仕事を移す
「棚、終わりました」
「よし。穴あけやな」
「次は作業台です」
「まだ!?」
新しい工房の真ん中で、宗次郎は呆れたように俺を見た。
「棚だけあって、どこで仕事するんです」
「作業台」
「でしょう」
「分かっとるよ」
「では作業台です」
分かってはいるのだが、俺の視線は工房の外へ向いていた。
水車はもう回る。そこから工房へ軸を通す準備も進み、人力で試した穴あけ装置も喜兵衛と一緒に少しずつ手を入れている。
それなのに、今日やるのは作業台だった。
「穴あけ、先に一回だけ」
「虎松」
親父だった。
「何?」
「鉄砲作る工房やろ」
「せやで」
「鉄砲作れるようにするんが先や」
「穴あけも鉄砲作る道具やん」
「作業台ないのに、どこで作んねん」
「……はい」
宗次郎が紙に何か書いた。
「今、何書いた?」
「作業台」
「書かんでも分かるやろ」
「兄上が飛ばそうとするので」
信用がない。
*
新しい榊屋へ仕事を移す。
前の人生なら、設備移管とかライン立ち上げとか、そんな言葉を使っていただろう。ただ今回は機械だけ動かせばいいわけではない。
鑢もいる。鏨もいる。槌も炭も鉄もいる。作りかけの部品を置く場所も必要だ。作業台、棚、火床、材料置場、仕掛品置場、完成した鉄砲を置く場所まで、仕事と一緒に移さなければならない。
しかも、今の榊屋では今日も鉄砲を作っている。
「全部こっち持ってきたら早ない?」
俺が言うと、親父は即答した。
「ほな今日の仕事どうすんねん」
「ですよね」
「分かっとるなら聞くな」
一度に引っ越す案は即座に消えた。
新しく作った棚や作業台は最初から新工房へ入れる。余っている道具も先に運び、同じものが複数あるなら一部だけ移す。今の榊屋で毎日使っているものは後回しにする。
旧工房を動かしながら、新工房を立ち上げる。
設備移管として考えれば当たり前なのだが、自分の家の工房となると、俺は穴あけを回すことばかり考えていたらしい。
宗次郎は紙を一枚増やした。
「また増えた」
「何を、いつ、誰が運ぶか書きます」
「そこまで要る?」
「兄上、昨日、鑢持っていく言うてましたよね」
「言うた」
「佐吉さんが使ってました」
「……言うたな」
「なので要ります」
反論できなかった。
「紙増やしてるの、兄上ですからね」
「俺?」
「決めること増やすからです」
ますます反論できなかった。
*
作業台が入ると、工房の中もだいぶ仕事場らしくなった。
庄兵衛たちが作った台を予定していた場所へ置き、甚助が高さやがたつきを見る。佐吉と五平にも立ってもらい、実際に槌や鑢を使うつもりで位置を確かめた。
新八は作業台より、その横の棚を気にしていた。
「鑢どこ置くん?」
「ここ」
「全部?」
「そのつもりやけど」
「荒いのも細かいのも?」
「分けるで」
「使えんようになったやつは?」
「……別にする?」
「何で俺に聞くん」
「いや、今決めた方がええかなって」
新八は棚を触りながら考えた。
「混ざったら邪魔やろ。取ってから使えんって分かるん嫌やし」
佐吉も寄ってきた。
「教える時も分けといた方が楽やな。藤吉に細かい方取れ言うても、今やと探しよるし」
「ほな、ここ分けるか」
「札つけたらええんちゃう?」
「それなら藤吉でも戻せるな」
二人で話が進んでいく。
俺は横から何か言おうとして、やめた。
しばらくして宗次郎が来た。
「何してるんです?」
「鑢の置場決めとる」
「兄上が?」
「いや」
宗次郎は新八と佐吉を見る。
「では大丈夫ですね」
「待て」
「何です?」
「俺がおったら大丈夫ちゃうん?」
「邪魔してないなら大丈夫です」
「最近みんな俺の扱い雑ちゃう?」
新八が棚から振り返った。
「まだ十七やろ」
「関係ある?」
「ないな」
