程度の弱火じゃ。『彼を知り己を知れば百戦危うからず』――孫子の兵法とおんなじよ。食材の機微に耳を澄ませぇや」
「……わかってるよ、親父。……口を挟むな、集中が切れる」
低くハスキーな声で返したのは、糊のきいた真っ白な調理服を着こなした偉丈夫――鬼神龍魔呂(二十五歳)だった。
身長百九十センチの筋骨隆々たる巨躯。
かつて地下奴隷闘技場で「死を呼ぶ四番(DEATH4)」と恐れられ、数多の修羅場を血で染め上げてきた男は、いま、真鍮のお玉を握りしめ、銅の寸胴鍋に向かって真剣な眼差しを注いでいた。
その口調は相変わらず無愛想でぶっきらぼうだが、火加減を調節する指先の所作には、坂上への絶対の信頼と敬意が滲み出ている。
二人が正式に「師弟」――いや、「親父と息子」の契りを交わしてから、早くも数日が経過していた。
あの大立ち回りと涙の抱擁を経て、新生『鬼龍』の営業スタイルは明確に定まりつつあった。
昼は、龍魔呂が手ずから引く極上の昆布・鰹出汁をベースにした、ピラダイの塩焼きや月見大根の出汁煮といった繊細な和食定食。
夜は、照明を落とし、ショパンのノクターンを流しながら、このマンルシア大陸各地の銘酒――太陽芋を蒸留したアルコール度数四十度のハードリカー『イモッカ』や、米麦草を樽熟成させた黄金色の美酒『サケスキー』を傾ける大人のBAR。
そして――。
「今日は待ちに待った『金曜日』じゃけえのう!」
濃紺の将官用作業服の袖を捲り上げ、純白の木綿エプロンをきりりと締めた坂上真一(五十歳)が、豪快に笑いながら大鍋の木蓋を外した。
ボシュゥゥゥゥッッ!!
立ち上った純白の湯気と共に、暴力的なまでに芳醇なスパイスの香気が、厨房から店先へと津波のように溢れ出した。
あめ色になるまで何時間も徹底的に炒め抜かれたタマネギの奥深い甘み。
トロトロに煮崩れた肉の濃厚な旨味に、数十種類の香辛料の鮮烈な刺激。
さらに、龍魔呂が早朝から丁寧に灰汁を引いた和の出汁と、隠し味として投入された深煎りのポポロ珈琲が合わさることで、深淵の底のように重厚なコクを生み出している。
海上自衛隊の艦隊総司令官として、極東の荒波の上で将兵の心身を支え続けてきた魂の糧――『金曜日の海軍カレー』だ。
さらにその隣の鍋では、米のとぎ汁で下茹でされ、ピラダイの極上つみれや揚げ豆腐と共に琥珀色の出汁を限界まで吸い込んだ『染み染み月見大根の煮込みおでん』が、コトコトと静かに湯気を立てていた。
「……いい匂いだ。……悔しいが、このルーの深みだけは、俺の出汁の技術だけじゃ到底届かねぇ」
龍魔呂が鼻腔をひくつかせ、ぽつりと呟いた。
「ガハハ! 当たり前じゃい! わしゃあ五十年間、自分の胃袋と部下の命、そして家族の笑顔をこの味で守り抜いてきたんじゃ! 二十五歳の若造に一朝一夕で追いつかれてたまるかい!」
坂上は腕に嵌めたブロンズ製の機械式腕時計に目をやり、満足そうに頷いた。
そして、作業服の胸ポケットから、青いパッケージの昭和煙草『ブルー・ホープ』を取り出す。
「仕込みは上々じゃ。……開店前に、一本いくかの」
「……ああ」
龍魔呂もまた、調理服のポケットから赤箱のハード煙草『クリムゾン・レッド』を取り出し、唇に咥えた。
次の瞬間、二人の右手が同時にポケットから真鍮製オイルライターを滑り出させ、寸分の狂いもないタイミングでヤスリを弾く。
――カチッ……シュポッ。
