建てる銭
朝、工房へ入った時の空気が少し変わっていた。
ついこの前まで、火床へ近づくだけで暑苦しかった。それが今朝は、火のそばへ寄ると少しほっとする。開け放した戸口から入ってくる風にも、夏の名残より涼しさの方を強く感じるようになっていた。
「秋やな」
弥吉が言った。
「せやな」
「何やその顔」
「いや」
考えてみれば、この世界へ来てから季節そのものを気にすることが減っていた。暑ければ暑いし、寒ければ寒い。雨が降れば荷運びに困り、水が減れば水車の心配をする。そんなふうに仕事の都合ばかり見ているうちに、季節は勝手に進んでいる。
俺たちが紙の上で新しい榊屋を何度も建て直している間にも、本物の秋は来ていた。
「兄上」
宗次郎が呼んだ。
「何?」
「庄兵衛さん来ました」
「早ない?」
「もう昼前です」
「え?」
「兄上、朝からずっとこれ見てたでしょう」
手元を見ると、穴あけの軸をどう通すか、喜兵衛と描いていた紙がある。朝から少しだけ考えるつもりだった。
「……秋やな」
「関係ないでしょう」
*
庄兵衛が持ってきたのは、材木と手間を書き出した紙だった。
「細かい銭は、材買う時に変わるぞ」
「うん」
「それでもええなら、大体これくらいや」
俺は受け取り、上から下まで読んだ。それから、もう一度読んだ。
「高ない?」
「帰るぞ、清太郎」
「待って待って!」
庄兵衛が本当に立ち上がろうとしたので、慌てて止める。
「聞いただけやん!」
「高い思うなら自分で建てろ」
「建てられへんから頼んどるんやろ!」
「ほな高ない」
「その理屈強すぎるやろ」
清太郎が横で笑っていた。
「親父、昔からこれやで」
「知っとるなら止めろ」
「無理や」
親子だった。
改めて宗次郎と一緒に中身を見る。工房、家、火薬置場。それぞれ必要になる材と大工の手間が分けてあり、工房については普通に柱を立てる場合と、一部だけ太い梁を使って広く空ける場合の違いも書かれていた。
「全部柱減らす話にはしてへん」
「うん」
「お前がどうしても空けたい言うた、ここだけや」
庄兵衛が工房の紙を指した。材料を仕事へ出す場所から、主要な加工場所へつながる辺りで、人も物もよく通る。将来、仕事の置き方が変わった時にも動かしたくなりそうな場所だった。
「差は?」
宗次郎が聞くと、庄兵衛が示した。
「……これくらい?」
「材が太なる。手間も増える。ただ、工房全部でやるよりはずっとましや」
思っていたほどではない。
「ここはやろう」
俺が言うと、宗次郎がすぐこちらを見た。
「善次郎さんに見せてからでは?」
「……そうやな」
「学びましたね」
「うるさい」
*
伊助が来たのは、その日の午後だった。
「今度は何や」
「呼んだん俺やで」
後ろから善次郎が言った。
「お前か」
「水の方、どれくらい掛かるか聞きたい」
「まだ話ついてへんぞ」
水を使う相手との話は、まだ全部終わっていない。下流の田畑を使う者たちを含め、誰に話を通す必要があるかは見えてきたが、どの程度なら水を取っていいのか、渇水の時はどうするのか、細かな条件は残っている。
「せやから、決まったつもりでは建てへん」
善次郎が答えた。
「ただ、話まとまった時に、いくら要るか分からんままやと困る」
「それなら大体や」
伊助が紙を広げた。
堰を設け、水を樋へ引く。水車を据え、使った水を川へ戻す。その一通りに必要な仕事と、一基目の水車までが書き出されている。
「水車も入っとるん?」
「入れな話にならんやろ」
「二基目は?」
「入れてへん」
俺は少し安心した。
「ただし」
伊助が紙の一点を指で押さえた。
「ここは最初から少し広めに取る。後で水を分けたくなった時、全部壊さんで済むようにな」
「それでどれくらい増える?」
善次郎が聞く。
伊助が金額を示した。
「それなら入れとこ」
即答だった。
「俺には聞かんの?」
「お前がやりたい言うた話やろ」
「そうやけど」
「安い方へ変えてほしいん?」
「いや」
「ほな黙っとけ」
最近、新しい榊屋の話になると俺の発言権が減っている気がする。
*
残ったのは、俺と喜兵衛の分だった。
「で」
善次郎が言う。
「お前らは?」
「あります」
俺は紙を出した。
「遅い」
「出したやろ!」
「言われてから出すな」
