水は誰のもの?
善次郎に紙を見せると、最初に見たのはやはりそこだった。
「予備って何や」
「そこから?」
「使い道決まっとらんところに銭使おうとしとるんやから、そこからやろ」
正しい。
正しいが、腹が立つ。
「まだ銭使うって決まってへん」
「ほな消せ」
「嫌や」
「何でや」
「後で使う」
「何に?」
「それを試すために要るんや」
善次郎の眉が少し動いた。
「何やそれ」
「俺も今、説明の仕方考えとる」
「考えてから来い」
「聞け」
隣で宗次郎がため息をついた。
「兄上、順番が逆です」
「分かっとる」
俺は紙を引き寄せた。
前の時代なら、研究とか開発とか試作とか、そういう言葉で済んだ。今すぐ役に立つか分からないものでも、試さなければ新しいものは作れない。そのために、先に銭や場所を使うことも珍しくなかった。
だが、ここでそんな言葉を並べても仕方がない。
「今の榊屋で使うだけなら、砥石回して、穴あけに使えたらそれでええ」
「ほなそれでええやん」
「でも、それだけでいっぱいにしたら、次に何か試したくなったとき、また水車から触らなあかんやろ」
「何を試すんや」
「まだ作ったことない道具」
「何や」
「それはまだ言わん」
「何でやねん」
「できるか分からんからや」
善次郎が露骨に嫌そうな顔をした。
「できるか分からん物のために、先に銭使うん?」
「そう」
「嫌やなあ」
「最後まで聞けって」
俺は紙に丸を書いた。
「今ある仕事を楽にする道具なら、今の仕事見ながら考えられる。でも、今ない道具は一回作って試さんと、使えるかどうかも分からんやろ」
「まあな」
「試すたびに水車止めて、砥石外して、仕事止めてたら、そのうち誰も試さんようになる。せやから仕事に使う分とは別に、試すために使えるところを少し残しときたい」
善次郎が黙った。
「うまくいかんかったら何にもならんかもしれん。でも、うまくいったら次から仕事に使える。今できんことが、できるようになるかもしれん」
「……つまり」
善次郎が紙を指した。
「銭にならん仕事するために、先に銭使いたいんやな」
「言い方!」
「合っとるやろ」
「今すぐ銭にならんだけや。後で銭になるかもしれん」
「ならんかもしれん?」
「……なるように頑張る」
「ならんかもしれんのやな」
「そこ拾うな」
宗次郎が口を挟んだ。
「兄上が言いたいのは、新しい道具を試す場所まで、普段の仕事で埋めたくないということですか?」
「それ。それや」
「最初からそう言ってください」
「今できたんや、その言い方」
善次郎は腕を組んだ。
「分かった。考え方は分かった」
「お」
「払うとは言うてへんぞ」
「そこは後でええ」
「なんぼかかるか出してからや」
「分かっとる」
ひとまず、『予備』の文字は消されずに済んだ。
*
「で、水車どこに置くん?」
「それ聞きに来た」
「俺に?」
「水のこと分かる人、知らん?」
善次郎は少し考えた。
「おるで」
「早いな」
「前から水車置く言うてたやろ。土地探しとったときに一回聞いとる」
「もう?」
「土地買う話してから、水車置けませんでしたでは困るやろ」
こいつら親子、俺が思っているよりずっと先から動いている。
「誰?」
「伊助いう男や。水口屋って呼ばれとる」
「水車作る人?」
「水車だけちゃう。堰も樋も水路もやる。水使う普請なら大体見る」
「会える?」
「呼んだる」
「今?」
「今は無理や」
「何で?」
「お前みたいに暇ちゃう」
「俺も暇ちゃうわ」
宗次郎がこっちを見た。
「何や」
「何でもありません」
*
三日後、善次郎が連れてきた男は、俺が勝手に想像していたより普通の格好をしていた。
四十くらいだろうか。背は高くない。日に焼けた顔に短い髭があり、腰には墨壺と縄、それに細い木の棒を何本か差している。
「水口屋の伊助や」
