榊家を建てる
水の話がまとまったのは、それから五日ほど後だった。
好きなだけ取っていい、という話ではない。水の少ない時は田畑を優先すること、勝手に取る量を増やさないこと、堰や樋のせいで下流へ迷惑を掛けないこと。善次郎と伊助がほかにもいくつか条件を持ち帰ってきたが、予定している一基目の水車を回す分については、ひとまず話がついたらしい。
「これで始められる」
伊助がそう言った翌朝、俺たちは新しい土地にいた。夏の頃より朝の空気は冷たくなり、草の先には露が残っている。
庄兵衛は土地を一通り見回し、腰に手を当てた。
「ほな、始めるぞ」
ついに新しい榊屋を建てる。
そう思ったのだが、三日経っても建物はなかった。
*
「まだ建てへんの?」
「建てとる」
庄兵衛は地面を見ながら答えた。
「何もないやん」
「あるやろ」
「草と土しかない」
「それ片づけとるんや」
土地をならし、縄を張り直し、杭を打ち、材木を運ぶ。少し離れたところでは、伊助たちが水をどこから引き、どこへ戻すかを確かめている。朝から大勢が動いているのに、俺が想像していた柱や屋根はまだ一本もなかった。
「昨日も同じこと言うてなかった?」
「明日も言うたるわ」
「明日には柱立つ?」
「知らん」
「棟梁やろ?」
「お前が邪魔せんかったら早なるかもしれんな」
「邪魔してへんやろ」
「虎松」
後ろから親父の声がした。
「何?」
「今日どこおる」
「ここ」
「鉄砲は?」
「……榊屋」
「誰が作る」
「みんな」
「お前は?」
「……作ります」
「ほな帰るぞ」
「ちょっと待って。今から庄兵衛さんが」
「建物は逃げへん」
庄兵衛が笑った。
「こいつ置いてってええぞ」
「何でや!」
新しい工房を建てている間も、今の榊屋には注文がある。材料も届くし、仕掛かっている鉄砲もある。考えてみれば当然なのだが、俺は結局そのまま親父に連れ戻された。
*
工事が始まって十日ほど経った頃、善右衛門が一人の男を連れてきた。
俺が工房へ戻った時には、男は親父と向かい合って座っていた。三十には届いていないように見える。弥吉より少し上だろうか。派手なところはないが、指は太く、爪の際には落ち切らない汚れが残っている。右手の親指と人差し指にできた硬い皮を見れば、職人なのは分かった。
「誰?」
俺が善右衛門に聞くと、男の方がこちらを見た。
「前に言うたやろ。焼けた鉄砲鍛冶」
「あ」
三十挺を作った時のことを思い出した。善右衛門が急に十挺を追加してきた原因になった工房だ。火が出て火薬に燃え移り、約束していた鉄砲を作れなくなった。
「そこの職人や。新八いう」
男は軽く頭を下げた。
「新八です」
「榊屋の虎松」
「聞いてます」
「何て?」
「変わったことする息子がおるって」
「誰から聞いたん?」
「何人かから」
嫌な広まり方をしている。
「前の工房は?」
「もう無理やな。親方も再建せん言うてる。残った連中も、だいぶ散った」
善右衛門によれば、腕は以前から知っているらしい。ただ、榊屋で働くかどうかは新八と親父が決めることだと言った。
親父が新八を見る。
「何できる」
「一通りは」
「一通り言うやつは信用ならんな」
「ほな、見てもらったらええです」
親父が少し笑った。
「弥吉」
「はいよ」
呼ばれた弥吉が奥から出てくる。
「これ、仕上げてみ」
親父が加工途中の金具を二つ出した。同じような形をしている。
「二人とも?」
「せや」
弥吉と新八が一つずつ取った。
弥吉は表と裏を軽く眺めると、すぐ鑢を持った。新八は金具を裏返し、親父から相手になる部品を借りる。組み合わせて当たりを確かめ、指先で何度か触ってから、ようやく鑢を持った。
先に終わったのは弥吉だった。
「こんなもん?」
親父が受け取って合わせる。問題ない。
少し遅れて新八も手を止めた。
「お願いします」
こちらも親父が合わせた。俺にはどちらも十分良く見える。
「何で最初、削らんかった」
親父が新八に聞いた。
「相手見んと、どこまで落としてええか分からんかったんで」
「こっちは?」
今度は弥吉を見る。
「見たら大体分かるやろ」
新八が弥吉の金具を手に取った。
「速いな」
