EP 12
鬼神流 vs 北辰一刀流・空の太刀
大気が爆ぜ、空間そのものが軋み声を上げた。
左手で龍魔呂の手首を万力のように掴み取った坂上真一の眼前で、黒と深紅のレザージャケットを纏う怪物が、獣のような咆哮を喉の奥から轟かせる。
「……ヌ、ウゥゥゥゥ――ッッ!!」
理性を完全に焼失させた処刑人「DEATH4」――鬼神龍魔呂。
掴まれた右手首を引きちぎらんばかりの勢いで体重を捻り、即座に空いた左の拳を、坂上の脇腹へ向けてゼロ距離から射出した。
鬼神流の打撃は、単なるボクシングのパンチではない。
足の爪先から骨盤、脊椎へと闘気を旋回させて放たれる、重戦車の主砲徹甲弾に匹敵する貫通打撃。赤黒い闘気が螺旋を描き、坂上の作業服の布地を摩擦熱で焦がしながら肉薄する。
「真一さんッ!!」
遠くで見守る村長キャルルの悲鳴が木霊した。
直撃すれば、内臓破裂は免れない。
しかし――坂上真一の双眸は、氷のように静まり返っていた。
「じゃけえ、甘い言うとろうがッ!」
ドォォォォォンッッ!!
坂上の背中に彫り込まれた「仁王の刺青」が、作業服を透かして黄金色の烈光を爆発させた。
《ユニークスキル【金曜日の総司令官】――権能②発動》
《『仁王の艦隊陣形』完全展開》
坂上の全身を覆ったのは、目に見えぬ幾何学模様の力場――かつてイージス艦長として洋上の防空圏を統括し、あらゆる敵ミサイルの弾道を演算・迎撃してきた坂上の戦術精神が具現化した「不沈の防壁」だった。
龍魔呂の左ストレートが坂上の脇腹にめり込んだ瞬間、キンッ!という耳を劈く硬質な金属音が炸裂する。
「な……っ!?」
膝をついていたマンミアの鳶色の瞳が、驚愕に見開かれた。
先ほど己のパイルバンカー内蔵盾『アグニ』の魔導装甲をひび割れさせた龍魔呂の剛拳が、生身の五十歳の男の脇腹を捉えながら、一ミリたりとも肉を抉れていなかったのだ。
それどころか、坂上の背後――農家の庭の隅で蹲る幼い少女ミィや、倒れ伏す老人、手負いのイグニスやマンミアたちの足元にまで、黄金の光の環が展開されている。
龍魔呂の拳から放たれた余波の衝撃波は、そのすべてが坂上の巨躯へと吸い寄せられ、背中の仁王が黄金の火花となって霧散させていた。
「……仲間への余波を、あの人が一人で全部肩代わりしているのか……!?」
フェイトがミスリルソードを握り直しながら、呆然と呟く。
「オドレの拳の重さは認める。……じゃがのう、たつまろ! わしが背負うとるんは、数千の部下の命と、祖国を守る覚悟の重さじゃ! ガキのヤケクソの暴力なんぞで、沈むわけにゃあいかんのじゃいッ!!」
バシィィィィンッッ!!
坂上が右手に掲げていた白樫の木刀が、電光石火の速度で振り下ろされた。
狙いは、龍魔呂の左腕の肘関節。
刃のない木刀の一撃が、龍魔呂の関節を捉え、その打撃姿勢を強引に跳ね上げる。
拘束を解かれた龍魔呂は、反射的に後方へと跳躍した。
ザザザザァッ!と泥を抉って着地する龍魔呂。
だが、その着地と同時に、百九十センチの巨躯が再び異様な低空姿勢へと沈み込んだ。
口元に咥えられた赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』から、ドス黒い闘気を帯びた紫煙が吹き上がる。
その双眸は、依然として光を宿さない漆黒の底なし沼。
痛みも、恐れも、警戒心すらも存在しない。
ただ、目の前の男を解体し、己の地獄を遮る壁を粉砕するためだけに、鬼神流の歩法が起動する。
ヒタ……ヒタ……。
泥濘の上であるはずなのに、足音が完全に消えた。
次の瞬間、龍魔呂の姿が掻き消える。
――ガガガガガガガッッッ!!!!
