EP 13
魂を救う萩焼の皿――金曜日の海軍カレー
泥濘の大地に叩きつけられた百九十センチの巨躯から、なおも禍々しい赤黒い闘気が、間欠泉のようにブツブツと泡立ちながら立ち昇っていた。
「……ウ……ガァァ……ッ……!!」
鬼神龍魔呂は、砕けた地面に爪を立て、泥水を跳ね上げながら四つん這いになろうと腕を軋ませていた。
坂上真一の渾身の左ストレートを受け、頬骨は腫れ上がり、口端からは鮮血が滴り落ちている。
脳を揺らし、意識を刈り取るに十分すぎたはずの一撃。だが、その肉体を無理やりに突き動かしていたのは、もはや強靭な筋肉や武術の気脈などではなかった。
呪い、だった。
十五歳の冬、地下奴隷闘技場のゴミ捨て場で、冷たくなり果てていた弟・ユウの遺体。
病に苦しみ、熱に浮かされながら、最後まで兄の助けを求めていた小さな手。
――あにき、いたいよ……くるしいよ……。
十年の歳月が流れてなお、龍魔呂の鼓膜を焼き爛れさせ、魂の髄まで縛り付け続ける、亡き弟の痛切な泣き声。
それが、先ほど泣き叫んだ村の幼い少女の声と共鳴し、龍魔呂の脳内を完全な「血の惨劇」で埋め尽くしていた。
「あ……あぁ……ユウ……ユウ……ッ!!」
漆黒の双眸が、血走り、濁り狂う。
目の前に立つ坂上の姿すら見えていない。
すべてが敵だ。ユウを奪った奴隷商人ゴルディ、八百長を仕組んだ闘技場の興行主、理不尽に子供を虐げるこの世界の悪党ども、そして何よりも――弟を一人ぼっちで死なせてしまった、無力で惨めな自分自身。
そのすべてを挽肉に変えて消滅させるまで、DEATH4の暴走は止まらない。
「だ、駄目だ……! まだ正気に戻っていない……っ!」
マンミアがひび割れたパイルバンカー内蔵盾『アグニ』を杖代わりにし、血を流す前足を踏ん張りながら悲痛な声を上げた。
「このままじゃ……龍魔呂の精神が、己の闘気で内側から焼き切れて死んじまうよ……ッ!」
「龍魔呂さん……! 頼むから、もうやめてくれっす……!」
地面に倒れたままのイグニスも、鱗の隙間から涙を零して叫ぶ。
フェイトもまた、ミスリルソードの切っ先を下げ、冷や汗を顎から滴らせて立ち尽くしていた。
手出しができない。
あそこまで魂の底から壊れてしまった人間を止める術など、この世界のどんな魔法にも、どんな奇跡薬にも存在しないことを、歴戦の戦士たちは痛いほど知っていたからだ。
だが――。
「……ふぅぅぅ……っ」
立ち込める血と硝煙の匂いの中、坂上真一は静かに息を吐き出した。
指先に挟んでいた青い昭和煙草『ブルー・ホープ』を、携帯灰皿の底へじゅっと押し付けて火を消す。
そして、濃紺の将官用作業服の上から着けていた、純白の木綿エプロンの紐を――キュッと、力強く締め直した。
「大の男が、いつまでもみっともなく地獄の泥水ばっかり啜っとるんじゃないわい」
坂上の声は、低く、穏やかで、そして大地を揺るがすほどに力強かった。
坂上は振り返り、麦畑の縁で立ち竦んでいた二人の少女へと、豪快に怒鳴りつけた。
「おい! キャルル村長! リーザ! アレを持ってきたじゃろうなッ!!」
「えっ!? あ、は、はいっ!!」
「もちろんですのぉぉーーッ!!」
キャルルとリーザが、泥を跳ね上げて駆け込んできた。
二人の手には、ホームセンター『タローマン』特注の、頑丈な極厚断熱魔法コンテナが抱えられていた。
先ほど店から飛び出してくる際、坂上から「何があってもこれだけは抱えて走ってこい!」と厳命されていた代物だ。
「お父様ぁ! 言われた通り、一滴もこぼさずに運んでまいりましたわ! 重たくて腕がちぎれそうでしたのぉ!」
「よくやった、二人とも。……よし、開けぇや」
ガチャリ、と重厚な留め金が外され、コンテナの蓋が押し開けられた。
その瞬間――。
ポシュゥゥゥゥッッ!!
