新しい榊家
翌日、俺は宗次郎を連れて、もう一度川沿いの土地へ向かった。
昨日見た三ヶ所のうち、善右衛門が一番気に入っていた場所である。堺の町から南東へ離れ、津久野の集落からもそう遠くない。石津川の流れに近く、荷を運ぶ道も使えそうで、何より今の榊屋とは比べものにならないほど土地に余裕がある。
昨日の時点で、俺も親父も悪くないと思っていた。
ただ、俺たち二人だけで決める気はなかった。
「どう?」
俺が聞いても、宗次郎は答えなかった。
川も見ないし、古い小屋にも向かわない。道から土地へ入ったところで立ち止まり、そのまま周囲を眺めている。
「宗次郎?」
「荷車、どこまで入れます?」
第一声がそれだった。
「そこ?」
「材料運ぶんでしょう?」
「運ぶ」
「鉄も?」
「うん」
「炭も?」
「うん」
「木も?」
「うん」
「なら大事でしょう」
「おっしゃる通りです」
俺より十二歳の方がしっかりしている。
*
善次郎も来ていた。
俺たちより少し先に着いていたらしく、宗次郎の質問を聞くと道の方を指した。
「昨日、親父にも言われた。荷車入れるなら、あっちからやな」
「雨の日は?」
「それはまだ分からん」
「昨日まで雨降ってませんよね」
「降ってへんな」
「なら見ないと分かりませんね」
「お前の弟、厳しない?」
「最近ずっとこんなんや」
宗次郎は気にせず土地の中へ入っていった。
昨日、俺と親父が工房を建てられそうだと見ていた辺りを歩き、そこから川までの距離を確かめる。次に古い小屋を見て、最後にもう一度道へ戻った。
「どう?」
「広いです」
「それは見たら分かる」
「だからいいんです」
宗次郎が土地を指した。
「材料を置くところと、作ってる途中のものを置くところを分けられます」
「うん」
「出来たものも別にできます」
「うん」
「今の榊屋だと全部近いです」
「近いというか、近くするしかないな」
「それが嫌でした」
「嫌やったん?」
「帳面では分けてるのに、物は同じところにあるでしょう」
なるほど。
俺は今まで、単純に狭いから困ると思っていた。
宗次郎は少し違ったらしい。帳面の中では材料と仕掛かり品、完成品を分けて管理しているのに、現物は場所がないから近くへ置かざるを得ない。札を付ければ区別はできるが、最初から置き場所そのものを分けた方が間違いは減る。
「ここなら分けられるな」
「はい」
宗次郎は少し嬉しそうだった。
「作る場所もあります」
「昨日から作り始めたもんな」
「まだ削っただけです」
「それを作る言うんや」
宗次郎は否定しなかった。
*
その翌日は、喜兵衛を連れていった。
「ええやん」
早かった。
「まだ川しか見てへんぞ」
「水あるやん」
「お前、水車しか見てへんやろ」
「そのために呼んだんちゃうの?」
「そうやけど!」
喜兵衛は川沿いを歩き、水の流れを見ていく。
今使っている水車場より流れが速いか遅いか。どこから水を取れそうか。使った水を戻すならどこがいいか。俺と同じで専門家ではないから断定はしないが、少なくとも見ただけで無理だと分かるような場所ではないらしい。
「ちゃんと水車作っとる人に見てもらわなあかんな」
「俺もそう思う」
「でも、できたらおもろいな」
「やろ?」
「砥石一個だけ?」
「最初はな」
「最初は?」
「……まだ決めてへん」
「今なんか考えたやろ」
「考えてへん」
「顔が虎松やで」
「俺はいつでも虎松や!」
最近、顔で考えていることがばれる。
*
甚助は、川より古い小屋を見た。
柱を触り、屋根を見上げ、壁を叩く。
「どう?」
「使えんことはない」
「工房に?」
「それはやめとけ」
「やっぱり?」
「直すくらいなら新しく建てた方がええ。物置なら使えるかもしれん」
甚助は外へ出ると、土地を歩きながら何度か足を止めた。
「建てるなら、どれくらい欲しいん?」
「何が?」
「工房」
「まだ決めてへん」
「ほな決めろ」
「今から?」
「建てる場所見に来て、建てるもん決めてへんの?」
「だいたいは考えとる」
「だいたい言うてみ」
俺は土地を見ながら説明した。
今の榊屋より広い作業場が欲しい。材料置場と仕掛かり品の置場は分けたい。水車から力を取る場所は工房の端へ寄せ、火を使うところとの位置関係も考える。火薬を置くなら別棟にしたい。
甚助は黙って聞いていた。
「家は?」
「家?」
「住むとこ」
「ああ。それも近くに……」
「近く?」
甚助が俺を見る。
「工房だけこっち来て、源兵衛さんらは今の家から毎日通うん?」
「それは……」
また同じことを言われた。
親父にも昨日言われている。
「やっぱり家も要る?」
