水で回す
翌朝、喜兵衛は本当に嫌そうな顔をしていた。
「ほんまにやるん?」
「昨日決めたやろ」
「虎松が勝手に決めたんやろ」
「俺と喜兵衛で一対一や。まだ決着ついてへん」
「市兵衛」
「俺、入れんといて」
市兵衛は即座に逃げた。
旋盤を目指して作り始めたものは、工房の隅に据えたままになっている。ここ数日の試行錯誤で、主軸を支える滑り受けと、前後への動きを抑える玉の軸受を組み合わせ、材料の両端を支える方法も決まった。短い鉄棒なら、何本か近い太さに削れるところまで来ている。
残る問題の一つが、人間だった。
足踏みでも回るし、市兵衛ならかなり一定の速さを保てる。それでも削っている間は一人が踏み続けなければならず、疲れれば当然、回転も変わる。これでは旋盤を作ったというより、市兵衛を動力として使うための道具を作ったようなものだ。
そのすぐ近くでは、水車が今日も回っている。
「つながん理由ないやろ」
「壊れるかもしれんやん」
「いきなり速う回したりせえへん。穴あけの時もやったやろ」
俺だって何も考えず、水車の軸へ直接つなぐつもりはない。水車から取った回転を別の軸へ伝え、車の大きさを変えて旋盤へ持ってくる。最初は足踏みより少し速い程度でいい。
「まず回すだけ。削らん」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「その次は?」
「削る」
「ほら」
「当たり前やろ」
◇
水車から旋盤まで動力を持ってくる作業そのものは、以前ほど大仕事ではなくなっていた。
砥石と穴あけ機を作った時に一度経験している。喜兵衛と相談しながら軸を渡し、木の車を付け、革帯を掛ける。今回はまだ試しなので、後から掛け方を変えられるようにしておいた。
問題は、その先だった。
「甚助、ちょっと見て」
「何や?」
呼ばれてきた甚助は、旋盤と水車から伸びた軸を見比べた。それから俺ではなく、旋盤を載せている木枠を見た。
「これ、水車で回すん?」
「そのつもり」
「今までより速なる?」
「最初はそんな変えへん。でも、いけそうなら上げる」
甚助は木枠へ手を掛け、脚の一本を軽く揺すった。
「上げるなら気ぃつけや」
「何で?」
「これ、足で踏んで回すつもりで作ったやろ」
「うん」
「水車でずっと回すつもりでは作ってへん」
言われて木枠を見る。
確かにそうだった。
踏板を付ける時には、人が踏んでも動かない程度の強さしか考えていない。主軸を支えるところには補強を入れたが、枠全体は木組みだ。
「まず遅う回すから」
「ほな、ええけど」
「何かあったら止める」
「そうし」
甚助はそれだけ言って仕事へ戻った。
俺は喜兵衛を見る。
「何?」
「いや」
「言いたいことあるなら言えや」
「俺、何も言うてへんやん」
その顔が腹立つ。
それでも、動力をつなぐのに半日近く掛かった。
「回すで」
「まだ刃当てんなよ」
「分かっとる」
水を流すと、水車がゆっくり力を受け始めた。軸が動き、革帯が走り、その先で旋盤の主軸が回り始める。
俺はしばらく何もせずに見ていた。異音はなく、大きな振れもない。市兵衛は滑り受けへ手を当て、次に軸の端へ回って玉を入れた側も確かめる。
「どう?」
「まだ大丈夫」
「熱くない?」
「うん」
しばらく空で回してから水を止め、油の回りと軸の当たりを確認する。木枠にも手を当ててみたが、目立った揺れはなかった。
「鉄いこか」
「早ない?」
喜兵衛が言う。
「何のためにつないだと思っとんねん」
昨日使ったのと同じくらいの鉄棒を取り付け、両端の中心を合わせる。刃物台の位置を確かめてから、もう一度水を流した。
鉄棒が一定の速さで回り始める。
刃物を少しずつ近づけると、やがて刃先が鉄へ触れた。細い削り屑が出て、さらに僅かに刃を入れても回転は止まらない。
「ほら!」
「何が?」
「水や!」
「見たら分かる」
喜兵衛の反応は薄かったが、俺には十分だった。
足踏みの時と違って、市兵衛は横で見ているだけだ。それでも鉄棒は回り続け、足の動きに合わせて速くなったり遅くなったりもしない。
一本削って止め、ゲージを通す。
入った。
「もう一本」
「まだやるん?」
「一回だけで分かるか」
二本目も同じように削る。これもゲージへ入り、しかも足踏みより少し早い。