「ないんかい」
*
数日後、水車から最初に仕事をもらったのは、穴あけではなく砥石だった。
「何で?」
俺と喜兵衛が同時に言った。
親父は水車の横で腕を組んでいる。
「使えるもんから使え」
「穴あけも使える」
「水で回したことないやろ」
「人では回した」
「ほな水ではまだ使えへんやろ」
正しい。
腹立つくらい正しい。
「市兵衛」
「はいよ」
親父に呼ばれ、市兵衛が砥石の前へ出た。
市兵衛も、新しい榊屋へ移るのを機に正式にうちへ入ることになった。
最初に水車砥石を作った頃は、専属の職人にするつもりなどなかった。砥石を扱える人間が必要になり、市兵衛がその仕事を受け持つようになっただけだ。
ところが毎日使わせてみると、俺や喜兵衛より先に異常へ気づくことが増えていった。音がおかしい。少し振れている。砥石の減り方が違う。刃物の当て方を変えた方がいい。使っている時間が長いのだから、考えてみれば当然だった。
今では親父も、水車砥石のことなら最初に市兵衛へ聞く。
新しい砥石は、以前作ったものと仕組み自体はほとんど変わらない。ただし今回は後から置いたのではなく、最初から工房の設備として据えてある。
市兵衛が腰を下ろし、喜兵衛と清太郎が軸の位置を見ながら支持を調整する。準備ができたところで、伊助が水を入れた。
水車が回り、軸を通して砥石へ回転が伝わる。
「ちょい待て」
市兵衛がすぐに止めた。
「何?」
「ここ、少し振れとる」
喜兵衛が軸を見る。
「ほんまやな」
一度水を止めて支持を直す。もう一度回すと、市兵衛はしばらく砥石を眺めてから刃物を当てた。
砥石の音が工房に響く。
「どう?」
「使える」
「前のとどっちがええ?」
「こっち」
「何で?」
「座りやすい」
「そこ!?」
「毎日使うんやぞ」
市兵衛に言われ、何も返せなかった。
俺は機械を作る側だから、どうしても軸や支持の出来に目が行く。けれど市兵衛は毎日ここに座り、何本も刃物を研ぐ。座りにくければ、それだけで一日中使いにくい設備になる。
前の人生にも、こういう人たちがいた。
機械を設計したわけでも、工程を考えたわけでもない。毎日機械の前に立って材料を載せ、刃物を替え、音や振動のわずかな違いから調子の良し悪しを見つける。
マシニングオペレーター。
もちろん、ここにマシニングセンタなんてものはない。あるのは水車と木の軸と砥石だけだ。
それでも、市兵衛がやっていることは、その仕事のずっと原始的な形に見えた。
機械を増やすなら、それを作る人間だけでは足りない。毎日使って、癖を覚えて、調子を見られる人間も要る。
「何や」
見ていたのに気づいた市兵衛が言った。
「いや。頼むで」
「何を?」
「これからも」
「砥石やろ?」
「今はな」
「何やそれ」
市兵衛は怪訝な顔をして、また砥石へ向き直った。
*
「次こそ穴あけやな」
「はいはい」
喜兵衛だけは嬉しそうだった。
人力で試した穴あけ装置を、新しい工房へ据える。
固定した材料へ錐を送り込む仕組みそのものは変わらない。違うのは、人間が横で回していた軸を、水車から引いてきた回転で動かすことだった。
前の人生なら、ここからが本当の設備立ち上げだ。
機械を据えた。動力をつないだ。だから生産開始。
そんな素直な設備ばかりなら、前の人生でも苦労していない。
「回すぞ」
喜兵衛が言った。
「待って」
新八が横から覗き込む。
「何?」
「俺も見る」
「何で?」
「錐の速さ変わるんやろ」
「見るだけやぞ」
「触らん」
伊助に水を流してもらう。
水車が回り始めた。
軸が回り、その回転が工房の中へ入ってくる。穴あけ装置へつなぐと、錐も回り始めた。
「速い!」
「速いな!」
「止めろ!」
最後は新八だった。
すぐに水を止める。
