今いるもの
庄兵衛に家のことは住む者に聞けと言われたので、翌日、俺はまた紙を広げた。
「また?」
お袋の第一声がそれだった。
「また」
「昨日も描いとったやろ」
「昨日は土地」
「一昨日も描いとったやろ」
「一昨日は工房」
「その前も描いとったやろ」
「……描いとったな」
お袋は紙を一枚つまみ上げ、光へ透かすように眺めた。
「紙もただちゃうんやで」
「分かっとる」
「ほんま?」
「たぶん」
「善次郎さんに怒られたらええわ」
最近、俺に何か言いたい時に善次郎を使う人が増えている。
横で帳面を開いていた宗次郎まで頷いた。
「兄上、実際かなり使ってますよ」
「お前まで言うん?」
「紙屋から買ってる分、帳面にありますから」
「……なんぼ?」
「聞きます?」
「やっぱええ」
「ほらな」
お袋が笑った。
*
今日は工房ではなく、家の方を決める。
前にお袋の仕事を一日見せてもらった時、今の家で何に困っているのかはある程度分かっていた。水を運ぶ回数が多く、台所と物を置く場所が離れている。洗濯物を干す場所も足りず、仕事の客と家族が同じところを通る。物も人も増えて、昔は足りていた場所が少しずつ狭くなっていた。
俺は昨日の土地の紙を横へ置いた。
「庄兵衛さんに、俺ら大きなったら部屋どうするんやって言われた」
「そら大きなるやろ」
「せやから、後で増やせるように家も最初から」
「いらん」
早かった。
「まだ何も言うてへん」
「どうせまた広げる話やろ」
「いや、将来のことも」
「虎松」
「はい」
「今困っとるとこ直して」
「……はい」
強い。
「工房は仕事増えたら人増えるんやろ。そっちは考えたらええ。でも家まで何年先か分からんこと考えて、今使わん部屋作ってどうするん」
「まあ、そうやけど」
「掃除するん誰や」
「……お袋」
「いらんやろ」
「はい」
完全に論破された。
横で宗次郎が笑いを堪えている。
「笑うな」
「笑ってません」
「顔が笑っとる」
*
「じゃあ、今困っとるところだけ」
「それでええ」
改めて、一つずつ聞いていくことにした。
台所は今より少し広くする。ただし、広ければ広いほどいいわけではない。物を取るたびに端から端まで歩くような台所はいらないと、お袋には前にも言われている。水を使う場所は井戸か、水を運び込むところから近くする。薪も近くへ置けるようにする。
「物置は?」
「欲しい」
「どれくらい?」
「今より広ければええ」
「どれくらい広く」
「使えるくらい」
「庄兵衛さんに怒られるやつや」
「知らんがな」
結局、今の家にある物を一度見て、何を置くのか確かめてから広さを決めることになった。
洗濯物を干す場所は工房から少し離し、家の仕事で使う道具もまとめて置けるようにする。家族の出入口と工房へ来る客の道は分ける。炊事をしながら小さい子の様子を見られることも、前に出た条件のまま残した。
「休むところ」
宗次郎が言った。
「まだ書いとったん?」
「消す理由ないでしょう」
お袋が宗次郎を見る。
「何それ」
「母上が休むところです」
「その辺でええ」
「駄目です」
「なんで宗次郎に怒られなあかんの」
「前もその辺だったので」
俺は何も言わず、紙に残した。
ここは宗次郎に任せた方がいい。
*
昼前、お澪が顔を出した。
善右衛門屋へ行く前に紙屋へ寄った帰りらしく、今日は長くはいられないという。俺たちが囲んでいる紙を見るなり、少し笑った。
「また紙増えてますね」
「最初にそれ言う?」
「紙屋の娘なので」
「お袋と組まんといて」
お澪は家の方の紙を覗き込み、今決まっていることを順番に聞いていった。台所、物置、物干し、家族の出入口まで確認したところで、一つ空いている場所を指した。
「お客さん泊めるところは?」
「客?」
「泊まりで来る人です」
「今おらんで」
「今は」
その言い方に引っかかった。
