誰が使う場所?
善右衛門は、あっさり許した。
「半日?」
「そのくらい。長くても昼過ぎまで」
「ええで」
「ええん?」
「何や、あかん言うてほしかったんか」
「いや、もっと聞かれると思ってた」
「新兵衛がええ言うとるんやろ?」
「うん」
「ほなええやん。その分の仕事は先にやっとけ言うといて」
「分かった」
話はそれで終わりかと思ったが、善右衛門が帳面から顔を上げた。
「あと虎松」
「何?」
「人んとこの娘、朝から家に連れてくんやったら、変な噂立てられんようにせえよ」
「何の?」
善右衛門が俺を見る。
「……まあええわ」
「何やねん」
「そのままでおれ」
言いたいことくらい分かっている。分かっているが、ここで分かった顔をして話を広げても面倒なだけなので、分からないことにしておいた。
*
翌朝、お澪は約束より少し早く榊屋へ来た。
「おはようございます」
「早ない?」
「人が朝から何してるか見るんでしょう? 始まってから来たら分からないじゃないですか」
正しい。
紙屋で見慣れた姿とは少し違い、袖を邪魔にならないようにまとめ、髪も普段よりしっかり括っている。
「何です?」
「いや。ほんまに手伝う気なんやなと思って」
「お志乃さんに、手が空いてたら手伝えって言われたんでしょう?」
「言われた」
「なら手伝います」
「お澪ちゃん、来たん?」
奥から母ちゃんが出てきた。
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくって、そんな大層なもんちゃうよ。虎松が変なこと始めただけやから」
「変なこと言うな」
「朝から人の後ついて回るんやろ?」
「言い方!」
母ちゃんは笑いながら手を振った。
「まあええわ。見たいなら見とき。ただし邪魔したら働いてもらうで」
「はい」
「虎松もやで」
「俺も?」
「当たり前やろ」
調べる側だったはずなのに、早々に人手として数えられた。
*
最初に分かったのは、母ちゃんが思っていた以上に歩いていることだった。
朝飯の支度を始めれば薪が減り、取りに行く。水が足りなくなれば汲みに行き、器を出せば足りない物を取りに行く。その途中でお小夜が起き、吉松が何かこぼし、お千代に声を掛ける。
「母ちゃん」
「何?」
「今日、わざと忙しくしてへん?」
「するか」
「めっちゃ動くやん」
「いつもや」
知らなかった、というのは少し違う。毎朝飯が出てくるし、着物は洗われ、薪はいつの間にか補充されている。それを母ちゃんがやっていることも知っていた。
ただ、その間に何度立って、何度歩き、何度手を止めているのかまでは見ていなかった。
「虎松さん」
「何?」
「書かないんです?」
「あ」
お澪に言われ、慌てて紙へ書く。薪、水、台所、物置。また水。
「水、多いですね」
「多いな」
「井戸、今どこです?」
「裏。そこまで遠くはないで」
母ちゃんが横から口を挟んだ。
「遠ないよ」
「でも何回も行きますよね」
「そら水なくなったら行くやろ」
「一日に何回くらいです?」
「数えたことないわ」
母ちゃんにとっては、数える必要のないことなのだろう。俺とお澪は顔を見合わせた。
*
しばらくすると、お小夜が泣き始めた。母ちゃんは鍋を見ている。
「お千代!」
「はーい!」
お千代が走ってきて、お小夜のところへ行った。母ちゃんは鍋から離れない。
「今のも書く?」
俺が聞くと、お澪が首を傾げた。
「何て?」
「お小夜が泣く」
「家の間取りに?」
「……どうしよ」
「子供を見る場所、とか?」
「あ」
台所から子供が見えるか、と紙に書いた。工房を考えていたときには出てこなかった項目だ。
「今は見えんの?」
「見えるときもあるし、見えんときもある。小夜が寝とるところによるな」
「近くにおった方がええ?」
「そら小さいうちはな。でも火のそばは危ないで。吉松も危ない」
「俺!?」
近くにいた吉松が反応した。
「お前や」
「何で!?」
「昨日火箸触ろうとしたやろ」
「触ってへん!」
「触ろうとした」
「触ってへん!」
「そこ争わんでええ」
小さい子供は目の届くところに置きたいが、火からは離したい。広さだけ決めても済まないらしい。
*
洗い物になると、水の話がまた出てきた。
「これ、やっぱ水場近い方がええんちゃう?」
「近い方がええよ」