「何で今日そんな厳しいん?」
「銭の話しとるからや」
喜兵衛が横から紙を覗き込む。
水車の軸から砥石と穴あけへ、どうやって回す力を持ってくるか。まだ細かなところは試さなければならないが、必要になりそうな軸や木の支持、それらをつなぐ部分、それから穴あけの試作をもう一段進めるための材料までは拾ってある。
「これで全部?」
善次郎が聞いた。
「たぶん」
「庄兵衛さん」
「増える顔しとるな」
「伊助さん」
「増えるやろな」
「喜兵衛」
「増えると思う」
「何で味方おらんの?」
「俺も増えると思うから」
自分で言ってしまった。
善次郎がため息をつく。
「ほな最初から少し見とく」
「何を?」
「増える分」
「そんなことできるん?」
「ぴったりしか銭用意せん方が怖いやろ。材が思ったより要る、作ってみたら足らんもんが出た、そのたび銭ありません言うんか」
なるほど。
前の時代なら、予備費とかそんな名前で呼んでいた気がする。善次郎は商人として、似たようなことを当たり前に考えているらしい。
「ただし」
善次郎が俺を見る。
「余っとるから使おう、は無しやぞ」
「分かっとる」
「ほんま?」
「……分かっとる」
*
数日後、善右衛門屋の奥に関係する人間が集まった。
善右衛門と善次郎。親父と俺、宗次郎。それに庄兵衛と伊助がいる。喜兵衛まで来ようとしたが、善次郎に「今日は銭の話や」と止められ、かなり不満そうな顔をして工房へ戻っていった。
紙はもう十分ある。お袋に言われたことを思い出し、今日は宗次郎が必要なものだけを選んで持ってきた。
「ほな」
善右衛門が言った。
「大体出たんやな」
「大体は」
善次郎が答える。
「大体か」
「細かいんは動く。材もそうやし、水の話もまだ全部決まってへん」
「せやろな」
善右衛門は慌てなかった。
土地を探し始めたのも、この話を最初に持ち出したのも、この親子である。俺よりずっと前から、榊屋を大きくするならどれだけの物と人と銭が動くか、考えていたのだろう。
「で、なんぼや」
善次郎が数字を示した。
善右衛門が黙った。
親父も黙った。
俺も黙った。
分けて見ていた時は、まだよかった。
全部足すと怖い。
「……高ない?」
俺が言った。
「お前が言うんか」
親父に突っ込まれた。
*
善右衛門は金額だけを見るのではなく、一つずつ中身を確認していった。
「工房」
「要る」
親父が答える。
「家」
「要る」
「水車」
「一基」
俺が答えた。
「砥石」
「要る」
「穴あけ」
「要る」
「まだ人二人で回しとるやつやろ」
「水で回せたら一人になる」
「回せたらな」
「親父と同じこと言わんといて」
「同じこと思っただけや」
善右衛門は笑い、次へ進んだ。
「二基目の水車」
「作らん」
「家の別棟」
「作らん」
「工房広げる分」
「建物は作らん。広げる場所だけ残す」
「水路」
伊助が答える。
「一基分は作る。後から分けられるようにするところまでは最初にやる」
「火薬置場」
「要る」
親父が言った。
「大きさは?」
「まだ詰めとります」
宗次郎が答える。
善右衛門は頷いた。
「分からんところまで無理に決めてへんのはええ」
少し褒められた気がした。
「虎松が?」
「みんなで」
宗次郎が答えた。
俺もそう言おうと思っていた。
たぶん。
*
「で」
善右衛門が紙を置いた。
「榊屋から、なんぼ出せる」
親父が答えた。
俺は黙って聞く。
榊屋にも蓄えはある。これまで鉄砲を作って稼いだ銭があり、二十挺、三十挺とまとまった仕事を納めた分も入っている。けれど、そのすべてを新しい工房へ突っ込むわけにはいかない。
鉄を買う銭が要る。炭を買う銭もいる。職人へ払う銭もいる。新しい榊屋を建てている間にも、今の榊屋は仕事を続けなければならない。
建物を作ったせいで鉄が買えなくなれば、何のための工房か分からない。
「そこまでは出せる」
親父が言った。
「それ以上出したら、仕事の銭が細なる」
「せやな」
善右衛門はすぐに頷いた。
「俺も、榊屋の銭全部出せとは言わん」
俺が口を挟む。
「残りは?」
「善右衛門屋から出す」
分かっていた話なのに、実際に聞くと重い。
「貸すん?」
「一部はな」
「一部?」
今度は善次郎が説明した。