「よう見てから削るな」
「削ったもんは戻らんからな」
「まあ、せやな」
それで会話は終わったが、二人とも相手の作った金具をもう一度見ていた。
親父は別の金具を取り出し、今度は新八だけに渡した。
「これもやってみ」
「はい」
新八はまたすぐには削らなかった。
「この辺、いつもこれくらい残すんですか」
「物による」
「鉄が違う時ですか。それとも相手の金具が違う時ですか」
親父が少しだけ目を細めた。
「両方や。あと、作ったやつでも変わる」
「前の仕事が違うから?」
「せや」
新八は頷いて作業を始めたが、途中でさっきの弥吉の仕事をもう一度見た。
「弥吉さん」
「何?」
「さっき、最初にこっち合わせてから反対削ったやろ」
「うん」
「その方が早いん?」
「たぶん」
「何で?」
「やりやすいやろ」
「何でやりやすいん?」
「知らん」
新八の手が止まった。
「……知らんの?」
「うん」
「毎回やっとるんやろ」
「やっとる」
「何で?」
「やりやすいから」
新八が俺を見た。
知らん。俺に聞くな。
*
その日は、新八に榊屋の仕事を一通り見てもらうことになった。まだ正式に働くと決まったわけではない。
「焼けたからいうて、どこでもええわけちゃうやろ。見るだけ見ていけ」
親父にそう言われ、新八は工房の中を歩いた。皆で使っている尺を見て、当て金を手に取り、部品についた札を読んだ。材料と仕掛品の置場が分かれているところでも足を止めた。
佐吉が藤吉へ仕事を教えているところでは、しばらく黙って見ていた。
「そこ、一回止めろ」
佐吉が言う。
「最初に浅う入れて、位置見る。ずれとったら今なら直せるから」
「分かっとるって」
「分かっとるならやれ」
「はい」
新八が俺を見る。
「何?」
「どこもこうなん?」
「何が?」
「仕事のやり方、決めとるん?」
「全部ちゃうで。決められるとこだけ」
「誰が?」
「みんなで」
「最初に始めたんは?」
近くにいた五平が俺を指した。
「虎松」
新八が改めて俺を見る。
「……あれが?」
「聞こえとるぞ」
「何歳?」
「十六」
「十六?」
「何で二回言うねん」
新八はしばらく俺を見ていた。
あまり嬉しくない見方だった。
*
「働くか決めるなら、あっちも見とけ」
翌日、親父がそう言って新八を新しい工房の予定地へ寄越した。俺と宗次郎が庄兵衛のところへ行く日だったので、一緒に歩く。
十日ほど前まで土と縄ばかりだった場所には材木が積まれ、地面にも手が入っていた。どこに建物が立つのか、ようやく目で追えるくらいにはなっている。
新八は周囲を見た。
「工房は?」
「これから」
「まだないやん」
「俺もそれ言うた」
「余計なこと教えるな」
庄兵衛の声が飛んできた。
俺は紙を広げ、新八に説明した。
「こっちから材料入れる。ここに置いて、仕事に出す分はこっち。火床はこの辺。木の仕事は離す。仕上げは向こう。完成したもんはこっち」
「広いな」
「人増やしたいからな」
「何人入るんや」
「まだ分からん」
「鉄砲、今どれくらい作っとる」
「月で二十から三十くらい」
「ここまで要るんか?」
「百挺作れるようにしたい」
新八が足を止めた。
「百挺作ったことあるん?」
「ない」
「何人要る」
「分からん」
「できるんか」
「分からん」
「……分からんこと多いな」
「せやから作っとるんや」
新八は返事をせず、紙へ目を戻した。
材料置場から火床へ、火床から加工へ、加工から仕上げへと説明しながら歩いていると、途中で新八が止まった。
「ここで誰が見る?」
「何を?」
「出来や。次へ渡してええか、誰が決めるん」
「今は作ったやつが見て、難しいもんは佐吉とか五平。それでも分からんかったら弥吉か親父」
「人増えたら?」
答えようとして、止まった。
「作ったやつ増えるやろ。見るやつも増やすん?」
「……そこまで決めてへんな」
「後で悪いと分かったら、戻すんやろ」
「せやな」
「仕上げまで行ってから戻すより、ここで止めた方が楽やろ」
俺は紙を見直した。
材料をどう入れるか、仕掛品をどこへ置くか、誰が何を作るか、どう教えるかは書いてある。ところが、人数が増えた時に誰が途中の出来を見て、次へ渡していいと決めるのかは曖昧だった。
