EP 14
「……アンタに、俺の何がわかる……クソ親父」
泥濘に散乱した銀色のスプーンが、陽光を浴びて鈍く光っていた。
膝をつき、肩を激しく上下させながら、龍魔呂は両の掌を泥の中に突き立てていた。
胃袋を満たしているのは、信じがたいほどに熱く、豊かで、奥深い「金曜カレー」の滋味。
喉を通ったあの一口が、男の全身の毛細血管を焼き広げ、凍結していた魔力回路の隅々にまで、絶え間なく血を通わせていく。
だが、その温もりと反比例するように、龍魔呂の喉の奥からは、引き裂かれた獣のような掠れた息が漏れ続けていた。
「……っ、が……あ……っ」
「どうじゃ、たつまろ。……美味いかの?」
目の前にしゃがみ込み、自作の萩焼の皿を持ったまま、坂上真一がもう一度、穏やかに問いかけてきた。
五十歳の皺が刻まれた、無骨で厳つい面構え。
その顔に浮かんでいるのは、先ほどまで怪物を力ずくでねじ伏せていた武神の峻厳さではなく、泣きじゃくる幼子を前にした父親の――どこまでも深く、温かい眼差しだった。
その温かさに触れた瞬間、龍魔呂の胸の内で、激しい拒絶の炎が爆ぜた。
「……ふざ、けんな……っ」
ギリリ、と奥歯が軋む音が響く。
龍魔呂は腫れ上がった頬を歪め、泥まみれの手で己の胸元をぐしゃりと掻きむしった。
見上げる漆黒の瞳に、激痛にも似た抗拒の光が宿る。
「……知ったような口を……利くな……ッ! 何が……何が美味いかだ……! たかが、カレー一杯突っ込まれたくらいで……俺の何がわかる……ッ!?」
低く、地を這うような怒声。
だが、その声は震えていた。怒りによってではなく、内側から溢れ出してくる「何か」を必死に抑え込もうとする、悲痛な痙攣によって。
「アンタに……アンタに、俺の何がわかるってんだよ……ッ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫だった。
二十五歳の偉丈夫が、百九十センチの鋼の肉体を持つ処刑人が、まるで暗闇に取り残された迷子のように叫んでいた。
「俺は……俺は七歳の時から、泥水を啜って生きてきたんだ……! 母親を亡くして、たった一人で……あいつ(ユウ)を食わせるために、盗みも人殺しもやってきた……! 十の時に騙されて地下牢に放り込まれ、五年間……五年間もあいつを生かすためだけに、見世物の化け物として人をミンチにし続けてきたんだよ……ッ!!」
血を吐くような告白が、静まり返る麦畑に突き刺さる。
遠巻きに見守っていたマンミアが、イグニスが、キャルルが息を呑んだ。
彼らもまた、ポポロ村の路地裏で寡黙に出汁を引く若き店主が、背負ってきた闇の深さを初めて知ったのだ。
「なのに……なのにあいつは、死んだんだ……ッ! 寒くて、暗い地下牢の隅で、俺の手も握れねぇまま……病気で、一人で逝っちまったんだよ……ッ!! ゴミ捨て場に放り出されたあいつの冷たい身体を抱いた時……俺の中で、全部終わったんだ……! 守れなかった……何一つ守れなかったんだよッ!!」
爪が手のひらの肉に食い込み、泥の上に真っ赤な血がポタリと落ちた。
龍魔呂の胸を締め付けていたのは、十五歳のあの日から一日たりとも消えることのなかった、無力感と自己嫌悪の毒だった。
自分だけが生き残ってしまった罪悪感。
あの日、地下闘技場を皆殺しにして血の海を作ろうとも、どれほど腕を磨いて鬼神流を修めようとも、死んでしまった弟は二度と戻らない。
だからこそ、感情を殺した。
誰にも心を許さず、誰にも背中を預けず、ただ弟の死そのものを消滅させるという狂気じみた宿願のためだけに、一人で修羅の道を歩き続けてきた。
「誰も助けてくれなかった……! 神も、大人も、この世界の誰も、俺たち兄弟に手を差し伸べやしなかった……ッ! それなのに……今さら現れた見知らぬオッサンが……父親面して、美味い飯なんざ食わせてんじゃねぇよ……ッ!!」
激痛に耐えかねたように、龍魔呂は地面に額を擦り付けた。
激しく吐き出される息。
だが、その背中へ――。
トン、と。
分厚く、温かい掌が、そっと置かれた。
「……っ!?」
龍魔呂の全身がビクンと跳ねた。
払いのけようとした腕に、力が入らない。
触れていたのは、荒波に晒され、数多の修羅場をくぐり、北辰一刀流の木刀を握り続けて硬いタコができた――五十歳の男の、無骨な右手だった。
