一挺を流す
翌朝、俺はいつもより早く工房へ入った。
火床にはまだ火が入っていない。外から聞こえるのは水の音だけで、水車も止まったままだった。
昨日までと何も変わっていないはずなのに、妙に落ち着かない。
「兄上、早いですね」
後ろから声がした。宗次郎だった。
「普通や」
「まだ誰も来てませんけど」
「たまたまや」
「昨日、楽しみで寝られへんかったんですか」
「寝たわ」
「何刻くらい?」
「知らん」
「寝られてへんやないですか」
うるさい。
*
今日は、新しい榊屋だけで一挺作る。
途中の仕事なら、すでにいくつも新工房へ移している。火床も使っているし、水車砥石も動いている。穴あけ装置でも、金具を何個か加工した。
ただ、材料を出すところから最後の組み上げまで、一挺の仕事を全部ここだけで通したことはない。
「これでええ?」
俺が材料を確認すると、宗次郎が帳面を見る。
「鉄はあります。台木もこれで。金具は作り置きがありますけど、今日はどうします?」
「最初からやるなら、作るか」
「全部?」
「全部」
「時間かかりますよ」
「今日は速さ見るんちゃう。通るか見るんや」
宗次郎が顔を上げた。
「分かってるやないですか」
「俺を何やと思っとる」
「穴あけしたい人」
「間違ってへんけど」
宗次郎は今日使う材料を書き出し、その横に担当する者の名前を書いていく。
「一挺だけやぞ」
「一挺で分からんなら、五十挺でも分かりません」
「最近お前、善次郎みたいになってきたな」
「嫌です」
「そこまで嫌がる?」
*
職人たちが集まり、火床に火が入った。
最初の仕事は佐吉と藤吉に任せる。
「ここ、先やっとけ」
佐吉が金具を渡した。
「はい」
藤吉が受け取り、鑢を手にする。少し削ったところで佐吉が止めた。
「待て」
「何です?」
「そこ見るん先や」
「まだ削ってへんで」
「削る前に見るんや。こっち合わんかったら、そこ削ってもしゃあないやろ」
「ああ」
「先に相手見て、それから削れ」
藤吉が金具を合わせて確かめる。
俺は少し離れたところから見ていた。
佐吉が顔を上げる。
「何?」
「いや」
「何かある?」
「ない」
「ほな向こう行って」
「何でや」
「藤吉が兄ちゃん見よる」
確かに藤吉がこっちを気にしていた。
「……分かった」
追い払われた。
*
「市兵衛、いける?」
「待て。今こっち研いどる」
次は水車の側だった。
市兵衛は砥石の前に座り、今日使う刃物を研いでいる。砥石へ刃を当て、離し、指先で確かめた。
「これでええ」
「穴あけも頼む」
「俺が?」
「昨日やったやろ」
「お前がやっとったやん」
「今日から市兵衛」
「勝手に決めんな」
「水車の仕事やろ」
「砥石の仕事で入ったんやけど」
「似たようなもんや」
「全然ちゃうやろ」
文句を言いながらも、市兵衛は穴あけ装置の前へ来た。
俺が金具を治具へ載せる。
「ここ固定して、この錐。輪はこれ使う」
「おう」
「送りは急にやったらあかん。音変わったら一回止めて」
「分かった」
「あと振れ見て」
「分かった」
「それから」
「虎松」
「何?」
「やらせろ」
「……はい」
場所を譲る。
市兵衛が水を入れてもらい、装置を回した。錐が回り始めると、金具を固定して位置を確かめ、俺がやった時より慎重に錐を下ろしていく。
錐が金属へ触れ、音が変わった。
少し進んだところで、市兵衛が手を止める。
「待て」
「何?」
「昨日と音ちゃうぞ」
喜兵衛が寄ってきた。
「どこ?」
「こっちから鳴っとる」
水を止めて軸を見る。喜兵衛が支持へ手を当て、すぐに楔へ目をやった。
「ああ、ここや」
「緩んどる?」
「ちょっとな」
楔を締め直し、もう一度回す。
市兵衛はしばらく音を聞いてから頷いた。
「これならええ」
再び錐を下ろす。今度は最後まで抜けた。
「どう?」
俺が聞いた。
「砥石より面倒やな」
「そこ?」
「こっちは削るもんも見なあかんやろ」
市兵衛は穴を覗き込んだ。