澄んだ硬質な金属音が二重奏となって板場に響き渡った。
立ち上った小さな二つの炎が、煙草の先端を赤く灯す。
深く肺腑へと吸い込まれ、天に向けてふわりと吐き出される二条の紫煙。
ブルー・ホープの苦味のある芳醇な香りと、クリムゾン・レッドの重厚な煙が、換気扇の吸い込み口へと吸い寄せられて混ざり合っていく。
「ふぅぅ……っ。美味い煙草じゃ。……ほれ、たつまろ」
坂上は煙草を指に挟みながら、ポケットから小さな包みを取り出した。
個包装された茶色の粒――ほろ苦い本格珈琲のコクを閉じ込めた『コーヒーキャンディ』だ。
それを指先でパチンと弾き、龍魔呂の胸元へと放る。
龍魔呂は右手で音もなくそれを宙でキャッチすると、代わりに自らのポケットから、白い紙包みを取り出した。
中に入っていたのは、透き通った立方体の塊――大粒の『角砂糖』だ。
龍魔呂は無言のまま、それを坂上の掌へと押し付けた。
「……交換だ」
「おう、毎度ありじゃな」
坂上は角砂糖を口に放り込むと、奥歯で――ガリリ、ボリッ、と快音を立てて噛み砕いた。
純粋な甘みが口いっぱいに広がり、昭和煙草の苦い後味をまろやかに包み込んでいく。
一方の龍魔呂も、コーヒーキャンディのフィルムを剥いて口へ放り込み、舌の上で転がしながら微かに目を細めていた。
言葉はなくとも、通じ合う呼吸。
坂上の脳裏に、現世に残してきた長男・信長の顔がよぎる。
陸上自衛隊のレンジャーとして過酷な訓練に耐え、自分に反発しながらも、休日の食卓では黙々と大盛りのカレーを平らげていた、あの頑固な二十五歳の息子。
そして目の前にいる、二十五歳にして地獄の底を一人でくぐり抜け、いま包丁を握り直しているこの弟子。
(……不器用なところまで、よう似とるわい)
坂上が温かい笑みを浮かべて紫煙を燻らせていると、龍魔呂がカウンターの下から、丁寧に布で包まれた木箱を取り出してきた。
「……親父。これ、洗って磨いておいたぞ」
開かれた箱の中に収まっていたのは、十数枚の陶器の皿だった。
素朴でありながら力強い温もりを放つ、淡い枇杷色の肌。長石釉の微細な貫入が美しく走り、手作りの土の温もりが指先に伝わってくる――坂上が現世で轆轤を回して焼き上げた、自作の『萩焼の深皿』だ。
「おお、ピカピカに磨いてくれたのう。ありがたいわい」
「……この皿じゃねぇと、あのカレーの『味』が出ねぇからな。……不思議なもんだ。この器に盛られたカレーを食うと、胸の奥の冷たい塊が、すぅっと溶けていくのがわかる」
龍魔呂は自らの胸元に手を当て、静かに呟いた。
それは、坂上のユニークスキル【金曜日の総司令官】が持つ最大権能――『母港の記憶』の力だ。
坂上が萩焼の皿に盛って振る舞う料理は、食べた者の全ステータスを超回復させるだけでなく、過去のトラウマや呪い、狂気すらも、温かい家庭の記憶によって浄化してしまう。
「料理っちゅうんはな、ただ舌を喜ばせるだけのモンじゃない。作った者の魂と、食う者の命が交差する儀式じゃ。……『論語』にもあるが、『徳は孤ならず、必ず隣あり』。真心を込めて炊いた飯は、必ず人の心を結ぶけえな」
坂上が萩焼の皿をカウンターへ並べ終えた、まさにその時だった。
ズザザザザザザァァァッッ!!
路地裏を揺るがすような、凄まじい摩擦音が店の前で炸裂した。
摩擦係数を無視した、所要時間わずか〇・二秒の低空アプローチ!