三人で錐を見た。
「速いな」
「速い」
「速いやろ」
「分かったって」
水車そのものは、想定していた範囲で回っている。問題は、その回転を錐へどう伝えるかだった。
「落とすか」
喜兵衛が言った。
「せやな」
前の人生なら、プーリー比を変えるところだ。
軸につける輪の大きさを変えれば、回転は速くも遅くもできる。理屈は分かっているが、俺たちが使えるのは、その場で作れる木の輪と軸だけだった。
「こっち大きくする?」
喜兵衛が聞く。
「いや、待って。回す方と回される方が……」
頭の中で二つの輪を回す。
分かっている。分かっているはずなのだが、こういうものは一瞬どっちだったか分からなくなる。
「喜兵衛」
「何?」
「一回、手で回そ」
「どっちを?」
「……ちょっと待って」
新八が呆れた顔をした。
「分かってへんの?」
「分かっとる。今、頭の中で回しとる」
「実際に回した方が早ない?」
「……それもそうやな」
木の輪を仮に組み、手で回す。
「あ、こっちや」
「最初からそうしろや」
「確認は大事やろ!」
*
一度でちょうどいい速さにはならなかった。
輪を替えて回す。
まだ速い。
もう一度替える。
今度は遅い。
「これでも穴開くんちゃう?」
喜兵衛が言う。
「開くかもしれんけど、遅すぎたら人でやるんと変わらんやろ」
「ほな間やな」
「せやな」
また輪を替える。
横で見ていた新八が口を開いた。
「これ、錐替えるたびにやるん?」
「全部が全部ちゃうと思う」
「太いのと細いのでは変えるんやろ」
「たぶん」
「削るもんでも変わる言うてたやろ」
「言うたな」
新八は並べた木の輪を見る。
「ほな、どれ使うか分かるようにしといた方がええんちゃう」
喜兵衛が俺を見る。
俺も喜兵衛を見る。
「それは後」
「何で?」
「まず穴開けたい」
「そこは分かる」
新八もそこは同意した。
*
何度か試して、ようやく使えそうな速さになった。
以前、人力で穴を開けたのと同じような金具を持ってくる。治具へ固定し、位置を合わせた。
「回すで」
「おう」
水車が回り、錐が回る。
俺は送りだけを見る。
少しずつ下げると、錐が金属へ当たり、音が変わった。手には切削の感触が伝わってくるが、横で軸を回す人間はいない。
「いける?」
喜兵衛が聞く。
「いける」
そのまま送る。
やがて錐が抜けた。
「開いた!」
「開いたな!」
俺と喜兵衛が金具を外した。
穴がある。
「よし!」
「もう一個」
新八が言った。
「え?」
「もう一個やろ」
「開いたで?」
「一個やろ」
「見たら分かるやん。ちゃんと開いとる」
「次も開くん?」
「開くわ」
「ほな開けよう」
こいつ。
二個目を固定した。
開ける。
新八が見る。
「もう一個」
「まだ?」
「三個くらい見たいやろ」
弥吉がいつの間にか後ろにいた。
「開いたん?」
「開いた」
「ほなええやん」
「よくない」
新八が即答した。
「何で?」
「一個開いただけや」
「でも開いたんやろ」
「次も同じとこ開くか分からんやろ」
「開けたらええやん」
「せやから開けとるんや!」
「何で怒っとるん?」
三個目を固定しながら、俺は笑った。
*
結局、五個開けた。
位置と穴の周りを見て、治具の緩みも確かめる。新八は五個を並べて見比べた。
「これなら使えそうやな」
「やろ?」
「まだ五個やけどな」
「一言多いねん」
そこへ親父が来た。
「どうや」
「開いた」
「何人」
「一人」
「前は?」
「二人」
親父は穴の開いた金具を一つ手に取り、表と裏を見る。
「ほな、一個進んだな」
「もっと喜んでええんやで」
「何で俺が喜ぶん」
「息子が頑張ったから」
「仕事やろ」
「厳しいなあ」
新八が横から口を挟んだ。
「錐替える時、どうするん?」