「榊屋の虎松です」
「聞いとる」
伊助は俺より、後ろにいる喜兵衛を見た。
「そっちは?」
「喜兵衛です。水車の方、一緒に考えとります」
「水車作ったことあるんか?」
「砥石回すやつなら、一回」
「誰と?」
「粉挽きの水車見ながら」
「ほう」
褒めたのか、呆れたのか分からない。
宗次郎も名乗った。善次郎まで一緒に来るらしい。
「善次郎も来るん?」
「銭出す側が見んでどうすんねん」
「まだ出すって決まってへんやろ」
「せやから見るんや」
伊助は俺たちのやり取りを聞きながら、特に笑いもしなかった。
「で、水車で何する」
いきなり聞かれた。
「まず砥石を回します。それと、錐も回したい」
「錐?」
「穴あけです。回す方だけ水にやらせて、押すんは人で」
伊助が喜兵衛を見る。
「作れるんか?」
「作ってみます」
「ほな、まだ分からんな」
「はい」
即答だった。
俺は紙を広げた。
「あと、試し物に使える分も残したい」
「試し物?」
「今はまだ作れん道具を、後で作って試すためです」
「何作る」
「考えとるものはあります。でも、それが作れるか分からん」
伊助は紙と俺を交互に見た。
「分からんもん試すために、水残すんか」
「はい」
「変なこと考えるな」
「よく言われます」
善次郎が横から言った。
「しかも銭かかるで」
「お前はまだそれ言うんか」
「ずっと言うぞ」
*
土地へ着くと、伊助は工房を建てる予定の場所へ行かなかった。
川へ向かい、俺たちが水車を置こうと思っていた辺りを少し見ただけで、そのまま上流へ歩いていく。
「どこ行くん?」
「水見る」
「ここにもあるやん」
「あるな」
「……それだけ?」
「それだけや」
そのまま歩くので、喜兵衛と顔を見合わせて後を追った。
伊助は川幅を見て、岸へ下り、棒を水へ入れた。場所を変えてまた入れる。流れの速いところと緩いところ、岸の高さ、川底まで、俺には何の意味があるのか分からないところを順番に見ていく。
「何見とるんです?」
「深さ。底。流れ。あと岸」
「水車置けそう?」
「まだ知らん」
少し上流を見たところで引き返したが、今度は俺たちが水車を置きたい場所を通り過ぎ、そのまま下流へ向かった。
「今度は何?」
「水戻すところ」
「あ」
伊助が振り返った。
「水車、回した水どこ行くんや」
「川に戻す」
「どこへ?」
「……ここら辺?」
「ここら辺のどこや」
答えられない。
「取るとこだけ考えとったんか」
「はい」
「ようある」
怒られなかった。
その方がちょっと痛い。
*
しばらく見たあと、伊助は土地へ戻った。
「水車置くなら、ここはやめた方がええ」
いきなり俺たちの案が消えた。
「何で?」
「低い」
「低い?」
「水取って、落として、戻すやろ。戻す先より高うないと困る」
伊助は地面を指した。
「ここに置いたら、水逃がすとこ作りにくい。雨で川増えたら、戻す方から水来るかもしれん」
「逆に入ってくる?」
「そうなることもある」
俺は紙を出した。
「じゃあ、もっと上?」
「水車はな。ただ工房まで離れる」
「軸伸ばしたら?」
「伸ばせる」
「ほな」
「長うしたら、木も手間も増える。支えるところも増えるし、ずれたり傷んだりするところも増える」
喜兵衛がしゃがみ込んだ。
「じゃあ水車から近いところに砥石置く?」
「それはお前らの仕事や」
「え?」
「俺は水をどこへ持ってきて、どこへ返せるか見る。砥石どこ置いたら仕事しやすいかは知らん」
喜兵衛が俺を見る。
俺も喜兵衛を見る。
「……そらそうやな」
「せやな」
伊助はもう別の場所を見ていた。
*
「ここから水取るなら、誰に話するんです?」
宗次郎が聞いた。
伊助が初めて少しだけ感心した顔をした。
「それ先に聞くんはええな」
「勝手に取ったら駄目ですよね」
