同じ道具なのに
翌日、俺と新八はまた嘉兵衛の工房へ向かった。
昨日、善右衛門に連れられてきた時には名前を聞いただけだったが、二日続けて仕事をするとなれば、いつまでも「親方」で済ませるのも妙だった。
嘉兵衛。五十を少し越えたくらいだろうか。刃物や農具を主に作っていて、善右衛門屋とは十年以上の付き合いがある。
工房は榊屋より小さいが、道具はよく手入れされていた。使う物は手の届くところにあり、使わない物は奥へ片付けられている。材料の置き方にも無駄がなく、昨日使ったねじ切り板も油を拭われ、作業台の決まった場所へ置かれていた。
飛び抜けて変わったものがあるわけではない。
ただ、仕事場を見れば、きちんと仕事をする人間なのは分かる。
善右衛門が最初の一軒にここを選んだ理由も、何となく分かった。
「また来たんか」
俺たちを見るなり、嘉兵衛が言った。
「昨日七本やったからな」
「七本できたんやろ」
「三本あかんかった」
「細かい兄ちゃんやな」
「それ昨日も善次郎に言われたわ」
嘉兵衛は鼻で笑い、昨日貸したねじ切り板を作業台へ置いた。
「今日は何するんや」
「同じの、もう十本」
「また?」
「今度は作っとるところ、細かく見せて」
「気ぃ散るなあ」
「我慢して」
「銭取るで」
「善右衛門に言うて」
「お前が払うんちゃうんか」
「俺、客ちゃうし」
「ほな何やねん」
何だろう。
道具を貸して、作り方を教えて、出来た物を調べに来ている。客でもないし、親方でもない。
「……道具貸しとる人?」
「弱いなあ」
新八が横で吹き出した。
◇
今回は最初から記録を取ることにした。
何本目か。丸棒の太さはどうだったか。ねじ切り板を最初にどう当てたか。途中で引っ掛かりはなかったか。油を足したか。
細かく拾えば切りがない。まずは昨日、実際に違いが出たところを中心に見ることにした。
「ほな一本目」
嘉兵衛が丸棒を取った。
昨日と同じ当て金を使い、太さを確認する。先端を少し整えて油を付けると、ねじ切り板を慎重に当てた。
「そこ」
「何や」
「昨日より真っ直ぐ」
「昨日お前がうるさかったからや」
「ええことや」
「褒められても嬉しないわ」
ねじ切り板を少し進め、戻す。屑を落として油を足し、また進める。
昨日より明らかに手つきが安定していた。何より、俺がいちいち言わなくても、嘉兵衛自身が途中で手を止めて刃の当たり方を確かめている。
出来上がった一本目を、持ってきた雌ネジへ入れた。
最後まで入る。
「良し」
「二本目いくで」
二本目も入った。三本目も入る。
四本目、五本目も問題ない。
「ええやん」
思わず言うと、嘉兵衛が俺を見た。
「昨日からやっとるんやぞ。いつまでも同じところで失敗するかい」
「さすが」
「もっと言え」
「調子乗るな」
「どっちやねん」
六本目も問題なく入った。
昨日は十本のうち七本しか最初の検査を通らなかった。作り方を揃えた効果は、確かに出ているように見える。
ところが七本目を切っている途中で、嘉兵衛の手がわずかに止まった。
「ん?」
「何や」
「今、重なかった?」
「……ちょっとな」
出来上がった雄ネジを雌ネジへ入れてみる。最後まで入るには入ったが、最初の五本ほど軽くはない。
「これは?」
「一応、良し」
「一応て何や」
「後でちゃんと見る」
八本目も入った。
ただ、これも少し重い。
九本目は途中で止まった。
「……あれ」
「お前、昨日もそれ言うたな」
「うるさい」
無理には回さず、抜いて山を見る。大きく崩れてはいないし、丸棒の太さも作る前に確認している。
十本目も作ってもらったが、これも途中から重かった。
俺は出来た順番に並んだ十本を眺めた。
前の方はいい。
後ろへ行くほど、少しずつ重くなっている。
「嘉兵衛さん」
「何や」
「後の方、切っとる時も重かった?」
嘉兵衛はすぐには答えず、ねじ切り板を持ち上げて刃先を眺めた。
「……せやな。最初よりは重かった気ぃする」
「いつくらいから?」
「知らんわ。そこまで数えながら仕事しとらん」
「せやんなあ」
「何や、俺が悪いんか」
「ちゃうちゃう。聞いただけ」
新八も横からねじ切り板を覗き込んだ。
「欠けてはないな」
「うん」
見た目には、昨日と大して変わらない。
だが、十本の並び方を見る限り、何かは変わっている。
俺には、その心当たりがあった。
◇
「良し八。手直し二。駄目なし」
榊屋へ戻ると、お澪が十本を調べ終え、そう言った。
昨日は良し七、手直し二、駄目一。今日は良し八、手直し二、駄目なし。
数字だけを見れば良くなっている。
「昨日よりええやん」
新八が言った。
「うん」
俺は答えながら、手直しに分けられた二本を見た。
「お澪」
「何?」
「それ、何本目やった?」
「知らん」
「……せやな」
「何で私が知っとると思ったん?」