「……分からんよ、たつまろ」
坂上真一の口から漏れたのは、怒号でも、軽薄な同情でもなかった。
どこまでも低く、腹の底に響く、静かな広島弁だった。
「オドレが味わうてきた十年の地獄の苦しみなんぞ、このわしに全部理解できるわけがなかろうが。……わしゃあ、オドレの生きてきた世界の神様でも何でもありゃせんのじゃけえな」
「……だったら……ッ!」
「じゃがな、たつまろ」
坂上は萩焼の皿を地面に置き、両腕を大きく広げた。
そして、泥まみれになって震える龍魔呂の百九十センチの巨躯を――逃げ場を塞ぐように、正面から力強く、その胸の中へと抱き寄せた。
ガシッッ、と。
「……なっ……!? は、離せ……ッ!」
龍魔呂がもがこうとする。
だが、坂上の腕は、荒れ狂う暴風雨の中で錨を巻き上げる極太の鋼鉄ワイヤーのように、ビクとも動かなかった。
抱きしめられた胸板から伝わってきたのは、濃紺の作業服に染み付いた、潮風と機械油の匂い。
青い昭和煙草『ブルー・ホープ』の苦い香り。
そして――背中の「仁王の刺青」から脈動する、大地そのもののように揺るぎない、圧倒的な体温だった。
「オドレは、よう戦うた。……よう耐えてきたのう」
坂上の大きな手が、龍魔呂の乱れた黒髪を、優しく、乱暴に、何度も撫で下ろした。
「七歳から今日まで、たった一人で弟を守ろうとして、一人で血反吐を吐いて、誰にも弱音を吐かずにここまで歩いてきたんじゃろ。……立派じゃ。男として、兄貴として、これ以上ないほど見事な生き様じゃい」
「……っ……」
「じゃがの、もう一人で背負うな。……オドレの抱えとる地獄、今日からわしが半分背負うちゃる」
坂上の言葉が、一語一語、龍魔呂の胸の奥深くに楔を打ち込んでいく。
「死んだ弟のことが忘れられんのなら、忘れんでええ。過去を消したいと足掻くんなら、わしも一緒に足掻いちゃる! 息子が命懸けで戦うんなら、親父が一番前で盾になるんは、宇宙のどこへ行ったって当たり前の道理じゃろうがッ!!」
「お、やじ……? 誰が……誰が親父だ……ッ!」
「わしじゃあッ! 文句があるかッ!!」
坂上は豪快に怒鳴りつけると、さらに腕の力を込め、龍魔呂の頭を自らの肩口へと強く押し当てた。
「腹が減ったら、わしのカレーを食え。美味い飯を食うて、胃袋を温めぇや。……そしてな、泣きたい時は、我慢せんとこのわしの背中で泣けや! 親の背中っちゅうもんはな、そのためにあるんじゃいッ!!」
――ドォォォォォン……ッ。
坂上の心音が、龍魔呂の側頭部を通じて、直接その大脳へと響き渡った。
一拍の乱れもない、泰山のように不動のリズム。
欺瞞も、打算も、一切の濁りもない、無償の愛と覚悟の鼓動。
その瞬間――。
龍魔呂の中で、張り詰めていた最後の防壁が、音を立てて崩壊した。
「……っ、う……あ……」
視界が、滲んだ。
十五歳の冬、弟を冷たいゴミ捨て場で見送ったあの日から。
泣いたら死ぬと、弱さを見せたら弟に顔向けができないと、奥歯を噛み砕いて塞ぎ止めていた心の水門が、一気に決壊した。
ポロリ、と。
大粒の雫が、龍魔呂の漆黒の瞳から零れ落ち、坂上の濃紺の作業服を濡らした。
一つ、また一つ。
それは瞬く間に奔流となり、十年間流すことの叶わなかった熱い涙となって、男の頬を伝い落ちていく。
「……う、あぁぁぁ……っ……!」
処刑人「DEATH4」ではない。
小料理屋の気難しいマスターでもない。
そこにいたのは、ただ、凍えた身体を温かい腕に抱きしめられ、生まれて初めて「子供」に戻ることを許された、一人の不器用な青年の姿だった。
「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ……!! ユウ……ッ! ユウぅぅぅ……ッッ!!」
龍魔呂は坂上の作業服の背中を、泥まみれの両手でぐしゃりと掴み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
十年の孤独を、十年の痛恨を、すべて吐き出すかのような慟哭。
坂上は何も言わず、ただ力強くその背中を叩き、静かに受け止め続けた。
遠くで見守る仲間たちの間から、微かな啜り泣きが漏れた。
「……よかった……本当によかった……」
村長キャルルは胸に手を当て、安堵の涙をルビーの瞳に浮かべていた。
