水の通り道
善次郎が榊屋へ来たのは、水車場へ行ってから三日後だった。
俺は喜兵衛と一緒に、試作した穴あけ道具の軸を回していた。前より少し硬い木を軸の受けに使い、油を入れたらどうなるかを試しているところである。
「虎松」
入口から声がした。
「今ちょっと待って」
「待たへん」
「今ええところなんや」
「水の話や」
手が止まった。隣を見ると、喜兵衛の手も止まっている。
「聞こえとるやん」
「聞こえた」
「ほな来い」
善次郎の後ろには宗次郎もいた。先に話を聞いていたらしく、すでに帳面を持っている。
「どうやった?」
「使えんことはない」
善次郎はそう言って、俺たちの前に紙を置いた。
「使ってええん?」
「まだそこまで言うてへん」
「どっちやねん」
「せやから説明する」
善次郎が調べたところでは、あの土地の近くを流れる水は、下流の田畑でも使われているらしい。誰か一人が水を全部仕切っているわけではないが、勝手に堰を作って大量の水を引けば、当然揉める。特に水の少ない時期は、下流で使う分を考えなければならないという。
「伊助さんが言うとった通りやな」
「せやな」
「どれくらいなら取ってええん?」
「それを俺に聞くな」
「調べたんちゃうん?」
「水の量まで俺が決められるか」
善次郎によれば、話を通すべき相手はおおよそ見えてきたらしい。土地に関わる者だけでなく、下流で水を使っている側にも話をしておいた方がいい。
「金いる?」
「たぶんな」
「やっぱり?」
「お前、水だけ無料やと思っとったん?」
「思ってへん」
「ほんま?」
「……ちょっとは」
「思っとるやん」
宗次郎が帳面へ何かを書いた。
「何書いた?」
「水にも銭が要るかもしれない」
「そこまで書かんでも覚えとるわ」
「兄上なので」
「どういう意味や」
*
善次郎の話を聞いた翌日、俺たちはもう一度、新しい土地へ向かった。
今回は俺と宗次郎、喜兵衛、善次郎、それに水口屋の伊助までいる。甚助も連れてきたかったのだが、「嫌や」の一言で断られた。
「まだ何も言うてへん」
「水車場見に行くんやろ」
「なんで分かったん」
「昨日から喜兵衛がうるさい」
ということで、軸受けの話は後回しになった。
代わりに、昨日まで使っていた穴あけ道具を持ってきている。伊助に「紙やなくて現物持ってこい」と言われたからだ。
「重い」
喜兵衛が文句を言った。
「お前も持ってきたい言うたやろ」
「水車場までやと思っとった」
「今日は土地までや」
「先に言え」
「言うた」
「聞いてへん」
「聞け」
前を歩いていた伊助が振り返った。
「帰るか?」
「行きます」
俺と喜兵衛は揃って黙った。
*
土地へ着くと、伊助は工房を建てる予定の場所には向かわず、そのまま川へ下りていった。
「まず水や」
前にも同じように川を見て回ったが、今回は目的が違う。前回は水車を置けるかどうかを確かめるために、川の深さや流れ、岸の高さ、水を返す場所まで見た。今回はそこへ、実際に水車へ何をさせたいのかという条件が加わっている。
「穴あけ見せろ」
「ここで?」
「持ってきたんやろ」
仕方なく、少し平らな場所を探して試作機を置いた。
「これか」
伊助がしゃがみ込む。
「小さいな」
「最初もっと大きかったんです」
「なんで小さなった」
「甚助さんに怒られました」
「何て?」
「これ作るために、これ要るんか考えろって」
「まともやな」
最近、甚助の評価が高い。
金具を一つ台へ固定し、喜兵衛に軸を回してもらう。俺が上から錐を押すと、何度か試した甲斐もあって、前より滑らかに穴が開いた。
「こんな感じです」
「これを水で回したいんやな」
「うん」
伊助は軸を手で回し、上と下の受けを順に確かめた。
「これなら、水車そのものほど力はいらんな」
「やっぱり?」
「見たら分かる」
「どれくらい?」
「それは知らん」
「そこまで分からんの?」
「俺を何やと思っとる」
「水の人」
「ほな水のこと聞け」
正しい。
「でも、砥石とこれくらいなら?」
「一緒に回せるかもしれん。水がある時ならな」
「ある時?」
「少ない時は分からん」
伊助は川へ目を向けた。
「せやから、どっちも絶対一緒に回さなあかん作りにはするな」
「片方止められるようにする?」
「それがええ」
俺と喜兵衛は顔を見合わせた。
「どうやって?」
「俺に聞くな」
「そこも?」
「水車から先はお前らの仕事や言うたやろ」
守備範囲が硬い。
*
「で、水の話や」
伊助は川沿いを歩き始めた。
善次郎が調べてきた話を聞きながら、取水できそうな場所をもう一度見ていく。前回、最初に考えていた場所では低すぎて、水を使った後に川へ戻しにくいことが分かっている。
「ここから取る」