「聞いてから気付いた」
「大丈夫?」
「大丈夫や」
お澪が疑わしそうな顔をした。
俺が十本まとめて箱へ入れて持って帰ったのだから、お澪に順番が分かるはずがない。
「ちょっと待って」
新八が二本を手に取った。
「これ、九本目と十本目ちゃう?」
「分かるん?」
「十本目はここ、ちょっと傷ある。向こうで見た」
言われてみれば、九本目にも覚えがある。
最後の二本だ。
「宗次郎」
「はい」
呼ぶと、宗次郎は帳面を持ってきた。
昨日の記録が残っている。
作った数、良し、手直し、駄目。
その下へ今日の数字を書き加えてもらう。
「今日は十本。良し八、手直し二、駄目なし」
「はい」
「それと、次から順番も残したい」
宗次郎の筆が止まった。
「順番?」
「一本目が良し、二本目が良し、みたいに。一本ずつ」
「全部ですか?」
「全部」
宗次郎が帳面を見た。
「何でです?」
「今日あかんかった二本、最後の二本や」
八本良し。二本手直し。
それだけなら、十本の中に二本悪い物が混じったということしか分からない。
だが、その二本が九本目と十本目だったなら、意味が変わる。
「後ろほど悪なっとる」
宗次郎の目が帳面から手直し品へ移った。
「……ああ」
「せやろ」
「これ、数だけ書いとったら分からんかったですね」
「俺も昨日まで、それしか書かせてへんかったけどな」
良しが何本、手直しが何本、駄目が何本。
それだけでも、何も残していなかった頃よりずっといい。だが、数だけでは見えないこともある。
何本目で起きたのか。
どこから変わり始めたのか。
そこまで残しておけば、原因を探す手掛かりになる。
「ほな、前の五十本も順番分かっとった方が良かったんですか?」
「今思えばな」
「書いてません」
「俺も頼んでへん」
宗次郎は少し考え、今日の記録の横に小さく何かを書き足した。
「次から残します」
「頼む」
帳面に書く数字が、また一つ増えた。
◇
ねじ切り板を作業台へ置き、新八と一緒に刃を見た。
欠けてはいない。曲がってもいない。目で見た限りでは、昨日とほとんど変わらない。
「弥吉に見せる?」
新八が言った。
「嫌や」
「何で」
「あいつに見せたら『ここ丸なっとる』とか言うて終わるやろ」
「分かるならええやん」
「それやったら他所に出した意味ないやろ」
弥吉が触らなければ判断できない仕組みを作りたいわけではない。
俺はねじ切り板を持ち上げ、刃先を指でなぞった。
工具は使えば減る。
当たり前だ。
前世なら、切削工具に寿命があることなど考えるまでもない。刃物は摩耗する。切れ味が落ちれば加工した物にも影響が出るし、交換や研ぎ直しの時期も考えなければならない。
「……そら減るよな」
「何が?」
「刃」
新八が俺を見る。
「分かっとったん?」
「分かっとった」
「また?」
「またや」
「何で忘れるん?」
「忘れてへん! こんな早いと思わんかったんや!」
「同じやん」
「違うわ!」
後ろから笑い声がした。
市兵衛だった。
「何笑っとんねん」
「また虎松が何か失敗したんかなと思って」
「最近みんな俺の扱い雑ちゃう?」
市兵衛は返事をせず、作業台のねじ切り板を手に取った。
「これ?」
「せや。最初はええんやけど、後の方で重いネジが出た」
「切れへんようになったん?」
「たぶん」
市兵衛はねじ切り板を裏返し、刃を眺めた。
「研いだらええんちゃう?」
「それはそう」
「ほな研いだら?」
「いつ?」
「え?」
「いつ研ぐ?」
市兵衛が黙った。
新八も黙る。
切れなくなってから研ぐ。それでは、その前に作ったネジが何本悪くなっているか分からない。
十本ごとに研ぐ。それでは、まだ十分使える刃まで研ぐことになるかもしれない。
見た目で決める。
それを誰でもできるようにしたいから、今こんな面倒なことをしている。
「弥吉に――」
「言うな」
新八が笑った。
◇
翌日、俺たちはもう一度嘉兵衛の工房へ行った。
「また来たんか」
「また来た」
「三日目やぞ」
「知っとる」
「そのうちここで飯食い始めるんちゃうか」
「それは嘉兵衛さん次第やな」
「食わせへんぞ」
言いながらも、嘉兵衛はもう作業台を空けていた。
俺たちが来ることを善右衛門から聞いていたらしい。昨日使った丸棒まで、すぐ取れる場所へまとめてある。
「今日は何や」
「昨日の続き」
「毎日続くなあ」
「十本全部良しになるまで」
「面倒くさい兄ちゃんやなあ」
「知っとる」
ねじ切り板の刃が減っているかもしれないと話すと、嘉兵衛は腕を組んだ。
「こんだけで?」
「そこを確かめたい」
「ほな、どうするんや」
「刃を一回整えて、また十本作る。ただし今日は途中でも見る」
「途中?」
「五本作ったら一回止める」
「十本作ってからやったらあかんの?」