「善右衛門屋にはあるん?」
「ありますよ。遠くから来た人が泊まることありますから。紙屋にも小さいですけどあります」
「榊屋に泊まりで来る客おるかな」
「今は分かりません。でも、尾張から人が来るようになったんでしょう?」
河尻与一郎の顔が浮かんだ。
今まで榊屋へ来る客は、近くの商人や仕事を持ってくる者が多かった。けれど善次郎の商いが広がり、榊屋の鉄砲が遠くへ出るようになれば、こちらへ来る人間も近場だけとは限らなくなる。
「客間一つくらい?」
「普段使わないなら、いつも客だけのために空けなくてもいいと思います」
「兼ねる?」
「できるなら」
お袋が口を挟んだ。
「それならええんちゃう。誰も来んのに一部屋空けとくんは勿体ない」
客が来た時には泊められ、普段は別の用途にも使える部屋を一つ取ることになった。
「あと」
お澪が少し迷ってから言った。
「家の仕事する人、増えることはないですか?」
「家族?」
「家族じゃなくて」
「奉公人?」
「そうです。小間使いとか」
俺はお袋を見る。
「いる?」
「今はいらん」
即答だった。
「せやんな」
「でも」
お袋は紙へ目を落とした。
「工房の人ほんまに増えて、客まで増えたら分からんな」
「じゃあ部屋作る?」
「今はいらん言うたやろ」
「はい」
今日二回目だった。
「後で建てられる場所だけ残したらどうです?」
お澪が言った。
「場所?」
「家の横、全部使わずに。もし人が増えたり、泊まる人が増えたりしたら、小さい建物をもう一つ建てられるようにしておくとか」
俺は土地全体の紙を広げ直した。
工房にも、庄兵衛と相談して将来広げる方向を残した。水車も二基目を今作るのではなく、後から増やせる場所と水路だけ考えている。
家も同じでいい。
「別棟か」
「別棟?」
「別の建物」
「ああ」
最初から大きな家を建てる必要はない。必要になった時にもう一棟建てられる場所さえ残っていれば、その時の人数や使い道に合わせて考えられる。
「それなら掃除せんでええな」
お袋が言った。
判断基準が明快だった。
*
家の方針は、思ったより早く決まった。
今困っていることは、新しい家で直す。水、台所、物置、洗濯、家族と仕事客の動線、それからお袋が休める場所。
客が泊まれる部屋は一つ用意するが、普段から客専用に空けておく必要はない。将来、家族や奉公人、遠方からの客が増えた時には、別の建物を建てられる場所を家の側に残しておく。
工房のように、中身まで先回りして作り込まない。必要になった時に増やせる場所だけ残せばいい。
「これでええ?」
俺が聞くと、お袋が紙を見る。
「ええんちゃう」
「ほんまに?」
「もう描かんでええなら」
「そこ?」
「紙勿体ないやろ」
お澪が笑った。
「紙屋の娘の前で言います?」
「紙屋やから言うんや。買わなあかんやろ」
「ありがとうございます」
「商売人やなあ」
お袋とお澪が妙に意気投合していた。
*
その日の午後、善次郎を呼んだ。
庄兵衛と清太郎にも来てもらい、工房の隅へこれまでの紙を並べる。親父と宗次郎、喜兵衛も残った。
善次郎は紙を見るなり言った。
「増えたな」
「最初にそれ言う?」
「前見た時より増えとるやん」
「必要なもん増えたんや」
「必要かどうか、今から見るんやろ」
嫌な始まりだった。
庄兵衛が善次郎を見る。
「お前が銭のやつか」
「何やその呼び方」
「虎松が言うとった」
「言うてへん!」
「だいたいそんな感じ言うたやろ」
「それは言うた」
善次郎が俺を見る。
「後で話しよか」
「今でええやろ」
*
「まず、絶対いるもん」
善次郎が言った。
宗次郎が新しい紙を用意する。
「紙使うん?」
「今それ言います?」
「いや、今日ちょっと言われたから」
「書かんで覚えられるなら書かんでもええで」
「書こう」
即決した。