伊助が、前回より少し上流を指した。
「ここ?」
「この辺や。まだ決まりちゃうぞ」
そこから工房側へ向かって歩き、途中で縄を張る。川から引いた水をどこへ通し、どこで落とすのかを見ているらしい。
「前より長くない?」
「長い」
「銭かかる?」
善次郎が聞いた。
「かかる」
「どれくらい?」
「決めてから聞け」
「決めるために聞いとるんや」
「長さも幅も決まっとらんのに出せるか」
善次郎と伊助が睨み合った。この二人、たぶん相性は悪くない。
「水車はここらやな」
伊助が足を止めた。
前に俺たちが工房を置こうとしていた場所より少し川寄りで、わずかに上流側だった。
「ここに水車?」
「この辺や。水を落として回して、下へ抜く」
伊助は地面を指しながら、水の通り道を説明していく。上流から引いた水を水車へ落とし、そのまま下流側へ返す。大事なのは水を取る場所だけでなく、使った後の水が詰まらず戻れるだけの高さを確保することだった。
「工房は?」
「知らん」
「また?」
「俺は水車置く場所見とるんや。工房どこ置いたら仕事しやすいかは、お前らで決めろ」
前にも同じことを言われたが、今回はその意味がよく分かる。
水車の位置が決まれば、工房は好きな場所へ置けるわけではない。砥石と穴あけへ動きを伝えるなら、水車から離すほど軸や仕掛けが長くなる。かといって水車の真横へ全部寄せれば、今度は材料や人の流れがおかしくなる。
「宗次郎、紙」
「はい」
以前描いた工房の配置を地面へ広げた。
「これ、もう使えんな」
「水車の位置が違いますからね」
最初に考えていた配置では、砥石と穴あけを工房の奥へ置いていた。だが伊助が示した場所から動力を取るなら、水車側へ寄せた方が仕掛けは単純になる。
紙の上で砥石を動かし、穴あけもその近くへ寄せた。
「そこに二つ並べるん?」
喜兵衛が聞いた。
「たぶん」
「狭ない?」
「せやから工房も動かす」
「家は?」
宗次郎が言った。
手が止まった。
「……家も動くな」
「お母さんに言ってくださいね」
「俺?」
「兄上が動かしたので」
「水車が動いたんや!」
「水車を置くのは兄上でしょう」
「伊助さんや!」
「俺に振るな」
*
俺たちはその場で工房の位置を大まかにずらし、縄を使って実際の大きさを地面へ取ってみた。紙の上なら線一本で済むが、現地で囲ってみると、その中で人が働く広さが急に具体的になる。
「ここが工房の端」
俺が杭を置く。
「狭い」
喜兵衛が即座に言った。
「まだ中入ってへんやろ」
「見たら分かる」
「前より広いぞ」
「水車の道具増えたやん」
それはそうだった。
砥石と穴あけだけでなく、水車から動きを受ける軸や、それを支える場所も必要になる。将来もう一つ何かを試せる余地を残すなら、その分も通路を塞がない場所に取らなければならない。
「ここ広げたら?」
喜兵衛が水車側を指した。
「その分、材料置くとこ減る」
宗次郎が返す。
「向こうに置いたら?」
「材料入れる場所から遠くなります」
「ほな工房広げる」
「銭」
善次郎が言った。
「まだ何も言うてへんやろ」
「広げる言うた」
「言うただけや」
「広げたら銭かかる」
「分かっとるわ!」
四方向から殴られている気分になってきた。
*
「虎松」
少し離れたところで地面を見ていた伊助が呼んだ。
「何?」
「お前、後からもう一個水車増やしたい言うとったな」
「水車そのものを絶対増やしたいんやなくて、後から別の道具を回せるようにしときたい」
「ほな、ここ空けとけ」
伊助が今の水車予定地の横を指した。
「ここ?」
「今は何も作らんでええ。水路だけ、後からこっちへ分けられるようにしとく」
俺はしゃがみ込み、示された場所を見る。
「あとから水車置ける?」
「水が足りればな」
「足りんかったら?」
「置いても回らん」
「ですよね」
「せやから今作るな言うとる」
善次郎が満足そうに頷いた。
「それやったらええ」
「即答やな」
「使わん水車に銭払わんでええんやろ?」
「場所と水路は少し余計に要る」
伊助が言う。
「それくらいなら見る」
善次郎は紙へ何か書いた。
「何書いた?」
「銭」
「宗次郎と同じことすんな」
「大事やからな」
将来のために全部を作っておく必要はない。水車を増やせる場所を空け、水路を後から分けられるようにしておく。動力を工房へ入れる場所も、もう一本増やせる余地を残しておけばいい。それなら今払う銭を抑えながら、将来の試し物を置く場所は潰さずに済む。
*
「あと、これ」
伊助が川の方を指した。
「何?」
「大雨の時、水ここまで来ることある」
指された場所を見て、俺は眉をひそめた。さっきまで工房の端にしようとしていた辺りと、思ったほど離れていない。