土地と建物、水車まで全部を単純な借りにすれば、榊屋の負担が大きすぎる。かといって善右衛門屋が全部を持てば、今度は榊屋が善右衛門屋のためだけに働く工房のようになってしまう。
だから分ける。
榊屋が自分で負担する分。善右衛門屋が先に出し、仕事の中から時間をかけて返していく分。そして榊屋の生産が増えれば善右衛門屋の商いも増えるからこそ、向こうが負担する分。
「ただし」
善右衛門が言った。
「前にも言うたけど、うちの工房になるわけちゃう」
「うん」
「他から仕事受けるなとも言わん」
「うん」
「ただ、うちから持ってくる仕事は、今まで通りちゃんと見てくれ」
親父が答えた。
「それは当たり前や」
「ほなええ」
簡単に聞こえる。
けれど、その簡単なところを曖昧にしないために、ここまで話しているのだと思う。
*
「もう一個」
善右衛門が俺を見る。
来た。
「百挺」
「……はい」
「忘れてへんな」
「忘れてへん」
「建てたらすぐ百挺作れとは言わん」
「うん」
「いつまでとも言わん」
「うん」
「せやけど、二十挺、三十挺作るためだけの工房やったら、こんな銭出さん」
それも前に聞いた。
新しい榊屋は、今の榊屋を少し広くしただけの工房ではない。
人を増やす。仕事を分ける。道具に任せる。水に任せる。教えられる仕事を増やす。
その先に、本当に月百挺という数字があるのかを試すための場所だ。
「目指す」
俺は答えた。
「百挺」
「お前一人で作るんちゃうぞ」
親父が言った。
「分かっとる」
「ほんま?」
「最近みんなそれ言わん?」
善右衛門が笑った。
*
最後に、今建てるものをもう一度確認した。
工房と家は建てる。水車は一基。砥石と穴あけへ力を送れるようにする。水路は一基分を作り、後から枝を出せるところまで準備する。
工房は一部だけ太い梁を使い、人と物がよく動くところを広く取る。将来増築する方向には、最初から別の建物を置かない。
家は今困っているところを直し、客を泊められる部屋を一つ設ける。別棟は作らず、場所だけ残す。
火薬置場は、必要量を宗次郎と親父が確認してから大きさを決める。
二基目の水車も、まだ名前のない将来の道具も作らない。ただし、後から作れる場所は潰さない。
「これでええんやな」
善右衛門が聞いた。
俺は親父を見る。
親父はしばらく紙を見てから、こちらへ顔を向けた。
「虎松」
「何?」
「これでええんか」
少し前なら、もっと欲しいと言ったかもしれない。
水車をもう一つ。試し物をする場所をもっと広く。いつか使うかもしれない軸も、先に通しておきたい。
けれど今は、それを作らなくてもいいことが分かっている。必要になった時に作れるようにしておけばいい。
「ええ」
俺は答えた。
「これでいける」
親父が善右衛門を見る。
「ほな、頼む」
善右衛門は一度だけ頷いた。
「分かった」
*
善右衛門屋を出ると、日はもう傾いていた。
少し前までなら、この時間でも肌にまとわりつくような暑さが残っていた。それが今日は、通りを抜ける風に涼しさが混じっている。日が落ちるのも、いつの間にか早くなっていた。
「兄上」
「何?」
「決まりましたね」
「せやな」
紙を描き始めてから、ずいぶん長かった気がする。
工房を描き、家を描き、水の流れを見て、柱を立て、消して、また動かした。作りたいものは何度も増え、そのたびに誰かに止められた。
それでも、ようやく建てるものが決まった。
「いつからやろ」
「何がです?」
「工事」
「庄兵衛さん次第じゃないですか」
「明日聞こ」
「今日はもう帰りましょう」
「分かっとる」
歩き出したところで、後ろから善次郎に呼び止められた。
「虎松!」
「何?」
「まだ一個あるぞ」
「何やねん!」
「水の話、まだ決まってへん!」
足が止まった。
そうだった。
「……伊助さん」
「俺見るな」
まだ帰っていなかった伊助が言った。
「明日から話詰めるぞ。工事始めてから水使えませんでした、は知らんからな」
「はい」
横を見ると、宗次郎が何も言わず紙を一枚取り出した。
「何書くん?」
「残ってることです」
「新しい紙?」
「必要なので」
「……お袋には?」
「兄上から言ってください」
「嫌や」
着工までに片づける仕事が、最後にもう一つ増えた。