「毎日来るんやったらな」
「工房と一緒にする?」
「お前、火薬離したい言うたんちゃうん」
「そうやった」
「工房広げるために引っ越して、また家と工房くっつけて狭うしてどうすんねん」
ぐうの音も出ない。
*
五平は道を見た。
「悪ないな」
「土地は?」
「広い」
「工房は?」
「建ってへん」
「そういう意味ちゃう」
「知らんがな。建ててから聞け」
「今決めるんや!」
五平は笑った。
ただ、今の榊屋からここへ仕事場を移すこと自体には、それほど抵抗がないらしい。
「俺は仕事できるならどこでもええで」
「ほんま?」
「遠すぎたら嫌やけどな」
「ここは?」
「まあ通える。毎日なら近く住んでもええ」
「家族は?」
「そこは話す」
当たり前だった。
工房を移すということは、建物だけを動かす話ではない。そこで働く人間の暮らしまで変わる。
*
佐吉と藤吉を連れていった日は、反応が分かれた。
「広いですね」
佐吉は土地を見て言った。
「広いやろ」
「治具置けますね」
「そこ?」
「今、使わないとき邪魔なんですよ」
「知っとる」
「使うとき出して、終わったら戻してます」
「置く場所作ろか」
「欲しいです」
佐吉の評価は高かった。
一方、藤吉は川を見ている。
「魚おるかな」
「お前何しに来たん?」
「いや、昼に」
「働け」
「休みくらいあるでしょう!」
ある。
「でも広い方がええです」
「なんで?」
「虎松さん邪魔なんで」
「俺?」
「見に来るでしょう。後ろ立たれると狭いんですよ」
「そんな理由?」
「大事です」
どうやら新工房では、俺が立つ場所まで考えた方がいいらしい。
*
最後に弥吉を連れていった。
親父の次に、この場所で難しい仕事を任せることになる人間である。
弥吉は工房を建てられそうな辺りを一通り歩いたあと、川を見た。
「ええんちゃう」
「何が?」
「全部」
「雑やな」
「広い。道ある。水ある。堺からそんな遠ない。何があかんの?」
「まだ水車使えるか分からん」
「使えんかったら?」
「困る」
「工房建てられへんの?」
「いや、建てられる」
「ほなええやん」
親父と似ている。
「それより」
弥吉が俺を見る。
「新しい工房作るなら、俺の場所広くして」
「何するん?」
「お前来ても邪魔ならんくらい」
「藤吉にも言われた!」
「ほな必要やろ」
「俺そんな邪魔?」
「結構」
知らなかった。
*
一週間ほどかけて、工房の人間を順番に連れていった。
全員が手放しで賛成したわけではない。
雨の日に道がどうなるのかは、まだ分からない。水車が本当に使えるかどうかも、専門の者に見てもらう必要がある。働く人間がどこに住むのかも決めなければならないし、土地を借りるのか買うのか、建物にいくら掛かるのかも分からない。
それに、善右衛門屋がどこまで銭を出し、その代わりに何を求めるのかという話も残っている。
決まっていないことの方が多い。
それでも、今の榊屋より仕事をしやすい場所にできそうだという点では、みんなの意見がほぼ一致していた。
職人たちの意見は聞いた。
あとは、榊家の話だった。
*
その晩、家族全員が揃った。
親父と母ちゃん、俺、宗次郎、新三郎、お千代、吉松。お小夜は母ちゃんの膝の上で、これから何の話をするのかも知らずに眠そうな顔をしている。
「で?」
母ちゃんが聞いた。
「何の話?」
親父が俺を見た。
「虎松」
「俺?」
「お前が言え」
「父ちゃんが頭やろ」
「設計すんのお前やろ」
「まだ決まってへん!」
「何を?」
「移るかどうか!」
「その話するんやろ」
母ちゃんが卓を軽く叩いた。
「二人とも」
「はい」
「はい」
父子揃って黙った。
「虎松。話し」
「はい」
俺は最初から説明した。
三十挺を作った時、工房の狭さがはっきり問題になった。材料や仕掛かり品を置く場所が足りず、治具を増やしても置き場に困る。宗次郎も作る側へ入り始めたし、今後さらに人や仕事が増えれば、今の工房ではますます窮屈になる。
そのことを善次郎へ話したところ、善右衛門親子はすでに石津川沿いに候補地を探していた。
「善右衛門さん、そこまでやっとったん?」
母ちゃんが呆れた。
「俺も昨日知った」
「善右衛門らしいな」
親父が笑う。
「笑い事ちゃうで」
「悪い話ちゃうやろ」
「まだ銭の話してへん」
「そこは俺がする」
親父が言った。
こういうところは家長である。
「工房だけ移すん?」
母ちゃんが聞いた。
俺は親父を見る。
親父も俺を見た。
「家も移した方がええと思う」
俺が答えると、子供たちが一斉に反応した。
「引っ越すん?」
新三郎が聞く。
「たぶんな」
