川のそば
翌朝、善次郎が来た。
昨日の夕方に「川沿いで工房に使えそうなところを探してみてくれ」と頼んだばかりなので、俺はてっきり別の用事だと思った。ところが善次郎は工房へ入ってくるなり俺を見つけ、妙に機嫌のいい顔で手招きをした。
「虎松、今日ちょっと出られる?」
「何で?」
「場所見に行く」
「何の?」
「工房の」
俺は手にしていた紙から顔を上げた。
「早ない?」
「何が?」
「昨日頼んだやろ」
「頼まれたな」
「一晩で見つけたん?」
「一晩では見つけてへん」
善次郎は平然としている。
「前から見とった」
「……なんで?」
「お前が工房狭い言い出す前から、親父と話しとったから」
「なんで?」
「お前が三十挺作る前から、工房増やしたらもっと売れるなって話しとったから」
「なんで?」
「それしか言えんのか」
言いたくもなる。
俺は三十挺を作って、置き場所が足りないことに気づき、宗次郎まで作る側へ入りたいと言い出して、ようやく工房を広げた方がいいかもしれないと考え始めたところである。
この親子は、その前から土地を見ていたらしい。
「昨日の話、何やったん?」
「お前がその気になるか確認した」
「先に言えや!」
「言うたら嫌がるやろ」
「今も嫌がっとるわ!」
「でも見には行くやろ?」
腹が立つ。
そして、その通りなのがもっと腹立つ。
*
「親父、ちょっと出てくる」
「どこや」
「川沿い」
「何しに?」
「工房に使えそうな場所、善次郎が見つけとったらしい」
親父の手が止まった。
「どこや」
「知らん。今から見る」
「俺も行く」
「なんで?」
「工房やろ」
「まだ工房ちゃうで。土地見るだけや」
「せやから見るんや」
親父は道具を置いた。
「弥吉」
「はい?」
「ちょっと出る」
「はいはい」
「帰るまで頼む」
「分かりました」
早い。
「待って。親父、今仕事中やろ」
「お前もやろ」
「俺は善次郎に呼ばれた」
「俺はお前についていく」
「理由になっとらん」
「工房作るかもしれんのに、鍛冶場知らん奴だけで見てどうすんねん」
正しい。
善次郎が横で笑っている。
「源兵衛さん来るなら助かるわ」
「お前、最初から連れてく気やったやろ」
「できればな」
「俺を餌にするな!」
結局、俺と善次郎と親父の三人で出ることになった。
宗次郎も少し興味がありそうだったが、今日は材料が入る予定になっている。本人もそれを分かっているらしく、ついて行きたいとは言わなかった。
「場所、ちゃんと見てきてください」
「分かっとる」
「水車だけ見て決めないでくださいね」
「分かっとるって」
「置き場所もです」
「分かっとる」
「材料運べるかも」
「お前、来る?」
「材料来ます」
「ですよね」
宗次郎は帳面を開いた。
俺よりよほど仕事を優先する十二歳である。
*
堺の町を離れながら、善次郎に話を聞いた。
候補は三ヶ所あるらしい。
一ヶ所目は、今使っている水車場からそれほど遠くない。川から水を引きやすく、すでに粉挽きや油絞りに水を使っている者もいるため、水車を置く話は比較的進めやすいらしい。ただし土地が狭く、俺たちが欲しがっている広さを取ろうとすると窮屈になる。
二ヶ所目は逆に土地が広い。川沿いにまとまった場所を取れるものの、そこへ続く道が悪かった。雨が続けば荷車を入れるのも面倒になり、鉄や炭を運ぶことを考えると善右衛門が難色を示したという。
「ほな三つ目は?」
「見てから」
「なんで隠すん」
「先に聞いたら、お前頭ん中で工房作るやろ」
「作らんわ」
「作るで」
親父が言った。
「親父まで!」
「お前、昨日から紙に何か描いとったやろ」
「あれはまだ考えとっただけや」
「ほら作っとるやん」
「頭の中だけや!」
「同じや」
味方がいない。
ただ、善次郎の言っていることにも一理あった。
土地を見る前に「ここがいい」と思い込むのは危ない。水車を使いたいからといって水のことだけを見て決めれば、三十挺を作った時と同じことになる。一つの問題を解決したせいで、別のところが詰まるようでは意味がない。
俺は頭の中に浮かび始めていた工房の形を、いったん脇へ置いた。
*
一ヶ所目は、確かに水がよかった。
流れが安定しており、少し上にはすでに水を引いて使っている場所もある。今の水車場で喜兵衛と散々試した経験があるので、どこから水を取って、どこへ戻せばいいのかも以前より想像しやすかった。
「ここなら回せそうやな」
俺が言うと、親父は川ではなく後ろを見ていた。
「狭い」
「やっぱり?」