俺が機械を考え、喜兵衛が仕組みを直し、市兵衛が使う。前の人生なら別々の人間が受け持っていたような仕事が、榊屋でも少しずつ分かれ始めていた。
*
「待って」
次へ持っていこうとした金具を、新八が取った。
「何?」
「これ、このまま次行くん?」
「穴は開いたで」
「穴だけならな」
新八は金具を裏返し、穴の周りを指で触った。それから相手になる部品を持ってくる。
「市兵衛」
「何や」
「これ開けたん?」
「そうや」
「次から、ここも見てくれ」
「どこ?」
「ここ。残りすぎたら、後で合わせる時に削る量増える」
市兵衛が覗き込む。
「穴開けるだけちゃうんか」
「穴開けた後に使うやろ」
「そらそうやけど」
「ほな見る」
「面倒やな」
「仕事や」
「お前、親方みたいなこと言うな」
「言われたから言うただけや」
俺は横で聞いていた。
新八がこちらを見る。
「何笑ってんねん」
「いや別に」
「言いたいことあるなら言え」
「ない。続けて」
「気持ち悪いな」
ひどい。
*
一挺分しか流していないのに、物は何度も工房の中を動いた。
五平が作業台から部品を取り、次の場所へ運ぶ。
藤吉が加工を終えた金具を、空いている場所へ置こうとした。
「そこちゃうで」
五平が言った。
「ここ空いとるけど」
「次のやつと混ざる。終わったんはこっち」
「あ、はい」
「札も一緒に持ってけ」
藤吉が慌てて札を取った。
五平はそれ以上何も言わず、自分の仕事へ戻る。
俺が決めた置場なのに、もう五平の方がきっちり守っていた。
*
難しい合わせまで来ると、弥吉の出番になった。
「これ?」
「おう」
新八が部品を渡す。
弥吉は一度合わせてから外し、すぐ鑢を取った。
「待て」
「何?」
「もう削るん?」
「うん」
「どこ?」
「ここ」
弥吉が削る。
もう一度合わせ、少しだけ削って、また合わせた。
「はい」
「終わり?」
「終わり」
新八が受け取って見る。
「……何で最初そこから削った?」
「そこ当たっとったから」
「どうやって分かった?」
「見たら」
「何を?」
「そこ」
「せやから、そこの何を見たんや」
「知らん」
「何で知らんねん!」
「合ったやろ」
「合ったけど!」
また始まった。
新八は弥吉が削った場所と相手の部品を交互に見る。
「……これか?」
「何?」
「ここだけ先に擦れとる」
「ああ。たぶんそれ」
「たぶん!?」
「知らん言うたやろ」
「お前ほんま腹立つな」
弥吉は笑っていた。
*
昼を過ぎた頃、宗次郎に呼ばれた。
「兄上」
「何?」
「止まってます」
「何が?」
「これ」
宗次郎が指した先に、加工途中の部品が置かれている。
「何待ち?」
「弥吉さん」
見ると、弥吉は別の鉄砲を触っていた。今日の一挺だけ作っているわけではなく、今までの仕事も続いている。
「呼ぶ?」
「待て」
新八が部品を取った。
「これ、全部弥吉がやらなあかんの?」
「最後の合わせは弥吉か親父やな」
「最後はな」
新八が部品を見る。
「ここまでなら俺でもできるで」
佐吉も寄ってきた。
「俺もそこまではいける」
「ほな先やっとこか」
「最後だけ弥吉に回す?」
「その方が早いやろ」
五平が別の部品を持ってきた。
「これも同じやで」
新八が受け取る。
「ほな一緒にやる」
俺は宗次郎の紙を覗き込んだ。
「ここ、分けた方がええな。ほな工程を」
「もう新八さんやってます」
「じゃあ佐吉を」
「佐吉さんなら藤吉見ながら、そっちやってます」
「材料は?」
「出してあります」
「……」
何かないか。
俺の仕事。
工房を見る。
新八が前の作業を進め、佐吉が藤吉を見ながら別の金具を触っている。五平が次に必要なものを運び、宗次郎は止まった場所を紙へ書いていた。
喜兵衛は水車から来る軸を見ている。
市兵衛は穴あけ装置の前で、さっき新八に言われたところまで金具を確認していた。
弥吉が別の仕事を終える。
「次どれ?」
新八が渡した。
「ここまではやった」
「おう」
弥吉は受け取ると、最後の合わせに取りかかった。
「……俺、何したらええ?」
口から出た。
近くにいた親父が振り向いた。