「何で最初に言わんかったん?」
「聞かれてへん」
どこかで何度も聞いた返事だった。
「母ちゃんまでそれ言う?」
「何が?」
「いや、何でもない」
俺は紙に印を付けた。
新しい土地では水車を使うつもりだから、水のこと自体はずっと考えている。ただし考えていたのは、砥石を回すための水だった。飯を作り、洗い物をし、家族が暮らすための水は、ほとんど頭に入っていなかった。
「これ、現地でもう一回見なあかんな」
「何を?」
「井戸掘る場所とか、水汲む場所。工房だけで決めたらあかん」
母ちゃんが手を止めた。
「工房だけで決めるつもりやったん?」
「……そんなわけないやろ」
「今ちょっと間あったで」
「考えとった。ちゃんと考えとった」
「ほんま?」
「ほんまほんま」
前の俺が家庭を持っていたなら、もう少し生活する側から家を見る癖も付いていたのかもしれない。残念ながら結婚したことはなく、工場の配置なら散々考えたが、家族で暮らす家を一から考えるのは前も今も初めてだった。
「虎松」
「何?」
「あんた、たまに変なこと知っとるくせに、こういうこと全然知らんな」
「十六やで、俺」
「そうやったな」
こういうときは、十六歳ということにしておくのが一番だった。
*
昼前には、紙の余白がかなり減っていた。
台所、水、薪、物置、洗い物、子供、火、洗濯、干す場所、雨の日、客、工房から帰ってくる職人。
「待って」
お澪が言った。
「何?」
「職人さん、家に入ってくるんです?」
「入ってくることあるで」
「どこから?」
「そこ」
「普通の客も?」
「だいたい」
「家族も?」
「だいたい」
俺は入口を見た。
「……分けた方がええかな」
「何を?」
「仕事で来る人と、家の人」
母ちゃんが即答した。
「分けて」
「即答やな」
「知らん男の人が、いきなり家の中まで来ることあるんやで」
「善右衛門とか?」
「あの人は勝手に入ってくる」
「今度言うとく」
「言うても入ってくるやろ」
たぶん入ってくる。
「あと工房からそのまま来る人、汚れとることあるやろ。鉄粉とか煤とか付いたまま上がられるん嫌やで」
「俺も?」
「一番あんたや」
「俺か」
「虎松さん、結構汚れてますよね」
「お前まで言う?」
工房から家へ戻る前に、汚れを落とせる場所も考えた方がよさそうだった。
*
昼飯の支度が始まったころ、お澪が母ちゃんに聞いた。
「お志乃さん。今、家のことで一番困ってることって何です?」
「一番?」
「はい」
母ちゃんは手を動かしたまま少し考えた。
「狭いことかなあ」
「どこが?」
「全部」
「全部?」
「子供増えたし、虎松らも大きなったやろ。物も増えたし、仕事の物まで家に来るし」
「物置増やす?」
「増やして」
「即答やな」
「あと干すところ」
「洗濯?」
「八人おるんやで。雨降ったら困るし、冬も乾かん。外だけやと足らんときある」
台所も、もう少し広ければいいという。お千代が手伝うようになり、二人で動くには今の広さでは窮屈らしい。
「じゃあ広くするか」
「広けりゃええってもんでもないで」
「何で?」
「何でも遠かったら面倒やろ」
俺の手が止まった。
工房なら、広ければいいわけではないことくらい知っている。道具や材料が遠くなれば、その分だけ歩く。なのに家の話になった途端、俺は「狭いなら広くする」くらいのことしか考えていなかった。
「虎松さん」
「分かっとる。今ちょっと嫌なほど分かった」
*
昼飯を食べながら、俺は朝から書いた紙を見直した。
母ちゃんは別に、無駄に歩いているわけではない。水はそこにあるし、薪はそこに置くしかない。洗濯物は決まったところに干し、子供が泣けば行き、客が来れば出る。今の家で暮らすために必要だから動いている。
「兄上」
いつの間にか宗次郎が隣に来ていた。
「何?」
「増えましたね」
「増えた」
「工房より多くないですか?」
「言うな」
お澪も紙を覗き込んだ。
「まだ聞いてないことありますよ」
「まだあるん?」
「休むところ」
「あ」
宗次郎が昨日書いたやつだ。
「母ちゃん。昼間どこで休んどる?」
「休む?」
「うん」
「適当に座っとるよ」
「どこで?」
「その辺」
「決まってへんの?」
「決めるほど休まんし」
俺と宗次郎が黙った。お澪も黙った。
「何?」
「いや」
「何やの?」