「ええやん」
思わず口元が緩んだ。
市兵衛が俺を見る。
「嬉しそうやな」
「そら嬉しいやろ。お前もう踏まんでええんやぞ」
「それは嬉しい」
「やろ?」
ここまでは、思っていた通りだった。
◇
「もうちょい速くしてみよか」
喜兵衛が俺を見た。
「今のでええやん」
「もう少し速く削れたらええやろ」
「削れとるやん」
「もっとや」
「何で?」
「できるから」
口に出してから、自分でも少し雑だと思った。
今の速さでも仕事には使える。足踏みより安定していて、市兵衛を一人取られない。それだけでも水車につないだ意味は十分にある。
でも、遅い。
前世で見慣れていた旋盤と比べる方が間違っているのは分かっている。それでも、回転を上げればもう少し早く削れるはずだった。穴あけ機だって車の大きさを変え、使える速さを探したのだから、今回も同じことをすればいい。
「ちょっとだけや」
「その言い方、信用ならん」
車の掛け方を変え、旋盤側の回転を少し上げる。まず空で回し、次に鉄棒を取り付けて回してみたが、ここまでは問題なかった。
刃を当てる。
「お」
さっきより削り屑が早く出る。
一本削り終えるまでの時間も短い。止めて加工面を触ってみても、悪くなかった。
「いけるやん」
水車と旋盤を交互に見た。
「もう一段いけるな」
「何でそうなるん?」
「今いけたからや」
「今のでええやん」
「使えるところ探しとんねん」
それは嘘ではない。どこまで回せるか分からないなら、試すしかない。
ただ、さっきまでの俺なら、ここで一度様子を見ていたかもしれない。
昨日、何本か近い太さに削れた。
今日、水車につないでも削れた。
少し速くしても削れた。
だったら、もう少しいける。
そんな考えが、いつの間にか俺の中で当たり前になっていた。
もう一度、掛け方を変えた。
◇
今度は、音が違った。
空で回している間は気にならなかったが、鉄棒を取り付けて回転を上げると、木枠から低い響きが出始めた。
「虎松」
市兵衛が言った。
「何?」
「さっきより音する」
「速なったからやろ」
「そういう音ちゃう」
市兵衛は軸の近くへ顔を寄せた。
「ここ。震えとる」
見ると、木枠が僅かに揺れている。
「これくらいなら……」
刃を当てた。
削れる。
ただ、さっきとは手応えが違った。刃先が細かく震え、その振動が刃物台を通して手へ伝わってくる。
「止めて」
新八が言った。
水を止め、加工面を確認する。新八が指でなぞり、さっき削った鉄棒と並べた。
「これ、さっきの方が綺麗ちゃう?」
確かに細かな波が出ていた。回転を上げたのに、仕上がりは悪くなっている。
「枠やな」
「枠?」
「弱い。速う回したら震えが出とる」
俺は甚助を呼んだ。
やって来た甚助は、加工面より先に回っている木枠へ手を当てた。主軸の近く、横桟、脚と順に触ってから、水を止めさせる。
「ここだけちゃうで」
「どこ?」
「脚から動いとる」
甚助が枠の下を指した。
「軸のとこだけ固めても、下が揺れたら一緒や。ここと、こっち。斜めに一本入れた方がええ」
「筋交いか」
「何それ」
「斜めの木」
「最初からそう言えや」
甚助と一緒に横揺れを抑える木を入れ、主軸を支えるところにも補強を足した。さらに据え付けを見直し、脚の下で浮いているところも詰める。
もう一度回す。
さっきより明らかに静かだった。
「ほらな」
俺が言うと、甚助が首を傾げた。
「俺が直したんやけど」
「発案は俺や」
「何の?」
「……旋盤の」
「今それ関係ある?」
喜兵衛が笑っている。
鉄棒を取り付け、刃を当てる。振動はかなり減り、加工面の波も小さくなった。
「いけるやん」
今度こそ、そう思った。
甚助はまだ木枠を見ていた。
「虎松」
「何?」
「これ以上速うするなら、枠から考え直した方がええで」
「そんな変えるつもりないよ」
「ほんま?」
「ほんま」
甚助は少し疑わしそうな顔をした。
◇
しばらくして、市兵衛が言った。
「止めて」
「また?」
「熱い」
水を止めて軸受へ触れた。
「あっつ」
思わず手を離す。
足踏みの時にも温かくなることはあったが、ここまでではない。滑り受けはもちろん、軸の端に入れた玉の方にも強く当たった跡が出ていた。