「川ある?」
「ある」
「魚おる?」
「藤吉と同じこと言うな」
「誰?」
「こっちの話」
お千代が気にしたのは別のことだった。
「ここ、なくなるん?」
「なくならんと思う」
「どうするん?」
それには答えられなかった。
今の榊屋を売るのか、残すのか。商いの窓口として使う手もあるし、小さな仕事だけこちらへ残すこともできる。
そこまでは、まだ決めていない。
「残したらええんちゃう?」
親父が言った。
「簡単に言うな」
「まだ決めんでええやろ」
「それもそうか」
母ちゃんはしばらく黙っていた。
「私はええよ」
「え?」
「引っ越し」
「いいん?」
「ここ狭いんやろ?」
「工房は」
「最近、家まで狭いで」
俺は黙った。
材料を置いたことがある。紙も増えた。試作品も持ち込み、治具まで一時的に置いたことがある。
「ごめんなさい」
「分かればよろしい」
母ちゃんは笑った。
「子供らも大きなるし、お小夜もそのうち歩き回る。工房も人増えるんやったら、ずっとここに詰め込む方が無理あるやろ」
親父が頷いた。
「ほな移るか」
軽い。
「ちょっと待って」
「何や」
「ほんまに?」
「何が?」
「榊屋やぞ」
「榊屋やな」
「ずっとここでやっとったんやろ」
「やっとったな」
「そんな簡単に決めてええん?」
親父は少し考えた。
「虎松」
「うん」
「榊屋って、この建物なん?」
俺は答えなかった。
「俺がおって、お志乃がおって、お前らがおって、職人がおって、仕事しとる。それが榊屋ちゃうんか」
「……まあ」
「ほな場所変わっても榊屋やろ」
親父はそれだけ言った。
俺にとって榊屋は、この工房でもあった。
六年前、初めて槌の音を聞いたのもここだ。掃除を覚え、鑢を持ち、親父に怒鳴られながら鉄砲を覚えたのもここだった。
けれど親父にとっては、建物より先に人がいるらしい。
それなら、新しい場所へ移っても榊屋は榊屋なのだろう。
「宗次郎は?」
母ちゃんが聞いた。
「私は賛成です」
「早いな」
「材料置く場所欲しいので」
「お前までそれか」
「あと、作る場所も」
少しだけ付け加えた。
「新三郎」
「行きたい」
「理由は?」
「川」
「はい」
「お千代」
「お母ちゃんが行くなら」
「吉松」
「行く!」
「何か分かっとる?」
「分からん!」
「よろしい」
最後に、お小夜を見る。
寝ていた。
「賛成ということで」
「勝手に決めんな」
母ちゃんが笑った。
*
「で」
親父が俺を見た。
「虎松」
「何?」
「描け」
「何を?」
「工房」
俺は固まった。
「俺が?」
「他に誰がおる」
「甚助」
「建てる方や」
「大工」
「頼む前に何建てたいか決めるやろ」
「喜兵衛」
「水車や」
「父ちゃん」
「鉄砲作る」
「宗次郎」
「帳面書きます」
「逃げ道ないやん!」
「最初からないで」
母ちゃんまで笑っている。
親父が続けた。
「お前が一番うるさいんやから、お前が決めろ」
「うるさい?」
「材料ここ置くな。通るとこ塞ぐな。火ぃ使うとこ離せ。水車使いたい。治具置きたい。人増やしたい」
「……言うたな」
「全部入れろ」
「家は?」
母ちゃんが答えた。
「それも虎松」
「なんで!?」
「工房だけええようにして、家狭かったら許さんから」
責任が増えた。
「部屋欲しい!」
新三郎が言った。
「私も」
お千代まで続く。
「俺も!」
「吉松はまだ早い!」
「なんで!」
急に注文が増え始めた。
工房の中だけでも、材料置場、仕掛かり品、治具、火を使う場所、水車から力を取る場所を考えなければならない。外には火薬蔵が要るし、荷車が入って荷を下ろせる場所も必要になる。
さらに職人が働きやすい広さを確保し、その横では家族が暮らす。子供たちは自分の部屋まで欲しいと言い始めた。
今までは、すでにある榊屋の中で仕事をどう動かすかを考えてきた。
今度は、その入れ物から作れという話である。
「虎松」
親父が笑っていた。
「嬉しそうやぞ」
「……そう?」
「顔見たら分かる」
否定しようとして、やめた。
確かに面倒だ。
工房だけならまだしも、家まで含めて何もないところから考えなければならない。甚助や大工にも聞かなければならないし、喜兵衛とは水車の話もある。善右衛門とは銭の話が残っている。
それでも、頭の中ではもう作業台をどこへ置くか考え始めていた。
「明日、紙屋行ってくる」
「何しに?」
母ちゃんが聞いた。
「紙買う」
「どれくらい?」
「いっぱい」
母ちゃんの顔が少し険しくなった。
「虎松」
「はい」
「先に値ぇ聞きや」
「はい」
工房を建てる前に、まず紙代で怒られそうだった。