「……新しい家では、座れるところ作ろか」
「今も座れるで」
「そういう意味ちゃう」
「変な子やな」
母ちゃんは笑っていた。
*
昼飯が終わると、お澪は片付けを手伝い始めた。
「それどこです?」
「そっち」
「こっち?」
「もっと奥」
「これですか?」
「それそれ」
何度か往復したところで、お澪が俺を呼んだ。
「虎松さん」
「何?」
「これも書いてください。よく使う物が、結構遠いです」
母ちゃんが振り返った。
「置くとこないんよ」
「新しい家なら?」
「近くに置けたら楽やろな」
「はい、一個増えました」
「お前、楽しんできてない?」
「少し」
「やっぱり?」
「見てると気になるんです」
俺は、よく使う物は使う場所の近く、と書いた。
書いてから気づく。工房で散々やってきたことだった。
「何です?」
「いや。俺、工房でずっと似たようなことやっとったなと思って」
「似たようなこと?」
「使う道具は使う場所の近く。何回も取りに行くなら置き場所変える。人がぶつかるなら通る場所変える」
「家でも同じなんです?」
「たぶん。ただ、使う人が違う」
だから俺が勝手に決めてはいけない。工房なら自分でも使うが、この家を一番長く使うのは母ちゃんたちなのだから。
*
お澪が帰るころには、朝から使っていた紙が文字で埋まっていた。
「疲れた?」
「少し。でも面白かったです」
「新兵衛さんに怒られん?」
「半日って言いましたから大丈夫です」
「何か分かった?」
お澪は少し考えた。
「お志乃さん、ずっと誰かに呼ばれてますね。お小夜ちゃんだったり、吉松くんだったり、職人さんだったり。自分のことだけしてる時間、あんまりなかったです」
「家の形だけで全部どうにかできるとは思わんけどな」
「でも、余計に歩くのが減ったら、その分は楽になるんじゃないですか?」
「せやな」
「あと」
「まだある?」
「虎松さんも結構呼んでました」
「俺?」
「『母ちゃん、あれどこ』って二回」
「……書かんでええ?」
「書いてください」
仕方なく書いた。
自分で使う物の場所は自分で覚える。
「それ、家の設計です?」
「ちゃうな」
「虎松さんの問題ですね」
「はい」
*
夕方、宗次郎と紙を整理した。
今すぐ家の形を決めるのではなく、新しい土地で確認することを先にまとめていく。水を使う場所、薪を置く場所、よく使う物を置く場所、洗濯して干す場所。子供が小さい間、火から離しながら目が届く場所。仕事の客を家の奥へ入れなくて済む場所。工房から戻った人間が汚れを落とす場所。
「あと、母上が休めるところ」
「それ書くん?」
「書きます」
「本人いらん言うてたで」
「本人がいらないと言ったんですか?」
「今も座れるって」
「それは違うでしょう」
「お前、母ちゃんには強いな」
「兄上よりは見てますから」
言い返せなかった。
俺は工房の紙を横に置いた。
材料を入れる場所。鉄や炭を置く場所。加工する場所。組み立てる場所。完成した鉄砲を置く場所。水車、火薬を離して置く場所。それに昨日、お澪と話して増えた、人が出入りする場所。
その横には、今日一日で増えた家の紙がある。
「結局、両方一緒に見なあかんな」
「工房と家ですか?」
「うん。工房だけ都合ええところに置いて、家から水汲みに行くんが大変になったら意味ないやろ」
「逆も困りますね」
「せやな」
工房には工房の都合があり、家には家の都合がある。同じ土地に建てる以上、片方だけ決めてから、余ったところへもう片方を押し込むわけにはいかない。
「もう一回、土地見に行きます?」
「行く。ただ、その前に工房の方ももうちょい詰めたい」
「まだ何かあります?」
「水車」
新しい榊屋に水車を置きたい。それは前から決めていた。
けれど、砥石を回す以外に何をさせるのか、どの仕事を水に任せるのかまでは、まだ決めていない。
「せっかく自分とこの水車作るんや。今の仕事、もう一回見てみるわ」
「また工房で人の仕事を見るんですか?」
「何で嫌そうなん?」
「兄上、見始めると仕事増やすので」
「増やさんよ」
宗次郎が何も言わず俺を見た。
「……たぶん」
「では、私は紙を多めに用意しておきます」
「信用ないなあ」
家については、今日かなり分かった。
次は工房で、水に任せられる仕事を探すことにした。