暴風が吹き荒れた。
前後左右、死角という死角から、龍魔呂の残像が無数に発生し、坂上の全身へと凶暴な連撃を叩き込み始めたのだ。
首を刈り取る手刀、膝頭を砕く低空のサイドキック、肋骨をへし折る肘打ち、そして頭蓋を狙う裏拳――地下奴隷闘技場で五年間、百人の武装兵を血祭りに上げてきた「DEATH4」の無慈悲なる殺戮演武。
一撃一撃が岩盤を粉砕する威力を秘め、農家の庭の地面がポップコーンのように弾け飛んでいく。
しかし――。
その嵐のような暴力を前にして、坂上真一の【白樫の木刀】は、まるで水面に漂う木の葉のように舞っていた。
カンッ! パシィンッ! トンッ……!
力で押し返さない。
強引に叩き落としもしない。
坂上の心中にあったのは、宮本武蔵の『五輪書』が説く「空」の理だった。
(有るを空とおもひ、空を有とおもふ――これが空の道なり)
敵の殺気が極大に達する瞬間、その切っ先には必ず「重心の偏り」が生じる。
坂上は北辰一刀流の精妙無比な足捌きで、半歩、一寸、時には紙一重の身のこなしで打撃の芯を外し、木刀の平を使って龍魔呂の拳の軌道を外へと受け流し続ける。
激突したエネルギーはすべて虚空へと逸らされ、坂上自身の体勢は微動だにしない。
(……見事じゃ。オドレのこの技、どれほどの泥水を啜り、どれほどの修羅場をくぐって身につけたもんか、手ぇ合わせりゃ痛いほど伝わってくるわい……)
木刀越しに伝わってくる、龍魔呂の魂の叫び。
それは、怒りなどではなかった。
泣き叫ぶ弟を救えず、守るべきものをすべて理不尽に奪われ、世界を呪いながらも「弱き者を二度と泣かせまい」と自らの肉体を兵器へと改造した、あまりに哀しい青年の絶叫だった。
坂上の脳裏に、遠い現世の光景が重なる。
――親父! 俺は陸で地獄を喰い破らんと、この国は守れんのじゃ!
かつて練馬の道場で、全身にあざを作り、血反吐を吐きながら木刀を握り直してきた長男・信長の姿。
厳しくシゴき、突き放しながらも、夜にはその背中に湿布を貼り、大鍋で特盛りのカレーを炊いて胃袋を満たしてやった、あの不器用な息子の面影。
信長も、今年で二十五歳。
そして、目の前で虚無の瞳をして暴れるこの龍魔呂もまた、二十五歳だ。
(信長には、厳しくとも帰る家があった。シゴいた後に飯を食わせてやる親父がおった。……じゃが、たつまろ。オドレには、誰もおらんかったんじゃな。十五のあの日から、褒めてくれる者も、叱ってくれる親父も、温かい飯を用意して待っとる家も……何一つ、ありゃあせんかったんじゃな……!)
坂上の胸の奥で、業火のような父の情が、カッと燃え上がった。
「たつまろォォォッ!!」
坂上の怒号が、連撃の轟音を貫いて響き渡った。
その瞬間、龍魔呂の動きがわずかに止まる。
連撃のすべてを受け流され、仕留めきれない焦燥――DEATH4のプログラムに生じた、致命的な「感情のバグ」。
龍魔呂の漆黒の瞳の奥で、赤黒い闘気が臨界点を超えて逆流した。
右拳が、信じられないほどの高密度で引き絞られる。
周囲の大気が渦を巻き、足元の小石が重力を失ったかのようにフワフワと宙に浮き上がった。
鬼神流究極奥義――『絶花・零』。
存在そのものを消滅させる、完全無欠の破滅の右ストレート。
「……消え……ろォォォォォッッ!!!!」
ドッバァァァァァァンッッッッ!!!!
空間が割れた。
龍魔呂の右拳が放たれた瞬間、赤黒い衝撃波の光柱が、大気をプラズマ化させながら一直線に坂上の胸板へと突き進む。
もはや避けることは不可能。受け流すことすら許さぬ、絶対の暴力。
だが――坂上真一は、退かなかった。
左足を一歩、泥濘の中へと力強く踏み込む。
大地を掴むその下半身の安定感は、何千トンの荒波に揺られようとも水平を保ち続けた戦艦の艦橋そのものだった。
「『孫子』に曰く――『よく敵を動かす者は、これに形すれば敵これに従う』! 隙を見せて誘い込んだ以上、ここがオドレの死地じゃいッ!!」
坂上の背中の仁王が、天を衝くほどの黄金の闘気を噴き上げた。
右手の白樫の木刀が、斜め上段から音もなく滑り落ちる。
北辰一刀流極意――『空の太刀』。
刃のない木刀が、龍魔呂の放った赤黒い絶花の奔流の「最も脆弱な気脈の継ぎ目」へと、カミソリを通すように滑り込んだ。
激突ではない。
切断でもない。
それは、相手の殺意のベクトルを完全に「無(空)」へと霧散させる、究極の脱力の一閃。
パシュゥゥゥゥン……ッ!
