百挺
翌朝、俺と親父は善右衛門屋へ向かった。
昨日の家族会議で、石津川沿いへ工房を移す方針は決まった。正確には土地も建物もまだ何一つ手に入れていないのだが、少なくとも榊家として、条件が整えば移るところまでは腹を決めている。
善右衛門屋へ着くと、善右衛門だけでなく善次郎も待っていた。
「早かったな」
善右衛門が言う。
「そっちが先に土地探しとったんやろ」
「それとこれとは別や」
「どこがや」
「まあ座れ」
どうも朝から調子を狂わされる。
親父は俺より慣れているらしく、さっさと座った。
「で、銭の話やろ」
「そうや」
善右衛門の顔が変わった。
ここからは商売だった。
*
土地については、善右衛門屋が持ち主との話を進める。
榊屋が直接買う方法もあるが、その後に工房を建て、水車設備を整え、道具まで増やすとなれば負担が大きい。そのため土地と建物には善右衛門屋も資金を出し、榊屋側も一定額を負担する形を考えているらしい。
「全部出してくれるんちゃうの?」
「何でや」
「ちょっと期待した」
「帰れ」
「すみません」
親父が横で笑っている。
「割合は?」
親父が聞いた。
善右衛門が数字を出した。
俺は聞き間違えたかと思った。
「もう一回言うて」
「聞こえとったやろ」
「確認」
善右衛門がもう一度言う。
聞き間違えていなかった。
土地の取得から工房の建築、水車設備の導入まで、かなりの部分を善右衛門屋が負担する。細かな金額は建物の規模を決めてからになるが、榊屋だけでは到底一度に用意できない額だった。
「何でそこまで出すん?」
「鉄砲作ってほしいからや」
「それだけ?」
「それだけで商人が銭出すと思うか?」
「思わん」
「ほな聞け」
やっぱり何かある。
善次郎が横で笑っていた。
*
「条件が一つある」
善右衛門が言った。
「怖いな」
「聞いてから言え」
「はい」
「新しい工房で」
善右衛門はそこで一度言葉を切った。
「月に百挺作れるところを目指してほしい」
俺は善右衛門を見た。
次に善次郎を見る。
最後に親父を見る。
「……何て?」
「百挺」
「聞き間違いやなかった」
「聞こえとるやん」
「月?」
「月」
「鉄砲?」
「他に何がある」
「百?」
「百」
「阿呆か!」
善次郎が吹き出した。
「笑うな!」
「俺も最初言うたで」
「何て?」
「親父、阿呆ちゃうかって」
「お前も言うたんか」
「言うた」
「親子で解決しとけや!」
親父だけが黙っている。
「無理やろ」
俺は言った。
「今、二十やぞ。三十であんだけしんどかったんやぞ。それを百って、三十より七十多いんやぞ!」
「計算はできる」
「なら分かるやろ!」
「今すぐ作れとは言うてへん」
善右衛門の声は落ち着いていた。
「来月とも言わん。一年後とも言わん」
「ほな、いつ?」
「決めへん」
「何やそれ」
「目指せ言うとる」
俺は黙った。
*
「百挺作れんかったら銭返せ、とか?」
「言わん」
「いつまでに百挺にせえ、とか?」
「言わん」
「毎月最低何挺、とか?」
「今は決めん」
「なら何が条件なん?」
善次郎が答えた。
「最初から二十挺の工房を作るな、ってことや」
俺は善次郎を見る。
「どういう意味?」
「今のお前らが二十作れるから、二十作るのにちょうどええ工房を建てる。それで三十作りたなったら狭い。五十になったらまた建て直す。それやったら、今と同じやろ」
昨日まで考えていたことと、よく似ている。
今の榊屋は、仕事が増えるたびに空いている場所へ仕事を押し込んできた。その結果、三十挺を作ったところで工房そのものの限界が見えた。
「善右衛門屋がここまで銭出すんやったら」
善次郎が続ける。
「次に狭なったから、また移りますは困る」
「それは分かるけど」
「せやから百」
「飛びすぎやろ」
「五十言うたら、お前五十の工房作るやろ?」
「……作るかもしれん」
「百言うたら?」
「そんな工房、どう作ったらええか分からん」
「それ考えてほしいねん」
善次郎は笑っている。
こいつ。
