百挺を割る
月に百挺。
最初に二十挺を頼まれたときですら、本当に作れるのか不安だった。三十挺は実際に作ったものの、あれは善右衛門屋の取引先で火事が起き、無理を承知で十挺を追加した結果である。それが今度は百挺。現在の榊屋で作っている数の、五倍だった。
「兄上」
「何?」
「止まってます」
「考えとる」
「さっきからずっと、百って書いたところ見てますけど」
「だから考えとるんや」
「何を?」
「……どうしよ」
「考えてないじゃないですか」
宗次郎が冷たい。
俺たちの前には大きめの紙が一枚広げてあり、その真ん中に俺が書いたのは「百挺」の二文字だけだった。そこから先が、朝から一向に増えていない。
「とりあえず工房描きます?」
「いや。それやったらあかん気がする」
「昨日は描くって言ってませんでした?」
「昨日はな」
「一晩で変わったんですか」
「寝たら怖なった」
「そうですか」
「もうちょい心配して」
「百挺を目指すって言ったの、兄上でしょう」
「親父も言うた!」
「私は言ってません」
「お前も一緒に考える言うたやろ!」
「考えるとは言いました」
逃げ道を塞がれた。
新しい工房には、広い材料置場がいる。治具を置く場所も、人が通る場所も、水車も必要だ。火薬を置く蔵は火を使う場所から離したいし、荷車が入って出られる道も欲しい。昨日までは、それを順番に紙へ描けばいいと思っていた。
だが、善右衛門から百挺という数字を出されて話が変わった。今の榊屋をただ広くしたところで、作れる数まで同じように増えるとは思えない。
「宗次郎」
「はい」
「今の工房、五倍広くしたら百挺作れると思う?」
「無理でしょう」
即答だった。
「もうちょい考えてくれてもええやん」
「親父と弥吉さんも五倍になります?」
「ならん」
「佐吉さんは?」
「ならん」
「水車場も五ヶ所になります?」
「ならん」
「では無理でしょう」
「ですよね」
建物だけ五倍にしても意味がない。それどころか、今の工房をそのまま引き延ばしたら、職人同士の距離まで広がって余計に不便になるかもしれない。
「ほな、何が五倍要る?」
「鉄」
「うん」
「炭もです」
「台木も要るな。火縄とか金具も増える」
「人は?」
「分かりません」
「俺も分からん」
俺は紙の端に「材料」「人」「道具」「場所」と書き、少し考えてから「仕事」を付け加えた。
「仕事?」
「百挺を一個の仕事として考えるから分からんのや。今の二十挺、何して作っとる?」
「鉄砲作ってます」
「知っとるわ」
「兄上が聞いたんでしょう」
「そういう意味ちゃう。銃身作って、台木作って、金具作って、最後に合わせる。その中にも仕事がいくつもあるやろ」
「ありますね」
「それを一個ずつ見たらええ」
宗次郎は少し考えると、横に置いていた帳面を引き寄せた。
「今の二十挺から見ます?」
「それがええ」
朝から二文字しかなかった紙に、ようやく文字が増え始めた。
*
最初に捕まえたのは佐吉だった。
「ちょっとええ?」
「はい」
「今やっとる仕事、五倍できる?」
「嫌です」
「そうじゃなくて」
「五倍働けって話かと思いました」
「そんなこと言うたら逃げるやろ」
「逃げます」
正直でよろしい。
佐吉が受け持つ仕事は、最初の二十挺を作った頃よりかなり整理されている。当て金や治具を使えるところが増え、藤吉へ任せられる作業も少しずつ増えていた。
「例えば今、二十挺やっとるやろ」
「はい」
「これが百挺になったら?」
「無理です」
「何が?」
「全部です」
「それじゃ分からん」
「じゃあ……」
佐吉は手元の部品を置き、少し考えた。
「藤吉が五人おっても無理ですよ」
「なんで?」
「俺が見れません」
いきなり一つ出た。
「藤吉一人なら?」
「今くらいなら」
「二人は?」
「仕事によります」
「三人」
「たぶん無理です」
「何で?」
「聞かれるたびに、俺の手が止まるからです」
横で宗次郎が帳面へ何かを書いた。
「何書いた?」
「教える人が要る」
「なるほど」
人を増やせば、その人数だけ作れる量も増える。どこかでそんな単純な考え方をしていたらしい。
だが、新しく入った人間が最初から仕事をできるはずがない。五人増やせば、五人を教える仕事も増える。その面倒を見るのが佐吉一人なら、作る人間を増やしたせいで佐吉の手が動かなくなることさえある。