最初に挙がったのは工房だった。
火床と加工場所、仕上げ、材料置場、途中の仕事を置く場所、最後に検める場所、完成品置場。治具や当て金を置く場所もいる。
「全部最初から?」
善次郎が聞く。
「いる」
「広さも?」
「広さは庄兵衛さんと詰める」
「ほな、まだ銭出されへんな」
「今日は仕様決めるんやろ」
「せやから聞いとる」
次は水車だった。
「一基」
俺が言う。
「二基ちゃうんやな」
「最初は一基」
善次郎が少しだけ満足そうな顔をした。
「砥石と穴あけ?」
「そう。両方につなげられるようにしたい。ただ、片方ずつ止められるようにする」
「それ、なんぼ増える?」
「まだ分からん」
「伊助さんに聞くんやな」
「うん」
「二基目は?」
「作らん」
善次郎が俺を見る。
「ほんま?」
「場所だけ残す。水路も後から分けられるようにしとく」
「それならええ」
早かった。
「ええん?」
「使わん水車に銭払え言われたら嫌やけど、土地空けとくくらいなら話別や。水路も、後で全部壊して作り直すより最初に少し考えとく方が安いなら、その方がええ」
伊助に言われたことと同じだった。
未来のために全部作る必要はない。後から作れるようにしておけばいい。
*
「家」
善次郎が言う。
「普通のでええ」
俺が答えると、お袋がいないのに親父が笑った。
「何や」
「昨日まででかくする言うてへんかった?」
「やめた」
「何で」
「掃除するんお袋やから」
庄兵衛が頷いた。
「正しいな」
「大工までそっちなん?」
「使わん部屋も建てたら銭かかるぞ」
善次郎が食いついた。
「それや。それでええ」
「ただ、今の家で困っとるところは直す。あと客泊められる部屋一つ」
「客?」
「遠くから来る人増えるかもしれんやろ」
善次郎は少し考えてから頷いた。
「それはあってもええな」
「ほんま?」
「俺が泊まるかもしれん」
「帰れや」
「何でや」
「お前、堺に家あるやろ」
親父が笑った。
「別棟建てられる場所も家側に残す」
「何建てるん?」
「まだ決めてへん。人増えたり、小間使い置いたり、客増えた時」
「建物は今建てへん?」
「建てへん」
「ほなええ」
善次郎の判断がどんどん早くなっていた。
今すぐ銭が出ていかない話には、とても寛容だった。
*
「火薬置場」
宗次郎が言う。
「いる」
親父が即答した。
「離す」
俺も言う。
「どれくらい?」
善次郎が庄兵衛を見る。
「そこは建物だけやなくて場所決めなあかん。今の候補なら小さいのでええやろ」
「高い?」
「大きさ次第や」
「小さくしよ」
「勝手に決めんな」
親父が言った。
「必要な分入らんかったら意味ないやろ」
「どれくらい要る?」
「今より仕事増えるんやろ」
今度は俺が止まった。
百挺を目指すなら、材料だけでなく火薬の扱いも今の量のままではない。小さくすれば安いからと先に大きさを決めれば、必要なものが入らなくなる。
「宗次郎」
「はい」
「今どれくらい置いとる?」
「戻ったら見ます」
「増えた時に、どれくらい要るかも出せる?」
「今の仕事との比べ方なら考えられます。ただ、百挺になった時に同じ割合で増えるかは分かりません」
「それでええ。まず今の量見よ」
善次郎が頷いた。
「分からんもんは、分かってから大きさ決める。それでええ」
少し安心した。
全部を今日決める必要はない。決めるための材料が足りないものまで、無理に決める必要もなかった。
*
庄兵衛が工房の紙を指した。
「あと、こいつが柱減らしたい言うとる」
「なんぼ増える?」
善次郎が即座に聞いた。
「まだ分からん」
「じゃあ柱立てよ」
「待て待て待て!」
「安いんやろ?」
「使いにくなる!」
「どれくらい?」
「それを昨日歩いて見たんや!」
庄兵衛が笑った。
「全部なくす必要はない。ここだけ広く取りたいらしい」
「そこだけなら?」