「最初から百挺分の道具揃えろって話ちゃうで。百挺分の鉄買えとも言わん。建物も無駄にでかくせんでええ」
「なら?」
「増やせるようにしとけ」
その言葉なら、少し分かった。
今すぐ百挺を作れる設備を全部揃えるのではない。仕事が増えた時に、人や作業台を増やせるようにしておく。材料置場や工程を広げる余地を残し、水車を使う仕事が増えた時にも対応できるようにする。必要なら建物そのものを足せるようにしておく。
百挺へ向かうたびに、最初から全部作り直すような工房にはするなということだ。
「努力目標や」
善右衛門が言った。
「約束した日に百挺持ってこいとは言わん。ただ、榊屋がこれから大きゅうなるつもりなら、百を目指してほしい」
「何で百なん?」
「分かりやすいからや」
「そんな理由!?」
「商売の目標なんて、最初はそんなもんや」
「もっと考えた数字かと思ったわ!」
「考えたで」
「何を?」
「五十やと近すぎる。二百やとお前が逃げる」
「百でも逃げたいわ!」
善次郎がまた笑った。
*
俺は親父を見た。
さっきからずっと黙っている。
「親父、何か言うて」
「ええんちゃう」
「何が!?」
「百挺」
「簡単に言うな!」
「今すぐちゃうんやろ?」
「そうやけど」
「ほな目指したらええやん」
「作るの俺らやぞ」
「俺も作るで」
「そういう話ちゃう!」
親父は少し笑った。
「虎松」
「何?」
「三十挺頼まれたとき、何て言うた?」
「……無茶やって」
「作ったな」
「作ったけど」
「最初の二十のときは?」
「それも不安やった」
「作ったな」
「作った」
「ほな百も、今は分からんだけやろ」
「桁が違う」
「せやな」
親父はあっさり認めた。
「せやから新しい工房作るんちゃうんか」
返す言葉がなかった。
「今の榊屋で百作れ言われたら、俺も断る。でも何もない土地に、これから工房作るんやろ」
「うん」
「お前が好きに描くんやろ」
「好きにではないけど」
「なら描いてみたらええ」
親父はそこで少し表情を変えた。
「覚悟決めろ」
今度の声は軽くなかった。
「善右衛門がこれだけ銭出す言うとる。善次郎も売るつもりで動いとる。俺らが作る側で、最初から無理や言うてどうすんねん」
俺は何も置かれていない卓の上を見た。
月に百挺。
今の二十挺の五倍であり、無理をして作った三十挺の三倍以上になる。
単純に人を五倍にすれば済む話ではない。親父や弥吉のような腕を持つ職人が簡単に増えるわけではないし、佐吉や藤吉だって同じ人間を何人も用意できるわけではない。水車も一つで足りるか分からない。
材料や炭、台木を今まで以上に安定して入れなければならず、作ったものを検査し、置いて、運び出す仕組みまで必要になる。
今のやり方をそのまま五倍にしても、どこかで壊れる。
だからこそ、新しい工房を作るのだ。
「……分かった」
顔を上げた。
「百、目指す」
善右衛門が頷いた。
「よし」
「ただし期限なしやぞ」
「言うたやろ」
「途中で勝手に五十挺注文するとかなしやぞ」
「注文はするかもしれん」
「待て!」
「受けるかどうかは榊屋が決めたらええ」
「先に言え!」
「同じことや」
「違う!」
親父が笑った。
善次郎も笑っている。
俺だけ笑えない。
月産百挺。
とんでもない目標を渡された。
*
その後は、細かな話を詰めた。
土地については善右衛門が持ち主との交渉を進める。ただし、榊屋側も銭を出す以上、土地と建物についての権利を曖昧にはしない。善右衛門屋が資金を出したからといって、榊屋が雇われ工房になるわけでもなかった。
鉄砲を善右衛門屋だけへ売るという条件も付かなかった。
「そこ縛らんの?」
俺が聞くと、善右衛門は首を振った。
「縛ったら榊屋が大きならん」
「意外」
「ただし」
「ほら来た」
「うちが持ってきた話は、ちゃんと考えろ」
「考えるだけ?」
「条件合わんなら断ってええ」
「破格やな」
「せやから百挺や」
戻ってきた。
善次郎は今後、建物や設備に掛かる費用を善右衛門屋側でも確認するという。つまり俺が好き放題描いたものを、そのまま全部建ててもらえるわけではない。