「今それ言う?」
「太さ変わったら速さも変えるんやろ」
喜兵衛が腕を組んだ。
「輪も何種類か要るな」
「どれ使うかも決めなあかんな」
「削るもんでも変わるかもしれん」
親父が俺を見る。
「まだ終わってへんな」
「……はい」
「ほな続きやれ」
親父はそれだけ言って行ってしまった。
少しくらい褒めてもいいと思う。
*
穴あけを触っている間にも、引っ越しは進んだ。
棚に道具が入り、材料が運ばれ、火床にも火が入る。旧工房でやっていた仕事を一つずつ新しい方へ移し、問題が出れば直してから次を動かした。
新しい作業台は一つ高さが合わず、脚を直した。材料を置いてみたら通路が狭くなった場所もあり、置場をずらした。新八と佐吉が決めた鑢の置場も、実際に使ってから一度変わった。
宗次郎の紙には、消した跡と書き直した跡が増えていく。
「これ、最初に全部決めても無理やったな」
「兄上が言うんですか」
「俺も成長するんや」
「昨日、穴あけ先にやろうとしてましたよね」
「それとこれは別」
*
家の引っ越しも始まった。
お袋は必要なものから順に運んでいった。布団、鍋、食器、着替え。子供たちは荷物を運んでいるのか遊んでいるのか分からない。
「ここ俺の部屋!」
吉松がまた客間へ入った。
「ちゃう言うたやろ」
お袋に追い出された。
「まだ諦めてなかったんか」
「ここ広いもん」
「客来たらどうすんねん」
「俺も寝る」
「何でや」
新しい台所で、お袋が初めて火を使った。
「どう?」
俺が聞く。
「まだ分からん」
「前より広いやろ」
「広いから使いやすいとは限らんやろ」
「……はい」
「何日か使わんと分からん」
機械でも家でも同じらしい。
そこは口に出さなかった。
*
冬も終わりに近づく頃には、仕事の大半を新しい榊屋へ移せるところまで来ていた。
その日、俺は親父と一緒に古い工房へ戻った。
道具はいくつか残してある。完全に空にするつもりはないが、毎日の仕事で使うものはほとんど新しい方へ移っていた。
親父は工房の中を一度見回した。
「忘れもんないか」
「たぶん」
「たぶん言うな」
「見てくる」
奥まで確認して戻る。
「ない」
「ほなこれ持て」
親父が道具の入った箱を渡してきた。
「重っ」
「落とすなよ」
「分かっとる」
俺は箱を抱えた。
「親父」
「何」
「いや」
「何や」
「何でもない」
「ほな行くぞ」
「おう」
親父も別の荷物を持ち、先に外へ出た。
俺もその後を追った。
*
新しい工房へ戻ると、宗次郎が作業台の端で帳面を開いていた。
「これで大体移った?」
「大きいものは」
「火床も使える」
「はい」
「砥石も」
「使えます」
「穴あけも」
「一応」
「一応って何や」
「兄上がさっき自分で、まだ終わってないって言ってました」
「親父が言うたんや」
「同じです」
佐吉が棚から鑢を取り、新八はその横で藤吉の仕事を見ている。五平は材料を運び、弥吉は奥で金具を合わせていた。市兵衛は水車砥石の前に座り、研ぎ終えた刃物を確かめている。
喜兵衛が俺を見つけた。
「虎松、穴あけの輪もう一個作るぞ」
「おう」
そちらへ行こうとすると、宗次郎が呼び止めた。
「兄上」
「何?」
「明日、最初から一本やってみませんか」
俺は足を止めた。
「一本?」
「材料を出すところから最後までです。途中だけならもう仕事してますけど、全部こっちだけでやったことないでしょう」
「……せやな」
「やります?」
「やる」
「では明日」
「誰でやる?」
「それも決めましょう」
「今?」
「今です」
向こうから喜兵衛が叫んだ。
「虎松!」
「ちょっと待って!」
宗次郎は新しい紙を一枚出した。
「また紙?」
「要ります」
「……はい」
明日は、新しい榊屋だけで一挺作る。