「水車大丈夫なん?」
「大丈夫な場所に置くんや」
「工房は?」
「もっと上げろ」
「さっきそこに置いたやん!」
「今、雨の話しとるからな」
「先に言うて!」
「聞かれてへん」
五平までいないのに「聞かれてへん」が出てきた。
伊助は少し高い場所まで歩き、そこから水車予定地を振り返った。
「工房はこっちの方がええ。水車から少し離れるけど、雨の時はこっちがましや」
「軸長くなる?」
「なる」
「銭」
善次郎が言った。
「分かっとる!」
今度は言われる前に答えた。
それでも、安全を削ってまで軸を短くする気はない。水車や水路は水の近くへ置くしかないが、人が一日働き、鉄や炭を置き、火を扱う工房まで同じ高さへ下げる必要はなかった。
「ここに工房置くとして……」
俺は高い方へ歩きながら、頭の中で配置を組み直す。
水車側には砥石と穴あけを寄せる。そこから火床や通常の加工場所へ仕事を流し、材料の入口は荷車が入りやすい道側へ向ける。仕掛品と完成したものまで同じところへ戻さないよう、出ていく側も分けたい。
「火薬は?」
宗次郎が聞いた。
「工房の中には置かん」
「どこです?」
俺は少し離れた場所を見る。
「もっと向こう」
「家からも離してください」
「分かっとる」
「道からは?」
「運び込める場所にはする」
「水は?」
「家にも要る」
答えているうちに、以前お袋やお澪と一緒に出した条件が頭の中へ戻ってきた。
工房だけではない。材料を運ぶ道があり、客が来る場所があり、家族が暮らす家がある。炊事や洗い物に使う水も要れば、火薬は人の暮らす場所から離して置かなければならない。そこへ今度は水車と、その水を通して戻す道が加わった。
「……一回、全部描き直そ」
俺が言うと、宗次郎が頷いた。
「その方がいいと思います」
「今までの無駄になる?」
喜兵衛が聞く。
「ならん。今まで決めた条件使って描き直すんや」
工房の形を先に決め、空いたところへ家や水車を押し込むのではない。必要な場所と、人や物や水の流れを全部並べ、その上で一つの榊屋として組み直す。
「次、みんな呼ぶか」
「誰を?」
「親父、弥吉、五平、佐吉、甚助。お袋にも見てもらう。お澪にも来てもらえたら来てもらう」
善次郎が俺を見る。
「俺は?」
「来るやろ?」
「銭の話するならな」
「絶対来るやん」
「当たり前や」
伊助が鼻を鳴らした。
「俺は?」
「水のとこだけ見て」
「それなら呼べ」
全員に紙を見せたら、間違いなく好き勝手言われるだろう。たぶん一度では決まらないし、また描き直すことになる。
それでも今回は、それでいい。
*
帰る前に、伊助がもう一度、水車予定地へ縄を張った。
「ここから取って、この辺で落とす。返すんはこっちや」
上流側の取水候補から水を引き、水車を回し、下流へ戻す。まだ善次郎の話がまとまっていない以上、どこも確定ではない。それでも、水の通り道は前に来た時よりずっと具体的になった。
「善次郎」
「何や」
「水の話、いけそう?」
「相手は分かった。条件聞いてくる」
「銭?」
「それもや」
「揉めそう?」
「勝手に水取るよりは揉めへん」
「そらそうや」
「あと、水少ない時は取らんとか、堰をどこまで触るとか、その辺も伊助に聞いてから話した方がええ」
「俺も行く」
伊助が言った。
善次郎が少し意外そうな顔をした。
「来るん?」
「お前だけで水の話して、できん約束されたら困る」
「せえへんわ」
「ほんま?」
「……たぶん」
俺は善次郎を見た。
「言うたな」
「うるさい」
宗次郎の筆が動いた。
「お前、それまで書くな」
「書いてません」
「ほんま?」
「今のは書きます」
「やめろ」
*
帰り道、宗次郎は今日書いた紙を歩きながら見直していた。
「兄上」
「何?」
「次は工房の絵を描くんですよね」
「うん」
「一人で描かないでくださいね」
「分かっとる」
「本当に?」
「今日はみんなで決める言うたやろ」
「ならいいです」
少し前なら、まず俺が工房を描き、それをみんなへ見せていた。
今回は違う。水車をどこへ置けるかは伊助が知っている。材料がどこにあれば困らないかは宗次郎が知っているし、誰がどの仕事をしているかは職人たちの方が詳しい。家のことならお袋の方が俺より遥かに分かっているし、人がどう出入りするかについては、お澪に一度痛いところを突かれている。
俺が一人で全部決める理由はなかった。
「宗次郎」
「何です?」
「でかい紙、まだある?」
「あります」
「何枚?」
「何枚使うつもりです?」
「……一枚で済ませたい」
「無理でしょうね」
即答された。
俺も、たぶん無理だと思った。
榊屋へ戻ったら、まず親父たちを集めることにした。