「パパぁぁぁぁぁぁーーッッ!! 金曜日ですわぁぁぁぁーーッッ!!」
ガラリと格子戸が跳ね除けられるように開き、床板を滑り込んできたのは、小豆色の芋ジャージを着た少女――海中国シーランの王女にして極貧地下アイドル、リーザ・シーラン・リヴァイアサンだった!
ゴム底のすり減った便所サンダルを脱ぎ散らかし、寸分の狂いもなく坂上の足元へスライディング土下座を決める。
「待ちかねましたの! 先週の金曜カレーの味が忘れられなくて、一週間ずっと水とオオバコで飢えを凌いでおりましたのぉぉ! どうか、哀れなわたくしめに一番乗りで恵んでくださいましぃぃ!」
「こらぁぁぁリーザ! 開店前の店に土足で滑り込むんじゃないよッ!」
直後、怒声を響かせて飛び込んできたのは、ポニーテールを揺らした村長キャルルだった。
ホームセンター『タローマン』特注の鉄板入り重安全靴を履いた足で、リーザのジャージの尻へ鋭いツッコミの蹴り(寸止め)を繰り出す。
その頭上の白い兎耳は、厨房から漂うスパイシーな香気を感じ取って、幸せそうにピコピコと痙攣していた。
「おはよう、真一さん、龍魔呂さん! ……ふふ、村の入り口までカレーの良い匂いが届いてたよ。自警団の朝礼が終わった途端、みんなソワソワして仕事にならないんだから」
「ガハハ! おはようさん、キャルル村長、リーザ! 今日もええ滑り込みじゃったのう!」
坂上が豪快に笑い飛ばすと、龍魔呂はカウンターの奥から冷たい目を向け、手元の角砂糖をボリリッと噛み砕いた。
「……おい、寄生魚。席に着く前に手を洗え。サンダルの泥が床に散ってるぞ」
「ひっ、は、はいですの龍魔呂様! すぐ洗ってきますわぁ!」
リーザは脱兎の如く勝手口の手洗い場へと走っていった。
そこへ、さらに店の前の通りから、賑やかな足音と声が重なって近づいてくる。
「はーい皆様こんキュラ〜☆ 本日もやってまいりました、ポポロ村の奇跡の小料理屋『鬼龍』前から緊急ゲリラ生配信だよ〜〜んッ!」
ドローンカメラを従えたトップ配信者キュララが、端末の画面を光らせながら飛び込んでくる。
「皆様ごきげんよう♡ 本日も素晴らしい陽光ですわね。朝カレーのために、世界樹から新鮮なマナ野菜をもいでお持ちいたしましたわ」
エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、世界樹の加護を纏ったエルフの箱入り令嬢ルナ・シンフォニアがおっとりと来店する。
「大親父ぃぃ! 若頭ぁぁ! 東の開墾作業、朝飯前に片付けてきましたぜぇぇーーッ!」
真紅の角を生やした竜人イグニスが、筋肉を躍動させて駆け込み、
「おはよう、坂上殿、龍魔呂……! 朝の巡回、異常なしだぞ……!」
ケンタウロスの自警団長マンミアが、純白の馬身を揺らしながら、頬をほんのりと赤らめて暖簾をくぐった。
あっという間に、白木のカウンターが笑顔と活気で埋め尽くされていく。
三大国の緩衝地帯という過酷な火薬庫の真ん中にあって、ここだけは、誰もが武器を下ろし、肩の力を抜いて温もりを分かち合える「絶対の母港」だった。
「……よし、全員揃ったな」
龍魔呂が和包丁をまな板の上に置き、静かに告げた。
その隣で、坂上真一が真鍮のお玉を力強く握り直し、腹の底からの号令を店内に響かせる。
「たつまろ、盛り付けいくぞ! ――新生『鬼龍』、金曜カレー抜錨じゃいッッ!!」
「……おう!」
最強の親父と、最凶の狂犬弟子。
ポポロ村の居候たちを巻き込んだ、温かくも騒がしい第二章の幕が、いま堂々と上がった――!
読んでいただきありがとうございます。
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