「今の榊屋よりは広い。でも工房建てて、鉄置いて、炭置いて、木置いたら終わりやろ」
「外に蔵作る?」
「どこに?」
「……ないな」
善次郎が笑った。
「親父も同じこと言うた」
「善右衛門も来たん?」
「前にな」
「ほんまに全部先にやっとるやん」
土地の端まで歩いてみると、余裕がないことがよく分かった。
工房一つだけなら建つ。
だが、俺たちが欲しいのは今の榊屋をそのまま移すためだけの場所ではない。仕事を増やし、人を増やし、水車まで使うつもりなら、建てた時点でいっぱいになるようでは困る。
「なし?」
善次郎が聞いた。
「なしではない」
「でも?」
「移る意味が薄い」
親父が答えた。
俺も同じ意見だった。
*
二ヶ所目は、逆だった。
「広いな」
「広いやろ」
「ええやん」
俺が言うと、善次郎が道を指した。
「帰り雨降ったら同じこと言える?」
ここへ来るまでの道は、確かに悪かった。
今日は晴れているから問題ない。しかし地面には以前の雨でできた深い轍が残っており、場所によってはまだ水が溜まっている。
「荷車しんどいな」
「鉄運ぶんやろ?」
「うん」
「炭も?」
「うん」
「出来た鉄砲も?」
「運ぶ」
「毎月?」
「……やめよか」
「早いな」
「工房は物運ぶんや!」
水車が回るだけなら問題ない。
職人がそこで働くだけなら、まだ何とかなる。
だが、工房には鉄や炭、木などの材料が入ってくる。出来上がった鉄砲は運び出さなければならないし、職人も通う。研ぎものまで続けるなら、預かった道具も行き来する。
道が悪いということは、その全部に手間がかかるということだった。
「善右衛門はここ見て、何て?」
「安かったら考える言うてた」
「商人やなあ」
「その後、道見てやめた」
「ちゃんと商人やなあ」
善右衛門らしい。
*
三ヶ所目へ向かう途中で、親父が聞いた。
「善次郎」
「はい?」
「お前ら、いつから探しとったんや」
「そんな前ちゃいますよ」
「三十挺の前言うたやろ」
「二度目の二十挺出したくらいからです」
俺は足を止めかけた。
「そんな前から?」
「親父がな」
「何て?」
「榊屋、もう一回り大きゅうなるかもしれんって」
初耳だった。
「なんで?」
「二十挺作って、次の二十も受けたやろ。それに研ぎもん始めて、水車まで触り出した」
「それだけで?」
「商人は売れてから品物探しとったら遅いねん」
善次郎が笑う。
「増えそうやったら、増える前に考える」
「それで土地?」
「土地だけやないで。職人の話も少し聞いとる」
「待て」
「まだ何もしてへん」
「絶対するなよ!」
「分かっとるって」
「善右衛門にも言うといて!」
「親父の方が先に動くで」
「余計あかん!」
親父が隣で笑っている。
「ええ商人やん」
「親父、楽しんどるやろ」
「ちょっとな」
俺だけが振り回されている。
*
三ヶ所目は、町から思ったほど離れていなかった。
大きな道から少し外れるものの、荷車が通れないほどではない。二ヶ所目と比べれば地面もしっかりしており、途中に極端な坂もなかった。
そして川がある。
ただし、一ヶ所目とは少し様子が違った。
「ここ?」
「もう少し先」
善次郎について歩くと、川沿いに少し開けた場所があった。その一角には古い小屋が残っている。使われなくなって久しいらしく屋根も傷んでいたが、周囲にはまだかなり余裕がある。
「前、何やったん?」
「染め物に使っとったらしい」
「水使う仕事か」
「そう聞いとる」
俺は川へ近づいて流れを見た。
水量はある。
少なくとも今の水車場と比べて、見ただけで使えないと分かるような場所ではない。
とはいえ、俺に水の専門知識があるわけではない。
「水車いける?」
善次郎が聞く。
「知らん」
「そこは知らんのか」
「川見ただけで分かったら苦労せんわ。喜兵衛連れてこな」
「あと水車作っとる大工にも見てもらうか」
「それがええ」
親父は川をほとんど見ていなかった。
古い小屋の中を覗き、地面を見て、周囲を歩いている。
「親父?」
「ん?」
「どう?」
「悪ない」
珍しく答えが早い。
「どこが?」
「広い。道もさっきよりましや」
「うん」
「家と工房も分けられるな」
俺は親父を見た。
「家?」
「ここ来るなら誰か住むやろ」
「あ」
「毎日全員堺から通うんか?」
そこまで考えていなかった。
「近くに家借りる?」
「それでもええけどな」
親父は空いている場所を指した。
「工房をこっちにして、材料はこっちに置ける。火使うところも離せるし、炭も今より置けるやろ」