戦場に満ちていた陰惨な血生臭さと、焦げた泥の悪臭を、一瞬にして消し炭にするほどの【熱気】が爆発した。
純白の濃密な湯気と共に、四方八方へと津波のように吹き荒れたのは――。
数十種類に及ぶスパイスが複雑に絡み合った、鼻腔を狂おしいほどに刺激する刺激的な芳香。
あめ色になるまで徹底的に炒め抜かれたタマネギの、濃厚極まりない甘み。
じっくりと煮込まれた肉と香味野菜のフォン、そして坂上が今朝から『鬼龍』の寸胴の片隅で、隠し味として仕込んでいた――極上の昆布・鰹出汁と、ひとさじの深煎り珈琲が織りなす、深遠にして重厚なコク。
「……っ!? な、なんだこの匂いは……!?」
フェイトの喉が、ゴクリと激しく鳴った。
マンミアも、イグニスも、あまりの香りの暴力に、先ほどまでの激痛と恐怖を忘れて鼻孔をひくつかせる。
坂上真一は、コンテナの中に鎮座していた大鍋の前に立つと、作業服の胸ポケットから、丁寧に布に包まれていた一枚の器を取り出した。
それは、素朴でありながら力強い温もりを宿した、淡い枇杷色の陶器。
長石釉の細かな貫入が美しく走り、土の温もりがそのまま手のひらに伝わってくる――坂上が現世の練馬の自宅で、休日に轆轤を回して焼き上げた、世界に一つだけの自作の【萩焼の深皿】だった。
「……今日は金曜日じゃけえの」
坂上は低く呟き、白米をこんもりと萩焼の皿の半分に盛った。
そして、手にした真鍮のお玉で、寸胴の底から褐色のルーをすくい上げる。
トロリと粘度を帯びた黄金色のルーが、純白の米の山肌を滑り落ち、皿の半分を神々しく満たしていく。
――その瞬間だった。
ドォォォォォォンッッッッ!!!!
大地が、いや、大気そのものが黄金色の光に包まれた。
坂上の背中に彫り込まれた「仁王の刺青」が、作業服を焼き焦がさんばかりの神聖な闘気を吹き上げる。
脳裏に、かつてないほど重厚で、絶対的なシステム音声が轟き渡った。
《個体名・坂上真一:自作【萩焼の皿】への金曜カレー打設を確認》
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】》
《最大権能――『母港の記憶』、完全臨界点突破!!》
皿から立ち上る湯気が、淡い金色の霧となって戦場全体へと広がっていく。
それは、長期の過酷な航海を終えた艦隊が、母港の防波堤を越えて静かな内海へと錨を下ろした瞬間の――絶対の安堵。
暖簾をくぐれば「おかえり」と迎えてくれる家族の声。
どんな嵐の夜でも、決して自分を見捨てず、腹を満たしてくれる温かい食卓の光。
「……ガ……アァァァァッッ!!」
その時、泥の中から立ち上がった龍魔呂が、獣の咆哮を上げて坂上へと跳躍した!
赤黒い殺気の爪が、坂上の喉笛を引き裂かんと迫る。
だが、坂上は木刀を抜くことすらしなかった。
右手に持っていたのは、一本の大きな銀色のスプーン。
皿から、熱々のカレーと白米を山盛りにすくい上げる。
そして――。
「オドレ、四の五の言わんと……ッ!」
坂上は北辰一刀流の神速の体捌きで、龍魔呂の凶暴な爪撃を紙一重でかわすと、その百九十センチの巨頭を左腕でガッチリと抱え込んだ!
「――わしのカレーを、食いさらせぇぇぇぇいッッッ!!!!」
ズボォッッ!!
「……ッ!?!?!? んぐッ、むぐぅぅぅーーッッ!?」
咆哮のために大きく開かれていた龍魔呂の口腔へと、坂上の銀スプーンが、山盛りの熱々カレーごと容赦なくねじ込まれた!