「駄目や。この辺、下で田に使っとる水ある。上にも使うやつおる。どこからどれだけ取るかで、話する相手変わる」
「水って、土地買ったら使えるんちゃうん?」
喜兵衛が聞いた。
「川まで買うたんか?」
「買ってへん」
「ほな勝手に使うな」
「分かりやすいな」
「揉めるぞ」
伊助は川の方を指した。
「水車一個回すだけなら何でもええ、とはならん。水減ったときに田へ行く水まで取ったら、鉄砲作る前に殴られるで」
「それは嫌やな」
「向こうも嫌やろ」
善次郎が黙って聞いている。
「話、誰が付ける?」
俺が聞くと、善次郎が答えた。
「それはこっちで調べる。土地の持ち主にも聞くし、この辺の水使っとる村も見る」
「頼む」
「銭かかるかもしれんぞ」
「すぐそれ言う」
「商人やからな」
*
「で、どのくらい回せそう?」
喜兵衛が待ちきれなくなったらしい。
伊助は川を見た。
「知らん」
「まだ?」
「水は今日だけ流れとるんちゃうぞ。雨降った日と、日照り続いた日で同じやと思うんか」
「あ」
「一番よう回る日に合わせて作っても意味ない。水少ないときに、どこまで回したいか決めろ」
俺と宗次郎が顔を見合わせた。
「水が止まっても作れる仕事」
「昨日書いたやつですね」
「うん」
伊助がこっちを見る。
「何やそれ」
「水車止まっても、鉄砲作り全部止まらんようにしようって話です」
「それならええ」
「ええん?」
「水は止まるもんや。水少ない日もある。木ぃ詰まることもある。壊れることもある。川増えすぎても止める」
「増えたらよう回るんちゃう?」
喜兵衛が聞いた。
「壊したいなら回せ」
「止めます」
早かった。
*
伊助は縄を張り、棒を立て、何度か場所を変えた。
詳しいやり方は分からない。ただ、俺たちが紙の上に「水車」と丸を書いていたのとは、見ているものが違う。川だけではなく、川と土地の高さを見ている。
「ここなら取れるかもしれん」
しばらくして、伊助が上流側の一角を指した。
「水車は?」
「この辺」
「工房、こっちやで」
「知っとる」
「遠ない?」
「近うしたいなら工房動かせ」
「簡単に言うなあ」
「まだ建ててへんやろ」
その通りだった。
俺は紙を広げ、工房の位置を少しずらしてみた。
「こっち寄せたら、材料入れる道が……」
宗次郎が紙を覗く。
「荷車の入り方変わりますね」
「完成品出す方も変わる」
「家は?」
「あ」
「また忘れました?」
「忘れてへん。今考えようとした」
伊助が俺たちを見ている。
「家も建てるんか」
「建てます」
「井戸は?」
「それも見てもらおうと思って」
「俺は井戸掘りちゃう」
「違うん?」
「場所見るくらいはできる。掘るなら別のやつ呼べ」
何でもできる人ではないらしい。
少し安心した。
*
昼を過ぎたころ、伊助はようやく腰を下ろした。
「で、お前ら、どれだけ水欲しい」
俺は答えようとして止まった。
「砥石一つと」
「大きさは?」
「……今使っとるやつ測ります」
「錐回す言うたな」
「はい」
「どんな錐を、どれくらい回したい」
「それは、これから作って試します」
「ほな、それ決まってからやな」
「はい」
「あと、試し物」
「それも欲しい」
「どれだけ?」
「……分からん」
伊助が俺を見る。
善次郎が笑いかけたので、先に睨んでおいた。
「さっき善次郎にも話したんですけど、今の仕事に使う分だけで水車をいっぱいにしたくないんです」
「何で」
「新しい道具を試したいからです」
伊助は黙って続きを待っている。
「新しい道具って、作る前から使えるか分からんでしょう。試して駄目なら直して、また試す。そうやって使えるようになったら、初めて仕事に入れられる」
「まあ、そうやな」
「でも、そのたびに普段使っとる砥石止めて軸外して、仕事止めて試すことになったら、だんだん誰もやらんようになると思うんです」
喜兵衛が横で頷いた。