「太い材いる。手間も増える」
「なんぼ?」
「材見な分からん」
「じゃあ値段出して」
「分かった」
話が早い。
俺が何日も考えていたことが、二人の間では「いくら違うか」が分かれば次へ進む話になる。
「高かったら?」
善次郎が俺を見る。
「考える」
「柱立てる?」
「……値段と、どれくらい邪魔になるか比べてから」
「それでええ」
そこでようやく分かった。
善次郎は、何でも削りたいわけではない。
銭を使うなら、何のために使うのかをはっきりさせろと言っている。その理由と値段を並べて、それでも必要なら払えばいい。
*
話が一通り終わる頃には、宗次郎の紙に三つのまとまりができていた。
今作るもの。
後から作れるようにしておくもの。
まだ調べてから決めるもの。
今作るものには、工房と家、一基目の水車、砥石と穴あけへ力を送る仕掛け、材料や途中の仕事を置く場所、完成品置場、客を受ける場所が入った。
後から作れるようにしておくものには、二基目の水車、工房を広げる方向、家の別棟を建てる場所が入る。
まだ調べるものには、火薬置場の大きさ、水路と軸の細かな造り、柱を減らすために必要な材と値段が残った。
「だいぶ減ったな」
善次郎が言った。
「何が?」
「今すぐ銭払うもん」
「最初より?」
「お前の最初の話やったら、使うか分からん水車まで作る気やったやろ」
「そう考えたら減ったな」
「家まででかくしようとしとったんやろ」
「それは忘れろ」
親父が笑った。
*
「で」
善次郎が紙を指で叩いた。
「これで大きさと造り決めたら、庄兵衛さんが材と手間出せるんやな」
「出せる」
「水の方は伊助さん」
「せやな」
「鉄とか、水車から先の仕掛けは?」
俺と喜兵衛を見る。
「こっちで考える」
「なんぼ掛かる?」
「それも出す」
「いつ?」
「……出す」
「いつ?」
「分かったら!」
「分からんまま建て始めんなよ」
痛い。
善次郎は宗次郎の紙を取り、三つに分かれた項目をもう一度見た。
「俺はな、安うしたいだけちゃうで」
「知っとる」
「ほんま?」
「たぶん」
「知らんやん」
笑われた。
「途中で銭足らんようになって、工房半分、水車なし、家だけ建ちました、が一番あかん。建て始める前に、今いるもんが全部払えるか見たいだけや」
それは、作り始めてから材料が足りないと分かるのと同じだった。
途中まで作った鉄砲を前にして、鉄がない、炭がない、金具がないと言っても遅い。建物だって同じで、始める前に必要なものと必要な銭を並べておかなければならない。
「じゃあ、次は値段出す?」
「そうやな」
善次郎が頷いた。
「庄兵衛さんは建物。伊助さんは水。虎松らは水車から先の仕掛け。宗次郎は今の材料と火薬、それから増えた時にどれくらい置くか」
「善次郎は?」
「俺?」
「何するん」
「お前らが出した銭見て、頭抱える」
「仕事しろや」
「それが仕事や」
庄兵衛が笑った。
*
みんなが帰った後、工房には俺と宗次郎、それから四枚どころではなくなった紙が残った。
「兄上」
「何?」
「紙代、ほんとに結構いってますよ」
「……お袋に言わんといて」
「もう知ってるでしょう」
「せやった」
宗次郎が今日の最後の一枚を持ち上げる。
そこには、今作るもの、後から作れるようにしておくもの、まだ調べてから決めるものが並んでいた。
何でも先に作っておけば安心というわけではない。使わないものまで作れば、銭も場所も人の手も取られる。一方で、必要になってから全部壊してやり直すのも勿体ない。
今いるものは、今作る。
後でいるかもしれないものには、作れる場所を残す。
分からないものは、分かってから決める。
「これ、残しとこ」
「もちろんです」
「次から裏使う?」
「帳面に残すものはやめてください」
「はい」
紙を節約するところまで、仕組みにはできなかった。