静止する、世界。
「…………っ!?」
龍魔呂の漆黒の双眸が、限界まで見開かれた。
喉奥へ、舌の上へ、口腔の隅々へ――爆発的な熱量と共に流れ込んできたのは、未知の、だが狂おしいほどの「旨味の奔流」だった。
まず舌を打ったのは、幾重にも重なり合ったスパイスの鮮烈な刺激。
クミン、コリアンダー、カルダモンの清涼感が鼻腔を突き抜け、次いでカイエンペッパーの鋭い辛味が、凍りついていた味蕾を一瞬で焼き覚ます。
だが、その激しい辛さを、即座に優しく包み込んだのは――暴力的なまでの「コクと甘み」だった。
何時間も炒め抜かれたタマネギの奥深い甘み、トロトロになるまで煮崩れた肉の脂の旨味、そして、龍魔呂自身が誰よりも愛し、命を懸けて研ぎ澄ませてきたあの「和の出汁」の滋味が、ルーの骨格を完璧に支えている。
(な……んだ……これ……は……ッ!?)
噛みしめる間もなく、熱いルーが喉を焼きながら胃袋へと滑り落ちていく。
その瞬間――!
ズッシャァァァァァァンッッッッ!!!!
龍魔呂の精神世界の奥底で、暗黒の分厚い氷壁が、粉々に爆砕した。
《権能『母港の記憶』――対象:鬼神龍魔呂の深層心理へ浸透完了》
《精神汚染・狂気・絶望の強制パージを開始します》
ゴオオオオオオッッ!!
龍魔呂の全身から立ち上っていた、ドス黒い赤の闘気が、まるで熱湯をかけられた雪のように急速に霧散していく。
血管を浮き上がらせていた異様な筋肉の膨張が収まり、荒れ狂っていた呼吸が、急速に人間としてのそれへと引き戻されていく。
龍魔呂の視界から、血の赤が消え去っていった。
脳裏に広がっていたのは、陰惨な地下牢でも、悪臭に満ちたゴミ捨て場でもなかった。
そこは――どこか懐かしく、温かい光に満ちた、畳の部屋だった。
ちゃぶ台の上から立ち上る、カレーの湯気。
台所には、エプロンを締めて笑っている母親の背中。
そして、自分の真横で、泥だらけの手を合わせて「にいちゃん、カレーおいしいね!」と、満面の笑顔を咲かせている、生きていた頃の――幼い弟・ユウの姿。
『ユウ……?』
幻影の中のユウが、龍魔呂を見上げて、優しく微笑みかけた。
『にいちゃん、もう大丈夫だよ。にいちゃんはずっと、ぼくを守ってくれたじゃないか』
『もう、泣かなくていいんだよ。にいちゃん』
――カラン。
龍魔呂の口から、銀のスプーンが力なく零れ落ちた。
漆黒の底なし沼だった男の双眸に、十年の歳月を経て、確かな「光」が戻っていた。
「……っ、が……あ……っ」
百九十センチの巨躯が、その場にガクンと膝を折った。
泥濘の中に両手をつき、肩を激しく上下させながら、龍魔呂は胸元を掻きむしるようにして荒い息を吐き出す。
胃袋の底から、全身の細胞の隅々へと広がっていく、圧倒的な温もりとエネルギー。
それは、傷だらけだった魂をまるごと抱きしめ、凍えきっていた心臓を力強く叩き起こす、母港の火そのものだった。
「……はぁっ、はぁっ……っ……!」
戦場を包んでいた暴風は、完全に止んでいた。
ただ、皿から立ち上る金曜カレーの芳醇なスパイスの香りと、二つの太陽が照らす穏やかな光だけが、静まり返る大地を包み込んでいる。
その光景を前にして、キャルルが両手を口元に当てて息を呑み、リーザが涙をボロボロとこぼしながら「龍魔呂様……」と呟いた。
マンミアも、イグニスも、言葉を失ってその場に立ち尽くしている。
そして――。
泥の上に膝をつく龍魔呂の目の前に、影が落ちた。
坂上真一が、萩焼の皿を片手に持ったまま、ゆっくりとしゃがみ込んだのだ。
その顔には、先ほどまでの鬼神のような怒気は欠片も残っていなかった。
五十歳の皺の刻まれた顔に浮かんでいたのは、道を誤り、泣きじゃくる我が子を見つめるような――深く、どこまでも温かい、父親の笑顔だった。
「……どうじゃ、たつまろ」
坂上は穏やかな広島弁で、低く問いかけた。
「わしの金曜カレーは……美味いかの?」
その言葉が、龍魔呂の凍りついた心の最後の扉を、音を立ててノックした。
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