「俺はやるで」
「お前はやるやろけど」
「何やそれ」
「褒めとる」
たぶん。
「だから、最初から少しだけ、試すために使える場所を残しておきたいんです。今すぐ鉄砲が一挺増える場所やない。でも、そこで新しい道具が一つ使えるようになったら、その後はずっと仕事が変わるかもしれん」
伊助は少し考えた。
「試すための水が欲しいんやな」
「そう。それです」
やっと通じた。
善次郎が腕を組む。
「失敗したら?」
「銭だけ減る」
「ほら」
「でも成功したら、今までできんかった仕事ができるようになるかもしれん」
「どれくらい儲かる?」
「それは分からん」
「嫌やなあ」
「だから試すんやろ!」
伊助が少し笑った。
「お前ら、よう一緒に仕事しとるな」
「最近俺もそう思います」
「俺は前から思っとる」
善次郎は平然としている。
伊助は川の方へ目を向けた。
「水を余らせとく、いう考え方やと勿体ない」
「はい」
「でも、後から別の仕事できるように作っとく、いう話なら分かる」
「できます?」
「やりようはある。水路を後から広げられるようにしとく。水車をもう一つ置ける場所を潰さんようにしとく。軸を伸ばしたり分けたりできる場所を考えとく。最初から全部作る必要はない」
「それや」
「ただし、場所は取る」
「うん」
「普請も少し増える」
「うん」
「銭もかかる」
「……うん」
善次郎が嬉しそうに俺を見る。
「何や」
「いや」
「言えや」
「なんぼか聞こうな」
「分かっとるわ」
ようやく、『予備』の二文字が少しだけまともな意味を持った。
*
帰る前に、伊助ともう一度土地を回った。
俺たちが最初に描いた工房の形は、もうそのままでは使えそうになかった。水車の位置が変われば砥石の場所が変わり、穴あけの場所も変わる。工房を動かせば荷車の道や家との間も変わり、火薬を置く場所まで見直さなければならない。
「また描き直しか」
「兄上、まだ建ててません」
「分かっとる」
「今分かってよかったじゃないですか」
「それも分かっとる」
分かっているが、紙の上ではもう何度か完成しているので、少しだけ惜しい。
喜兵衛はむしろ楽しそうだった。
「なあ伊助さん」
「何や」
「水車から回す軸、二本に分けるんできる?」
「できる」
「三本は?」
「できる」
「四本」
「先に一個まともに回せ」
「はい」
この二人は、たぶん今後も話が合う。
伊助は最後に川を見てから、俺たちにそれぞれ宿題を出した。
「次来るまでに、今使っとる砥石見せろ。穴あけいうやつも、どんなふうにしたいか描いとけ。作ってあるなら、それでもええ」
「分かった」
「善次郎」
「何?」
「水の話、調べといてくれ。ここで勝手に堰作れるとは思わん方がええ」
「分かった」
「宗次郎」
「はい」
「今の工房で、水車止まったら困る仕事と、手でも続けられる仕事、分けとけ」
「やります」
それから伊助は俺を見た。
「虎松。試し物の分は、今すぐどれだけ水使うか決めんでええ」
「ええん?」
「決めようがないやろ」
「まあ……はい」
「その代わり、後から増やせるようにするなら、どこまで先に作っとくか決めろ。場所だけ空けるんか、水路まで作るんか、軸まで出すんか。それで銭が変わる」
善次郎がすぐ反応した。
「それやな」
「何で嬉しそうなん」
「選べるやん」
全部を今作るか、何もしないか。その二つしかないわけではない。
「じゃあ、何段階かに分けて考える」
「そうせえ」
帰ったら、まず今の砥石を測る。穴あけの道具も、もう少し形にする。その上で、試し物のために今どこまで作っておくのかを決める。
善次郎が紙の『予備』の横に、小さく書き足した。
『銭』
「書かんでも分かっとるわ」
「忘れるやろ」
「忘れへん」
「ほんま?」
「……たぶん」
「ほらな」
宗次郎が黙って、その横に丸を付けた。