長い兎耳をぺたりと伏せ、二人の心音が完璧なハーモニーとなって響き合っているのを、静かに聴き届けている。
「う、うわぁぁぁぁんッ! 龍魔呂様ぁぁーッ! お父様ぁぁーッ!」
小豆色の芋ジャージを着たリーザは、もはや決壊した噴水のように涙と鼻水を垂れ流し、便所サンダルを鳴らして駆け寄ろうとしたが、マンミアの鎖に襟首を引っかけられて止められた。
「待てリーザ、今は二人の邪魔をするな……っ」
自警団長マンミアもまた、傷だらけの前足を震わせながら、鳶色の瞳を真っ赤にして鼻をすすっていた。
パイルバンカー内蔵盾『アグニ』を下ろし、二人の男の抱擁を見つめるその胸は、熱い感動で激しく波打っている。
「ううっ……大親父ぃ……若頭ぁ……! 俺様、涙で前が見えねぇっすぅぅ……!」
地面に転がったイグニスに至っては、顔面を泥と涙でドロドロにしながら号泣し、感動のあまり鼻息から小さな火の粉をプシュプシュと漏らしていた。
「……ったく、柄にもねぇ真似しやがってよ」
ミスリルソードを納刀したフェイトが、照れ隠しのように銀貨を指先で弾いた。
カラン、と落ちた銀貨は、見事な『表』を示していた。
フェイトは口元を緩め、青空を見上げて息を吐く。
どれほどの時間が流れただろうか。
陽光が二つの太陽から降り注ぎ、戦場を包んでいた冷気は、完全に春のような温もりへと溶け去っていた。
やがて、龍魔呂の慟哭が、静かな過呼吸へと落ち着いていく。
坂上の肩口からゆっくりと顔を上げた龍魔呂は、涙と泥で汚れた顔を、レザージャケットの袖で乱暴に拭った。
その双眸には、もはや「DEATH4」の虚無も狂気も残っていなかった。
かつての冷徹さを取り戻しつつも、どこか憑き物が落ちたような、澄み切った光が宿っている。
「……気が済んだかの、たつまろ」
坂上が人懐っこい笑みを浮かべ、ポンと龍魔呂の頑強な肩を叩いた。
作業服の肩口は龍魔呂の涙でびしょ濡れになっていたが、坂上は気にする素振りすら見せない。
龍魔呂は気まずそうに視線を逸らし、ポケットから赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』を取り出そうとした。
だが、指先が微かに震えて、煙草の箱を落としそうになる。
それを見た坂上は、苦笑しながら自らの胸ポケットから青いパッケージを取り出した。
昭和煙草『ブルー・ホープ』。
一本を引き抜き、自らの唇に咥えると、もう一本を龍魔呂の口元へと無造作に差し出した。
「ほれ。たまには親父の煙草も吸うてみぃや」
「…………」
龍魔呂は一瞬躊躇ったが、やがて諦めたようにそのブルー・ホープを唇に咥えた。
坂上が愛用の真鍮ライターを弾く。
――カチッ……シュポッ。
澄んだ金属音が鳴り、二本の煙草の先端に、同時にオレンジ色の火が灯った。
立ち上る紫煙が、二人の男の間にふわりと漂う。
深く吸い込み、青空へ向けて紫煙を吐き出した龍魔呂は、地面に置かれた萩焼の皿――まだ温かい金曜カレーの残りを見つめた。
そして、照れ隠しのように眉間を寄せ、掠れたハスキーな声で、ボソリと呟いた。
「……アンタに、俺の何がわかるってんだよ……」
口から煙を吹き出しながら、そっぽを向く偉丈夫。
だが、その唇から小さく漏れ出た言葉は、十年の孤独を溶かした男への、生まれて初めての不器用な甘えだった。
「……クソ親父」
その一言を聞いた瞬間、坂上真一の顔が、この日一番の破顔となった。
「ガッハハハハハハハッ!! よう言うた! それでこそわしの息子じゃいッ!!」
大笑いしながら、坂上は龍魔呂の頭にグリグリと愛ある拳骨をめり込ませた。
「い、痛ぇよ! やめろクソ親父! 頭蓋骨が軋むだろ!」
「やかましいわい! 親に向かってクソとは何事じゃ! 飯を食うたら、村へ帰って店を開けるぞ! オドレの仕込みの続き、わしが手伝っちゃるけえの!」
青空の下に響き渡る、父と息子の騒がしくも温かい声。
転移してきた元艦隊総司令官と、孤独だった元処刑人。
二人の魂が、一杯の金曜カレーを通じて、血よりも濃い「親子の契り」で結ばれた瞬間だった。
読んでいただきありがとうございます。
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