大気を焼き焦がしていた赤黒い光柱が、木刀の一撫でによって、まるでシャボン玉が割れるかのように呆気なく弾け散った。
「なっ……!?」
DEATH4の虚無の瞳が、初めて「動揺」に揺らいだ。
己の全霊を込めた必殺の一撃が、何の手応えもなく消滅したのだ。
前傾姿勢のまま、龍魔呂の体勢が大きく前に崩れる。
その無防備になった顔面の真ん前に――。
濃紺の袖を捲り上げ、分厚いタコと傷跡に覆われた、五十歳の男の「素手の拳」が迫っていた。
坂上真一の左拳。
それは、武器を持たぬ手。
相手を殺すための凶器ではない。
かつて荒れ狂う暴走族だった自分をぶん殴って更生させてくれた恩人の拳であり、道を誤りそうになった息子・信長を何度も真っ直ぐに叩き直してきた――熱く、重く、痛切な「親父の愛の鉄拳」だった。
「たつまろォォォッ!!」
坂上の魂の怒号が、至近距離で龍魔呂の鼓膜を震わせた。
「よう一人で耐えてきた! ようここまで、弟のために地獄を歩いてきたのう! ……じゃがな! もう一人で背負い込むんじゃないッ! オドレのその腐れ狂気、このわしが力ずくで叩き落としちゃるけえのォッッ!!!!」
ドッガァァァァァァァァンッッッッ!!!!
凄まじい肉弾の衝突音が、北の農家の空を揺るがした。
坂上の渾身の左ストレートが、龍魔呂の頬骨へと寸分の狂いもなくクリーンヒットしたのだ。
衝撃波が龍魔呂の頭部を貫通し、背後の大気が円形に吹き飛ぶ。
唇に咥えられていた赤箱の煙草『クリムゾン・レッド』が宙を舞い、百九十センチの筋骨隆々たる巨躯が、真横へと回転しながら泥濘の大地へ叩きつけられた。
ズドォォォォンッッ!!
地面が深く抉れ、土煙と泥水が高く跳ね上がる。
吹き荒れていた暴風が、ぷつりと途切れた。
「…………っ、はぁ……っ、ふぅ……」
土煙の中、坂上真一は肩で荒い息を吐きながら、ゆっくりと木刀を下ろした。
ブロンズ製の機械式腕時計が、カチリと秒針を進める。
拳の皮が破れ、血が滲んでいたが、その瞳には泰山のように揺るぎない覚悟が宿っていた。
静まり返る戦場。
キャルルも、リーザも、マンミアも、イグニスも、誰もが言葉を失って立ち尽くしていた。
あの誰も止めることのできなかった伝説の処刑人「DEATH4」を、木刀一本と素手の拳だけで、真っ向から叩き伏せたのだ。
だが――。
「……ウ……グ……ッ……」
泥濘の中から、呻き声が漏れた。
倒れ伏していた龍魔呂の指先が、痙攣するように泥を掴む。
頬を腫らし、口端から血を流しながらも、その双眸には依然として、怨嗟の赤黒い光が燻り続けていた。
十五歳のトラウマ。弟を失った絶望の深淵は、ただ拳で殴り倒された程度で消え去るほど浅くはなかったのだ。
龍魔呂はなおも獣のように喉を鳴らし、傷だらけの身体を起こそうと軋ませる。
その姿を見下ろしながら、坂上真一は濃紺の作業服のポケットに手を差し入れた。
「……そうじゃな。拳で分からせるんは、ここまでじゃ。――たつまろ、オドレの凍りついた魂を溶かすんは、やっぱり『これ』しかないのう」
坂上の唇に、不敵で、そしてどこまでも温かい笑みが浮かんでいた。
魂を救うための、本当の「一手」が始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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