「虎松」
「何?」
「描く前に言うとくけど」
「うん」
「銭には限りあるからな」
「分かっとる」
「ほんま?」
「分かっとる!」
「昨日、大きい紙いっぱい買う言うとったらしいやん」
「なんで知っとる!?」
「紙屋から聞いた」
「早すぎるやろ!」
商人の情報網が怖い。
*
昼を過ぎて榊屋へ戻ると、親父はすぐに職人たちを集めた。
弥吉、五平、甚助、喜兵衛、佐吉、藤吉。工房で働く者たちが手を止め、何事かという顔で集まってくる。
俺は少し離れて立った。
これは親父の仕事だ。
「話ある」
親父が言った。
「工房、移すことにした」
昨日まで候補地を見せていたので、大きな驚きはなかった。
最初に口を開いたのは五平だった。
「やっぱあそこ?」
「せや。まだ土地の話まとまってへんから、決まったらやけどな」
「いつ頃?」
「分からん。建てるところからや」
「今の仕事は?」
「続ける」
「移るまでここ?」
「当たり前や」
五平が頷いた。
親父は一度、全員の顔を見た。
「それと、新しい工房について来るかどうかは、お前らで決めてええ」
それまで普段通りだった工房が、静かになった。
*
「場所変わる」
親父は続けた。
「近うなる奴もおるかもしれんし、遠なる奴もおる。家族おる奴もおるし、今の暮らし変えたない奴もおるやろ。せやから、榊屋が移るから付いてこいとは言わん」
誰も口を挟まなかった。
「ここで辞めたい奴がおったら、それでもええ。今まで働いてくれた分、少しやけど銭は渡す。次の働き口も、俺と善右衛門で探す」
俺は親父を見た。
そこまで考えていたとは知らなかった。
「今すぐ決めんでええ。家帰って話してからでええ。何日か考えろ」
弥吉が手を挙げた。
「俺、行きます」
「今決めんでええ言うたやろ」
「考えることないですもん」
「家は?」
「近く探します」
「ほんまに?」
「新しい工房で俺の場所広うしてくれるんやろ?」
弥吉が俺を見る。
「それが理由!?」
「大事やで」
弥吉が笑った。
五平も続いた。
「俺も行くわ」
「お前も今決めんでええ」
「昨日家で話した」
「もう?」
「土地見に行った日にな」
先を越されている。
「嫁さん何て?」
「今より遠なるけど、仕事なくなるよりええやろって」
「仕事なくならんわ」
「知っとる」
五平が笑う。
*
甚助はしばらく腕を組んでいたが、やがて口を開いた。
「俺も行くで」
「ええん?」
「新しい工房、俺も建てるんやろ?」
「手伝ってもらうつもり」
「ほな途中で抜けられんやん」
「職人としては?」
「行くって」
喜兵衛は最初から笑っている。
「水車作るんやろ?」
「まだどうするか決めてへん」
「作るやろ?」
「たぶん」
「ほな行く」
「水車だけ?」
「面白そうやん」
親父が呆れた。
「お前ら、もうちょい生活考えろ」
「源兵衛さんに言われたないです」
「何でや」
「今朝決めてきたんやろ?」
「そうやけど」
「同じやん」
「俺は親方や」
「ずるいわ」
工房に笑いが起きた。
*
佐吉だけは、少し考えていた。
俺も親父も急かさずに待った。
「俺も行きます」
やがて佐吉が言った。
「家族は?」
「今日話します。でも、たぶん大丈夫です」
「無理はせんでええぞ」
「分かってます」
佐吉は少し照れたように頭を掻いた。
「俺、ここで仕事できるようになったんで。他行ったら、また一からでしょう。それなら新しい榊屋でやりたいです」
親父が黙って佐吉を見る。
「そうか」
「はい」
「ほな家でちゃんと話してこい」
「はい」
今度は藤吉が手を挙げた。
「俺も行きます!」
「お前は家で聞いてこい」
「なんで俺だけ!?」
「お前、何も考えず言うとるやろ」
「考えてますよ!」
「何を?」
「新しい工房広いです!」
「それだけやろ!」
「あと川あります!」
「やっぱり何も考えてへん!」
また笑いが起きた。
結局、藤吉にも家へ帰って話をするよう言い聞かせた。
*
それから数日待った。