「新八」
「何?」
「それ、前の工房でもやっとった?」
「やっとるいうか、見るやろ普通」
「誰が?」
「俺とか親方とか」
「何見る?」
「物による」
「例えば?」
新八が少し嫌そうな顔をした。
「何で急に聞く側になっとるん」
「気になった」
「面倒くさいやつやな」
後ろで宗次郎が小さく笑った。
「兄上と合いそうですね」
「やめてくれ」
新八が即答した。
*
新八は、そのまま数日榊屋で働いた。
弥吉ほど速くはない。少なくとも最初に見た仕事ではそうだったが、難しい仕事でも大きく手を止めることはなく、出来上がったものも安定していた。
ある時、佐吉が加工の順番を聞いた。
「ここ、先に落としてええです?」
「先にこっち見た方がええ」
「何で?」
「こっち残ってたら後で合わせられる。先に全部落としたら逃げるとこなくなるから」
「ああ」
「ここ合うまでは、反対触らん方がええ」
佐吉はそれだけで納得した。
横で聞いていた弥吉にも、新八が同じことを聞く。
「弥吉、これ何で先にこっち合わせるん?」
「またそれ?」
「何で?」
「その方がやりやすいから」
「せやから何で」
「知らんって」
新八が額を押さえた。
「何で知らんのに毎回合うんや」
「合うからええやろ」
「よくない」
「ええやろ」
「よくない」
親父は少し離れたところで笑っていた。
数日後、その親父が新八に聞いた。
「で、どうする」
「俺でええなら、置いてください」
「腕はええ」
「ありがとうございます」
「よう喋るけどな」
「必要なことしか言うてません」
弥吉が横から口を挟む。
「結構喋っとるで」
「お前が喋らなさすぎるんや」
「俺、喋る方やで?」
「仕事の話や!」
親父が俺を見る。
「虎松」
「何?」
「一人増えたぞ」
「うん」
「百挺に近づいたな」
「一人で七十挺増えへんで」
「知っとる」
こうして、新八が榊屋に加わった。
*
秋が深まるにつれて、新しい榊屋にも柱が立ち始めた。
初めてまとまって立ったところを見た時、俺は思わず言った。
「狭ない?」
「始まったぞ」
庄兵衛が言った。
「何が?」
「柱立ったら絶対言う思ってた」
清太郎まで笑っている。
「いや、ほんまに狭ない?」
「壁できたらまた言うぞ」
「何を?」
「狭いって」
縄だけだった時には広く見えた場所も、柱が立つと急に小さく感じる。実際に材料を運ぶつもりで歩いてみると、予定していた通路の一部に柱が少し張り出していた。
「これ邪魔やな」
「要る柱や」
「動かせん?」
「動かしたらこっち変わる」
「じゃあこっちを」
「虎松」
「何?」
「邪魔」
「まだ何も言うてへん!」
「言う顔しとる」
甚助が笑いながら材木を担いで通り過ぎた。
「紙より分かりやすいやろ」
「それはそうやけど」
結局、柱はそのままにして、材料を一時置く場所を少しずらした。実際に歩いてみると、その方が運ぶ人間も曲がらずに済んだ。
俺が場所を確かめていると、庄兵衛が材木を一本指した。
「虎松」
「何?」
「それ運べ」
「俺、今考えとるんやけど」
「運びながら考えろ」
「俺、これ考えた人やで」
「今日は人足や」
隣では新八が、もう一本担いでいた。
「俺、鉄砲鍛冶で来たんやけど」
「俺もや」
「榊屋、大丈夫なんか」
「最近ちょっと俺も不安」
*
工事が進むほど、新しい土地へ行く人間も増えた。
甚助が庄兵衛を手伝った日は台木の仕事が減り、喜兵衛が伊助のところへ行けば金具の仕事が遅れる。俺も一日向こうにいれば、今の工房で見るつもりだった仕事がそのまま残る。
ある晩、宗次郎が帳面に新しい欄を増やしていた。
「工事に行った人も書くん?」
「試し物の時と同じです。向こうで働いてる間、こっちの仕事はできないでしょう」
「……せやな」
「工事の銭だけ見ても足りません」
「それ、善次郎に見せる?」
「見せます」
「やっぱり?」
「見せない理由あります?」
「ないけど」
善次郎が喜びそうだった。
*
朝、外へ出ると息が白く混じるようになった頃、俺は十七になった。