「佐吉。藤吉が一人でできる仕事、もっと増やせる?」
「増やせると思います」
「どうやったら?」
「今みたいに、見本とか当て金とかあれば。治具も、仕事によってはあった方がええです」
「ほな、それも探そ」
「また増やすんです?」
「置く場所は新しい工房に作る」
「それなら」
そこは即答だった。
*
次は五平だった。
「百挺?」
「うん」
「頑張れ」
「他人事にすんな」
「俺に百挺作れ言うん?」
「言わん。今やっとる仕事で、人増やしたらできるところ知りたい」
五平は少し考え、作業台の上に並んでいた部品をいくつか指した。
「これとか、これは増やせるで」
「これは?」
「慣れたらできる」
「藤吉くらいでも?」
「教えたらな」
「こっちは?」
「それはまだあかん」
「何で?」
「失敗したら面倒や。そっちは弥吉か源兵衛さんに聞け」
聞いていくと、五平の中には思った以上にはっきりした線引きがあった。ほとんど経験がなくても教えられる仕事、少し慣れれば任せられる仕事、ある程度の経験が必要な仕事、そして今のところ腕のある職人へ任せたい仕事。同じ一挺の中でも、必要な腕は一様ではない。
「兄上」
「ん?」
「人を増やせる仕事と、増やしにくい仕事、分けます?」
「それや」
宗次郎が帳面に新しい欄を作った。
*
喜兵衛には、俺から聞く前に言われた。
「水車増やそ」
「まだ何も聞いてへん」
「百挺やろ?」
「誰から聞いた!?」
「藤吉」
「あいつ!」
まだ全員には話していなかったはずなのに、どうやら榊屋の情報伝達だけは恐ろしく速い。
「何かあかんの?」
「いや、どうせ言うからええけど」
「で、水車増やそ」
「何を回す?」
「砥石」
「他は?」
「考えよ」
「先にそこやろ!」
喜兵衛は笑った。
「でも、人がやらんでええ仕事は水にやらせた方がええやろ?」
「それはそう」
「ほな、探したらええ」
単純だが、間違ってはいない。今の水車場では主に研ぎや粗い削りを任せているが、新しい工房なら最初から水車を設備の一つとして組み込める。
「水車一つで足りるかな」
「知らん」
「お前が言い出したんやろ」
「百挺作ったことないもん」
「みんなそれ言うな」
「兄ちゃんもないやろ?」
「ない」
「ほな一緒や」
それもそうだった。
*
甚助に聞いたのは台木のことだった。
「百本?」
「うん」
「木ぃ要るな」
「そこから?」
「当たり前やろ。木なかったら作れんぞ」
「それは分かっとる」
「乾いた木、百本分ちゃんと揃えるん?」
俺は宗次郎を見た。宗次郎も俺を見返したあと、黙って帳面を開いた。
「……善右衛門に聞こか」
「書いときます」
工房の形を考えていたはずなのに、いつの間にか木材の調達まで問題になっている。
「作る方は?」
「人増やせるで。全部は無理やけど、大まかな形作るくらいなら教えられる」
「最後は?」
「合わせがあるからな」
「また最後か」
「そら鉄砲やからな」
最後。
さっきから、そこだけは何度も引っ掛かった。
*
「弥吉」
「嫌や」
「まだ何も言うてへん!」
「百挺やろ?」
「なんでみんな知っとるん!?」
「藤吉」
「あいつ後でしばく」
「で、何?」
「最終合わせ。百挺できる?」
「無理」
即答だった。
「一人で?」
「当たり前やろ」
「親父と二人」
「無理」
「五平入れて」
「仕事による」
「佐吉」
「もっと仕事による」
ここまで聞いてきた中で、やはり一番厄介なのはここだった。三十挺を作ったときも、最後に仕事が溜まったのは源兵衛と弥吉のところだった。
「弥吉の仕事、誰かに渡せん?」
「渡せるで」
「ほんま?」
「全部は無理やけど」
「どこまで?」
弥吉は少し考え、作業台の上から部品を一つ取った。
「例えばこれやったら、ここまでは五平でもできる。こっちも、前でちゃんと合わせてきたら佐吉でもいけるかもしれん」
「じゃあ弥吉は?」
「最後見る」
「それだけ?」
「それだけって言うな。そこであかんかったら直すんや」
「なるほど」
今は一連の作業を弥吉がまとめて受け持っている。二十挺なら、その方が早いのだろう。途中で別の人間へ渡し、また戻す方が面倒だからだ。