結果として、誰も辞めなかった。
佐吉も家族の了承を得た。藤吉も無事に話を通してきたらしい。何をどう説明したのか少し不安だったが、本人が嬉しそうなので深く聞かないことにした。
働く場所が遠くなる者については、新しい工房の近くに住める場所も探す。善右衛門屋の伝手も使い、必要なら引っ越しの手助けもすることになった。
親父が用意すると言っていた慰労の銭は、ひとまず使わずに済んだ。
「誰か一人くらい辞める思っとった?」
俺が聞くと、親父は少し考えた。
「思っとったで」
「誰?」
「それは言わん」
「何で?」
「残ったんやからええやろ」
それもそうだった。
ただ、全員が残るからといって、今までと同じ人数でやっていくわけではない。
百挺を目指すなら、いずれ人を増やす必要がある。
そうなれば、今いる職人たちは新しい工房へ移るだけでは済まない。これから入ってくる人間へ、自分たちの仕事を教える側にもなる。
佐吉が藤吉へやってきたことを、今度は工房全体でやらなければならない。
*
「ところで」
夕方、俺は親父に聞いた。
「何や」
「百挺の話、みんなに言わんでええの?」
「今言う必要ある?」
「ない?」
「まだ工房も建ってへんぞ」
「まあな」
「土地決まって、建物決まって、人増やす話になったら言えばええ」
「驚くで」
「お前も驚いたやろ」
「驚いた」
「ほな一緒や」
親父は平然としている。
「親父、ほんまに百挺いけると思っとる?」
「知らん」
「またそれか」
「作ったことないもん、分かるか」
「普通もっと不安にならん?」
「なっとるで」
「見えん」
「見せてどうすんねん」
親父は仕事へ戻りながら言った。
「お前が百挺作れる工房考える。俺らがそこで、どうやったらええ鉄砲作れるか考える。それでええやろ」
「簡単に言うなあ」
「難しく言うても同じや」
それも、この人らしい。
*
翌朝。
俺は紙を広げた。
昨日まで考えていた新工房の案は、いったん脇へ置くことにした。
あれは結局、二十挺や三十挺を作ってきた今の榊屋を、そのまま広くしただけだった。
月に百挺を目指すなら、それでは足りない。
まず、一日にどれだけ仕事を流せば百挺へ届くのかを考えなければならない。それに必要な人数を考え、その中で誰に教えられる仕事と、熟練した職人にしか任せられない仕事を分ける。治具へ任せられるところ、水車で楽にできるところも探す必要がある。
それだけではない。必要になる鉄や炭、台木をどれだけ仕入れ、どこへ置くのか。仕掛かり品がどの順番で工房を動き、完成した鉄砲をどこで検め、どこから運び出すのか。
建物の形を描く前に、決めなければならないことの方が多かった。
「兄上」
宗次郎が横から紙を覗いた。
「何?」
「百って何です?」
しまった。
「……目標」
「何の?」
「鉄砲」
「百挺?」
「うん」
「ひと月に?」
「うん」
宗次郎はしばらく黙った。
「材料、五倍要りますよ」
最初にそこだった。
「知っとる」
「炭も」
「知っとる」
「置くところも」
「だから新しい工房作るんや」
「人も要ります」
「分かっとる」
「帳面も今のままでは無理です」
俺は宗次郎を見た。
「そこ?」
「私の仕事でしょう」
そうだった。
百挺になれば、作る仕組みを変えるだけでは足りない。
入ってくる材料も、途中にある品物も、出来上がった鉄砲も増える。誰が何をしていて、どこまで進んでいるのかを把握する量も、今までとは比べものにならない。
工房を大きくするなら、数える仕組みも一緒に大きくしなければならない。
「宗次郎」
「はい」
「一緒に考える?」
「何をです?」
「百挺作る工房」
宗次郎は少しだけ考えた。
「作る方もやりながらでいいですか?」
「もちろん」
「なら、やります」
俺は紙を宗次郎との間へ動かした。
百挺をどう作るか。
まだ工房の形を描く段階にすら来ていない。
まずは、今の榊屋で一挺の鉄砲が出来上がるまでに、何がどれだけ必要なのか。それを二人で数えるところから始めることにした。