その日の夕飯は、いつもより少し豪華だった。新三郎が肉を狙えばお千代が止め、吉松は自分の祝いでもないのに一番喜んでいる。お小夜は何が起きているのか分からないまま、お袋の膝の上で手を叩いていた。
親父が俺の前に小さな杯を置いた。
「飲んでええん?」
「ちょっとだけや」
「十七やで?」
「せやからちょっとや」
飲んでみたが、美味いかどうかはよく分からなかった。
翌朝、新しい工房へ行くと、庄兵衛が材木を指した。
「虎松。これ運べ」
「昨日、十七になったんやけど」
「せやから何や」
「……何でもない」
新八が材木の向こうから顔を出した。
「十七?」
「そうやけど」
「……十七?」
「二回言うな」
「俺、十七のやつに工房の説明されとったんか」
横を通った弥吉が言う。
「慣れるで」
その後ろの親父が続けた。
「慣れんな」
「どっちやねん」
*
家の方も、部屋の形が分かるところまで進んだ。
お袋を連れてくると、俺が何か説明する前に台所へ入った。
「水どこ?」
「最初にそこ?」
「毎日使うんやで」
台所から水を使う場所まで歩き、薪を置くところを見て、洗濯する場所と干す場所を確かめる。仕事の客が通る道と家族が使う道も実際に歩いてから、お袋はもう一度台所へ戻った。
「前よりええな」
「ほんま?」
「うん」
それならよかった。
「ここ俺の部屋!」
吉松が客間へ飛び込んだ。
「ちゃう」
すぐ追い出された。
*
秋の終わりには、川から引いた樋が新しい土地まで届き、その先に一基目の水車が据えられた。
工房には屋根が掛かり、壁もだいぶできている。中にはまだ何もない場所が多いが、清太郎たちはすでに水車から工房へ軸を通す位置を庄兵衛と確認していた。
「ここ通すなら、この高さでええんやな」
清太郎が聞く。
「たぶん」
俺が答える。
「たぶん?」
「いや、待って。喜兵衛」
「このくらいやろ」
「このくらい?」
「伊助さん」
「俺に聞くな。工房ん中はお前らの仕事や」
清太郎がため息をついた。
「穴だけ先に開けるん怖いな」
「せやから今決めとるんやろ」
庄兵衛が紙を取り上げ、喜兵衛と清太郎が軸の高さをもう一度測り直した。伊助はその間も水の側を見ていて、こちらには口を出さない。
しばらくして、伊助が声を上げた。
「入れるぞ」
樋へ水が入った。
木の水路を走ってきた水が水車へ届き、少しずつ溜まる。ぎ、と木が鳴って、水車がわずかに動いた。
「お」
もう一度、水が掛かる。
今度は止まらなかった。
「回った!」
喜兵衛が叫んだ。
「回った!」
俺も言った。
「そら回るように作ったからな」
伊助だけが普通だった。
「もうちょい喜んでもええやろ!」
「回らんかったら困るんや」
水車はそのままゆっくり回り続けた。まだ砥石にも穴あけにもつながっていない。
「これで穴あけ回せるな」
「まだや」
伊助が言った。
「まだやな」
庄兵衛も言う。
「まだですね」
清太郎まで続く。
「まだやろ」
喜兵衛まで言った。
「何で全員俺に言うん?」
後ろにいた新八が、水車から工房へ向かう軸の予定位置を見ていた。
「これで錐回すんか」
「そのつもり」
「どれくらいの速さで?」
「ぴったり同じやなくてええ。使える速さに幅があるから、そこへ入るように合わせる」
「錐の太さ変わったら?」
「変わると思う」
「削るもんでも変わるやろ」
「そう思う?」
「そら変わるやろ。細い錐と太い錐、同じように回してええなら楽やけどな」
喜兵衛が笑った。
「こいつええな」
「何が?」
「面白いもん作れそうや」
「俺、鉄砲作りに来たんやけど」
「これも鉄砲作る道具や」
「……まあ、そうやけど」
新八はもう一度、水車を見た。
*
その日の夕方、水を止めた。
「次、何する?」
俺が聞くと、宗次郎が紙を見る。
「棚と作業台。それから砥石です」
「穴あけは?」
「その後です」
「先にやらん?」
「やりません」
新八が横から聞いた。
「穴あけ、まだ使えへんのか」
「人で回したら使える」
「水で回すんちゃうんか」
「これからや」
新八は水車の方を見た。
「……面白そうやな」
「やろ?」
喜兵衛が嬉しそうに言う。
宗次郎が紙を閉じた。
「先に棚です」
「はい」
明日は棚からだった。