「何で?」
喜兵衛が聞く。
「回しすぎや」
「壊れた?」
「まだ壊れてへん」
油を差し、少し冷ましてから受けの締め具合を調整する。再び回せば最初は軽いが、長く続けるとまた熱を持った。
「足で回しとった時は平気やったのに……」
思わず呟くと、新八が言った。
「足で回してへんからちゃう?」
「……せやな」
何も言い返せなかった。
足踏みでは回転そのものが遅く、途中で止めることも多かった。水車につないで一定の速さで回し続ければ、軸受が擦れている時間も増える。
玉を使った受けも同じだった。大きさを選んではいるが、完全に揃っているわけではない。挟んでいる板だって真っ平らではなく、回転が上がれば、低い速さでは誤魔化せた小さな違いが強く出てくる。
「一回落とそ」
車の掛け方を戻し、回転を一段落とす。
しばらく回してみると、熱の上がり方はずっと小さかった。
「……なるほどな」
「何が?」
「使える速さがある」
喜兵衛が呆れた。
「最初からそう言うてたやん」
「聞こえへんな」
◇
回転を落としてからは、しばらく順調だった。軸受の熱も我慢できる範囲で、振動も小さく、加工面も悪くない。
そこで俺は、もう一つ試したくなった。
「ちょっと深く削ってみよ」
「何で?」
喜兵衛がまた言った。
「力あるやろ。水車やぞ」
「さっき痛い目見たばっかりやん」
「回転は落としたやろ」
刃を少し深く入れると、さっきより太い削り屑が出た。それでも回転は止まらない。
「ほら」
もう少しだけいける。
そう思って刃を送った瞬間、ガッ、と嫌な音がした。
すぐに水を止める。
新八が刃物を外し、刃先を確かめた。
「欠けとる」
「……ほんまやな」
「速く削れるんちゃうん?」
「……俺もそう思っとった」
「違うん?」
「今、違う気がしてきた」
水車には力がある。
だが、水車につないだからといって、木枠が強くなるわけでも、軸受が丈夫になるわけでも、刃物の鋼が別物になるわけでもない。
研ぎ直した刃を戻し、今度は浅く当てる。
何事もなかったように削れた。
「結局戻っとるやん」
喜兵衛が言った。
「確認しただけや」
「何を?」
「欲張ったらあかんことを」
「今さら?」
「うるさい」
◇
午後には、俺も少し慎重になっていた。
回転は落とした。刃物も研ぎ直した。軸受の熱も確かめた。木枠には甚助の補強も入っている。
このくらいなら使える。
鉄棒を取り付け、両端の中心を確かめる。空で回して問題がないことを見てから、刃物をゆっくり近づけた。
細い削り屑が安定して出る。
今度はいい。
少しずつ刃物台を動かしていると、市兵衛が声を上げた。
「虎松」
「何?」
「待って」
「どうした?」
「これ、さっきより揺れてへん?」
鉄棒を見る。
ほんの僅かだった。
だが、確かに振れが大きくなっている。
「止めよ」
俺が水を切ろうとした、その時だった。
「止めて!」
市兵衛の声とほとんど同時に、ガンッ、と大きな音がした。
片側の支えがずれ、鉄棒が大きく振れ始める。
「離れろ!」
全員が一斉に下がった。
俺は水を切り、喜兵衛が革帯を外す。それでも、回っていた主軸はすぐには止まらなかった。惰性で回る鉄棒が木枠を叩き、ガン、ガン、と二度大きな音を立てる。
やがて回転が落ち、鉄棒が止まった。
誰もすぐには近づかなかった。
「……飛ばんかったな」
喜兵衛が言った。
「……うん」
「足で回しとった時より怖ない?」
「……うん」
さっきまで俺たちが立っていた場所と、止まった鉄棒を見比べる。
もし完全に外れていたら。
そこから先は、考えなくても分かった。
「せやから言うたやろ」
声がした。
振り返ると、甚助が立っていた。騒ぎを聞いて来たらしい。
「……はい」
「これ以上速うするなら、枠から考え直せ言うたやろ」
「これは速うしたんやなくて……」
「ほな、何でこうなったん?」
「……支えがずれた」
「聞かへんかったやろ」
「……はい」
甚助は壊れたところを覗き込んだ。
「次は聞きや」
「……はい」
今日、俺はよく「はい」と言っている気がする。
◇
「何したん?」
今度は親父が来た。
「ちょっと」
「何を?」
「速くした」
甚助が俺を見る。
「途中から落としたで」
「余計な補足せんでええ」
親父は眉を寄せた。