「あかんことはない。でも最後に悪いって分かっても、いつから悪なったか分からん」
嘉兵衛は少し考えてから、ねじ切り板を手に取った。
「ほな、五本目までは良うて、六本目から悪なったら?」
「六本目から何か変わったかもしれん」
「四本目から悪かったら?」
「もっと前から見る」
「毎回見るん?」
「必要なら」
「面倒くさ」
「俺もそう思う」
嘉兵衛が笑った。
「でも、分からんまま作り直すよりはマシか」
俺は少しだけ目を上げた。
この人は、こういうところが早い。
俺が何をしたいのか全部分かっているわけではない。それでも、自分の仕事に置き換えて必要なところだけは拾う。
「せやな」
「ほなやるで」
刃を軽く整え、一本目から順番に作った。出来上がった雄ネジは混ぜず、作った順に並べていく。
一、良し。
二、良し。
三、四も問題ない。
五本目まで作ったところで一度止め、全部を雌ネジへ入れて確かめた。
「全部入っとるやん」
「それを確かめとんねん」
「刃は?」
「嘉兵衛さんはどう?」
嘉兵衛はねじ切り板を手に取り、少し動かしてから頷いた。
「まだ普通やな」
「ほな続けよ」
六本目、七本目、八本目と進む。
九本目を作ったところで、もう一度聞いた。
「どう?」
「まだいける」
十本目。
嘉兵衛は途中で一度屑を落とし、油を足してから最後まで切った。
「ほら」
出来上がった雄ネジを受け取り、雌ネジへ入れる。
最後まで回った。
◇
「十本、全部良し」
榊屋へ戻り、お澪が言った。
「おお」
「今日は早かった」
「慣れてきた?」
「ネジ見るのに?」
「うん」
「嬉しない」
宗次郎が横で帳面を開いた。
一、良し。
二、良し。
三、良し。
十まで、全部良し。
昨日までなら「十本、良し十」と書いて終わっていたところだ。今日は一本ずつ並んだ「良し」の文字が、途中で悪くなっていないことまで教えてくれる。
「兄上」
「何や」
「今日は後ろも悪くなってません」
「せやな」
「刃を直したからですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「十本一回だけじゃ分からん」
宗次郎が少し呆れた顔をした。
「十本全部良かったのに?」
「良かったから終わりにしたら、また悪なった時に分からんようになるやろ」
十本全部できた。
それは嬉しい。
昨日より一つ進んだのは間違いない。
ただ、十本できたことと、百本続けて作れることは別の話だ。
「ほな百本いけるな」
聞き覚えのある声がした。
「まだや!」
振り返ると、善次郎が立っていた。
「十本全部できたんやろ?」
「十本はな」
「十回やったら百本やん」
「算術の話してへんねん!」
「何本作ったらええねん」
「知らん!」
「知らんの?」
「せやから作るんや!」
善次郎が笑った。
その後ろから、善右衛門がのそりと顔を出した。
「ほな、ちょうどええな」
「何が」
「嘉兵衛がな」
嫌な予感がした。
「ねじ切り板、もう一組欲しい言うとる」
「何で?」
「ネジ作るんやと」
「それは今も作っとるやん」
「榊屋のためやのうて、自分とこの客に売りたいらしいわ」
俺は黙った。
「……嘉兵衛さんが?」
「せや。あいつ、昨日のうちに考えとったらしいで。農具でも刃物でも、外して直せたら便利なところがある言うてな」
なるほど。
あの親父、ただ言われた通りネジを作っていたわけではなかったらしい。
「売れる思うたんやろな」
善右衛門が笑う。
「……勝手に?」
「せやから聞きに来たんやろ。勝手にやる奴やったら、わしも最初に選ばんわ」
それはそうだった。
嘉兵衛が自分の客に売る。それ自体は、別に悪い話ではない。むしろ、俺たちが作った道具が榊屋の外でも役に立つなら、昨日まで考えていたことの先にある話だ。
だが、そこで別のことが引っ掛かった。
「そのネジ、誰が良しって言うん?」
「ん?」
「嘉兵衛さんとこで作って、そのまま売るんやろ?」
「そうなるな」
「今日みたいに十本全部良しならええ。でも、昨日みたいに手直しや駄目が混じったら?」
善右衛門の笑みが少しだけ薄くなった。
「嘉兵衛さんが見て売るんか。俺らが見るんか。それとも、向こうで誰か別の人が見るんか」
道具を貸す。
作り方を教える。
同じものが作れるようになる。
そこまでは考えた。
だが、よその工房がその道具を使って自分の客へ売るなら、作れるだけでは足りない。
何を良しとするのか。
誰がそれを確かめるのか。
そこまで決めなければ、同じ道具を使っているというだけで、全部同じ物として売られることになる。
善右衛門が顎を撫でた。
「……そこやな」
「嘉兵衛さん、明日来てもらえる?」
「呼んどくわ」
善右衛門が頷いた。
十本全部、良しになった。
だから次は、その「良し」を誰が決めるのかを決める。