俺もその方向を見る。
確かにできる。
今の榊屋では、先に建物があって、その中へ仕事を詰め込んできた。
ここなら逆に、仕事に合わせて建物や置き場所を決められる。
「火薬は?」
口から出た。
親父が俺を見る。
「何が?」
「火薬置くなら、工房から離したい」
数日前に聞いた火事の話が、まだ頭に残っていた。
「火ぃ使うとこと一緒に置きたくない」
「そら離せるなら離した方がええやろ」
「蔵、別にする?」
「作るならな」
周囲には、そのための場所もある。
材料や炭、木材をどこへ置くか。荷をどこで下ろし、職人がどこを通るのか。水車を置くなら、そこからどの仕事へ力を持っていくのか。火薬は火を使う場所から離した方がいい。
今の榊屋では、空いているところへ順番に押し込んできたものを、ここなら最初から分けて考えられる。
考え始めると、急に面白くなってきた。
「虎松」
親父が呼んだ。
「何?」
「顔」
「何が?」
「作っとるやろ」
「何を?」
「工房」
ばれた。
*
善次郎は俺たちを少し離れた場所まで連れていった。
「親父が一番気に入っとるの、ここ」
「善右衛門が?」
「うん。川だけやなくて、道が使える。それと堺から離れすぎてへん」
「値は?」
「まだ決めてへん」
「誰の土地?」
「そこも親父が話できるようにはしとる」
「どこまで進めとるんや!」
「買う話はしてへんで。使うなら話聞きたい、くらいや」
「ほんまやろな」
「ほんまやって」
善次郎が笑う。
「ただ、親父はここなら銭出してもええ言うとる」
俺は善次郎を見た。
「何に?」
「工房」
「善右衛門屋が?」
「全部やないで」
「どういうこと?」
「それは親父と話して」
「今日来てへんやん」
「店空けられへんからな」
当たり前のことを言われた。
「鉄砲増やしてほしいんは、うちも同じや。榊屋だけで全部出せ言うたら時間かかるやろ。せやから、話によってはうちも銭出す」
「その代わり?」
「そこも親父と話せ」
「絶対なんかあるやん」
「商人やぞ」
「知っとるわ」
無料で工房を建ててくれるほど、世の中は優しくない。
ただ、善右衛門屋が金を出す可能性があるのは大きかった。
榊屋だけで土地を用意し、建物を建て、水車を作り、道具まで揃えるとなれば、かなりの銭が要る。それを善右衛門屋と一緒に負担するなら、話は変わってくる。
今までは榊屋が作り、善右衛門屋が売っていた。
そこからもう一歩進んで、作る場所へ商人の金が入る。
思っていたより、大きな話になりそうだった。
*
「どう思う?」
帰る前に、俺は親父へ聞いた。
親父は古い小屋の柱を叩いていた。
「これ使える?」
「直したら何かには使えるんちゃうか。工房にするなら建て直した方が早そうやけどな」
「場所は?」
「ええんちゃう」
「軽いな」
「何が?」
「もっと悩まんの?」
「何を?」
「今の榊屋から工房移すかもしれんのやぞ」
「全部移すん?」
「……まだ決めてへん」
「ほな何で今悩むんや」
親父は柱から手を離した。
「場所が使えるか見に来たんやろ?」
「うん」
「使えそうや」
「うん」
「なら今日はそれでええやん」
単純だった。
でも、たぶん正しい。
今日は土地を買いに来たわけではないし、工房を建てると決めに来たわけでもない。榊屋の外へ仕事を広げられる場所が本当にあるのか、それを確かめに来ただけだ。
そして、一ヶ所は使えそうだった。
「帰ったら宗次郎にも見せたいな」
「連れてきたらええ」
「喜兵衛もいる」
「水車見るならな」
「甚助も」
「建物見るならな」
「善右衛門も」
「銭出すならな」
「増えるな」
「工房作るんやったら、そら増えるやろ」
親父が歩き出した。
俺はもう一度だけ土地を振り返った。
川沿いには、まだ何も建っていない場所が広がっている。
今の榊屋は、すでにある建物の中へ仕事をどう押し込むかを考え続けてきた。だが、新しく工房を作るなら、最初から仕事の流れに合わせて場所を決められる。
材料を運び込み、置いて、加工し、次へ渡し、最後に製品として外へ出す。その間を人が行き来する。火を使う仕事もあれば、水車を使える仕事もある。火薬はそれらから離しておきたい。
建物を先に作って仕事を入れるのではなく、仕事がどう流れるかを考えてから建物を作る。
そこまで考えたところで、また頭の中に工房が建ち始めた。
「虎松」
先を歩いていた親父が振り返った。
「帰るぞ」
「今行く」
「紙出すなよ」
「出してへんわ!」
まだ、出してはいない。
帰ったら描くけど。