「でも百挺なら?」
「今のままは無理やな」
「ほな、前を誰かにやらせる?」
「できるようになればな。ただ、失敗は増えるで」
「そこをどうするか考える」
弥吉が俺の紙を覗いた。
「また当て金作るん?」
「何でも当て金にすんな」
「お前が始めたんやろ」
「そうやけど」
全部を任せる必要はない。弥吉にしかできない仕事が残るなら、その手前までを別の人間ができるようにすればいい。
ようやく考える方向が見えてきた。
*
最後に親父のところへ行った。
「何や」
「親父、五人に増えん?」
「増えたら飯代五倍やぞ」
「そこ?」
「お志乃が怒る」
「母ちゃん五人おったら何とかなる」
「それは俺が嫌や」
「俺も嫌や」
「何の話や」
本当に何の話だ。
「最終合わせや。今、親父と弥吉に集まっとるやろ」
「集まっとるな」
「百挺になったら無理やろ」
「無理やな」
「どうする?」
「知らん」
「考えて!」
「お前が百挺作る工房考えとるんやろ」
「せやから現場の人の意見聞いとるんや!」
「ほな最初からそう言え」
言ったつもりだった。
親父は作業の手を止め、俺が持っている紙を覗いた。
「どこまで他に渡せるか、やろ?」
「うん」
「結構渡せるで」
「ほんま?」
「今は俺と弥吉がやった方が早いから、まとめてやっとるだけの仕事も多い」
親父が挙げたのは、仕上げ前の確認や組む前の準備、部品同士が明らかに合っているかを見る仕事だった。少し経験があれば判断できるものまで、流れの都合で親父や弥吉のところへ集まっているらしい。
一方で、銃身と台木、機構を最後に合わせるところには、まだ職人の感覚がいる。そこまで無理に誰へでも渡せば、結局は直しが増えて余計に遅くなるという。
「これ全部、親父がやらんでええ?」
「誰かちゃんとできるならな」
「佐吉でも?」
「できるようになったら」
「藤吉は?」
「まだ早い」
「五平」
「できる」
「喜兵衛」
「物による」
俺は聞いたものを順番に紙へ書き込んだ。
「じゃあ、親父がやる仕事は減らせるやん」
「減らせるで」
「なんで今まで減らさんかったん?」
「困ってへんかったから」
あっさりした答えだった。
二十挺なら、今のやり方で困らない。まとめて親父や弥吉へ任せた方が早く、わざわざ仕事を細かく分けて人へ教える手間を掛ける理由もなかった。
三十挺で、そこが初めて詰まった。
百挺を目指すなら、放ってはおけない。
*
夕方、俺と宗次郎は朝と同じ場所へ戻った。
紙の真ん中にぽつんと書かれていた「百挺」は、今では周囲を文字に囲まれている。材料、鉄、炭、木、人、教育、治具、水車、確認、最終合わせ、置き場所、道具。工房を描くつもりで始めたのに、建物の線は一本も引いていなかった。
「どう?」
俺が聞くと、宗次郎は帳面を見ながら答えた。
「今のままでは無理ですね」
「そこは分かった」
「でも、全部が無理なわけではありません。鉄と炭は増やせます。木は善右衛門さんに確認が必要です。人を増やせる仕事もあります」
「教える人は要る」
「はい。治具で任せられる仕事も増やせそうですし、水車へ移せる仕事も探せます」
「最後の合わせは?」
「そこが一番難しそうです」
「やっぱりな」
俺は紙の空いているところへ線を引き、その上に五つ書いた。
増やせる。教えられる。道具に任せられる。水に任せられる。腕が要る。
「これで分けよ」
「百挺分を?」
「いや。まず今の二十挺を作る仕事、全部」
宗次郎はしばらく紙を眺めてから頷いた。
「それならできます」
朝は百挺という数字そのものをどうにかしようとしていた。だが、百挺という仕事があるわけではない。一挺を作るための仕事があり、それを何度も繰り返した先に百挺がある。
「兄上」
「何?」
「工房の図、描きます?」
「まだやな」
「まだ?」
「何する場所が要るか分からんのに、建物だけ描いてもしゃあない」
「では次は?」
俺は紙に並べた五つの言葉を指した。
「今の仕事を、全部これで分ける」
「時間かかりますよ」
「せやな」
宗次郎は新しい紙を一枚取り出し、俺の前へ置いた。
そこへ最初に書いたのは、新しい工房の形ではなかった。
一本の鉄砲が出来上がるまでに、榊屋で行われている仕事だった。