「何で速くしたん?」
「速く削れると思って」
親父はずれた支えを見て、次に熱を持った軸受と欠けた刃物を見た。それから朝から削った鉄棒を何本か手に取り、指で加工面を確かめていく。
「削れた?」
「最初は」
「ほな、何で今止まっとるん?」
「……色々ありまして」
親父は鼻で笑った。
何本かを並べ、その中から一本を取る。
「これが一番綺麗やな」
「それ最初の方」
「遅かった時?」
「……せやな」
親父は鉄棒を置いた。
「ほな、その速さで削ったらええんちゃう?」
「……せやな」
「何で速うしたん?」
「……速うできると思ったから」
「できんかったんやろ?」
「はい」
「ほな分かったやん」
それだけ言って、親父は仕事へ戻っていった。
説教すらされなかった。
それが少し腹立たしかった。
◇
夕方、俺たちは朝から削った鉄棒を作業台へ並べた。
低い回転で削ったもの。少し速くしたもの。木枠が震え始めた時のもの。刃物を深く入れすぎたもの。表面を指でなぞるだけでも違いが分かる。
「これが一番ええな」
新八が最初の一本を指した。
「こっちも悪ない」
市兵衛は、その次に少し速くして削ったものを取る。
「でも、これ長く回したら熱持った」
「ほな、その間か」
俺は軸受を見た。
最高の速さを探す必要はない。安定して回り、軸受が焼けず、刃物が持ち、加工面も悪くない。その条件を満たすところを探せばいい。
「何してるんです?」
宗次郎が通りかかった。
「どの速さなら使えるか見とる」
「朝は?」
「速ければ速いほどええと思っとった」
宗次郎は並んだ鉄棒と壊れかけた木枠を見比べ、それから俺を見た。
「馬鹿なんですか?」
「兄にもう少し敬意持たへん?」
「怪我してからでは遅いですよ」
「……はい」
そこは何も言い返せなかった。
宗次郎が仕事へ戻ってから、俺はもう一度鉄棒を眺めた。
「知っとったはずなんやけどなあ」
新八が首を傾げる。
「何を?」
「速けりゃええわけちゃうってこと」
「ほな何で速くしたん?」
「……やってみたかった」
喜兵衛が笑った。
「子供やん」
「十七やぞ」
「子供やん」
「うるさい」
理屈なら知っていた。設備には使える条件があり、回転を上げれば、それまで見えなかった振動や熱や摩耗が出る。力を増やせば、その力を受ける側が先に負けることだってある。
前世なら、そんなことは当たり前だった。
それでも、自分たちで作ったものが少しずつ形になり、昨日できなかったことが今日できるようになると、もう一つ先まで行ける気がした。
そして、実際に行ってみた。
今日は少し行きすぎただけだ。
◇
最後に、もう一度だけ車の掛け方を変えた。
朝より遅い。足踏みより少し速い程度まで落とし、甚助にはずれた支えと木枠を見直してもらった。
「これなら?」
「この速さならな」
「よし」
「速うすんなよ」
「分かっとる」
「ほんまに?」
「今日だけで何回聞くねん」
「信用ないからや」
水を流す。
旋盤が回り始めた。
市兵衛が軸受へ手を当てる。
「これなら大丈夫そう」
「しばらく回してみよ」
空のまま回し、熱を確かめる。甚助は木枠へ手を当て、喜兵衛は革帯と軸の動きを見ている。問題がないことを確認してから鉄棒を取り付け、中心を合わせ、新八が研ぎ直した刃物を浅く当てた。
細い削り屑が伸びる。
しばらく回しても木枠は暴れず、軸受も異常に熱くならない。刃物も素直に鉄へ入っている。
「遅ない?」
市兵衛が聞いた。
「ええねん」
「朝もっと速かったで」
「忘れろ」
「もっと速くできる言うてたやん」
喜兵衛が言った。
「忘れろ」
「水車ならもっと深く削れるとも言うてたな」
新八まで乗ってきた。
「お前ら今日の朝の記憶なくせ」
「枠は大丈夫や言うてたな」
甚助まで加わった。
「お前は忘れたらあかんやろ。次作る時に要るやろ」
「都合ええなあ」
四人が笑った。
俺は削られていく鉄棒を見た。
高速では回せない。長いものを支えられるわけでもない。精度だって、前世で知っていた旋盤とは比べものにならない。
でも、水の力で回り続ける。
人が踏まなくてもいい。
短い鉄棒なら、近い太さへ繰り返し削れる。
「……小さいもんなら、使えるな」
刃先から、細い削り屑が伸びていった。