「お前、いらんやん」
「いや要るやろ!」
工房の何人かが笑った。
「俺が考えた工房やぞ!」
「せやな」
「水車も!」
「せやな」
「穴あけも!」
「さっき市兵衛がやっとったな」
「教えたん俺や!」
「ほな、もうええやん」
「よくない!」
弥吉まで笑っている。
「虎松、邪魔やからそこどいて」
「お前まで!」
仕方なく通路から外れた。
親父はまだ笑っている。
「何や」
「いや」
「笑っとるやん」
「ええやんけ」
「何が」
親父は工房の中を見回した。
「お前がおらんでも回っとる」
「だからそれが問題や言うて」
「何が問題や」
親父が俺を見る。
「ここまで持ってきたん、お前やろ」
返事が出なかった。
「みんなで作れるようにしたかったんちゃうんか」
「……まあ」
「ほな、胸張っとけ」
それだけ言うと、親父は作業台へ戻った。
ずるい。
散々笑った後に言うな。
「兄上」
宗次郎だった。
「何」
「顔、変ですよ」
「うるさい」
「でも、親父の言う通りやと思います」
「お前まで何や」
宗次郎は手元の紙を見た。
「兄上が全部やらなあかん工房やったら、百挺なんか無理でしょう」
「……せやな」
「兄上の仕事、ちゃんとありますよ」
「何?」
「次に困ること考える仕事」
「嫌な仕事やな」
「兄上、好きでしょう」
「……好きやな」
「知ってます」
宗次郎は紙へ目を戻した。
「ほら。もう一個あります」
「何?」
「今日、止まったとこ」
「今言う?」
「兄上の仕事でしょう」
「さっきまでちょっとええ弟やったのに」
「終わりました」
早い。
*
午後になって、一挺は最後の組み上げまで来た。
弥吉が最後の合わせを終える。新八は途中で自分が見た金具をもう一度確かめ、佐吉も自分のところを確認した。
親父が組み上がった鉄砲を受け取る。
火皿を見る。火蓋を動かし、引金を確かめる。銃身を覗き、台木との合わせも見る。
しばらく触った後、親父が言った。
「持ってくぞ」
*
試し撃ちの場所へ移った。
火薬を入れ、弾を込める。
親父が構えた。
火が走り、轟音が響いた。
煙が流れる中で親父は鉄砲を下ろし、もう一度機構を確かめる。
「どう?」
俺が聞いた。
「売ってええ」
六年前にも、同じことを言われた。
あの時は、自分で作った一挺だった。
今日は、穴の一つも俺は開けていない。
「何や」
親父が言った。
「いや」
「変な顔すんな」
「してへん」
「しとるで」
「うるさい」
*
工房へ戻ると、みんなすぐ自分の仕事へ戻った。
佐吉は藤吉の仕事を見ている。五平は材料を運び、弥吉は途中だった鉄砲へ戻った。
新八はさっそく弥吉を捕まえていた。
「さっきの合わせ、もう一回教えて」
「何を?」
「最初に見たとこ」
「知らん」
「知らんで済ますな」
市兵衛は穴あけ装置の前にいた。
木の輪へ何か印をつけている。
「何してんの?」
「これ」
輪の一つを指した。
「この錐ん時、これ使ったやろ」
「おう」
「分からんようになるから印つけとく」
「ええやん」
「新八がうるさいから、見るとこも覚えなあかんし」
「頑張れ」
「お前が増やした仕事やろ」
「そうとも言う」
宗次郎は今日使っていた紙を見ていた。
「何見てんの?」
「止まったところです」
横から覗く。
市兵衛のところで一度止まり、弥吉待ちも出た。新八が止めたところがあり、置場を直したところもある。
「直すとこ、あるな」
「ありますね」
「明日は?」
「今日止まったところ、直します」
「その次は?」
宗次郎が俺を見る。
「もう一挺やります?」
「いや」
「では?」
「次は一挺ちゃうやろ」
「何挺です?」
答えようとしたところで、工房の入口から声がした。
「ほな、ちょうどええな」
振り返ると、善次郎が立っていた。
「何が?」
「新しい工房、動いたんやろ」
「今日、一挺通した」
「ほな次や」
「何が」
善次郎は笑った。
「五十挺」
「誰が言うた」
「俺」
親父が奥から顔を出した。
「勝手に増やすな」
善次郎の笑顔が少しだけ固まった。




