十挺足りない
治具を試し始めてから三日目の朝、俺は佐吉と藤吉の仕事を見ていた。
最初に作った木の治具は、少しだけ形が変わっている。藤吉が材料を入れる時に角をぶつけることが多かったので、甚助が入口を広げた。楔も太すぎたものを削り直し、片手でも扱いやすくしてある。
劇的に仕事が速くなったわけではない。
それでも、藤吉が佐吉へ聞く回数は減った。
同じような治具を別の小物にも一つ試している。こちらは喜兵衛が「使える」と言ったものの、五平には「別になくてもええ」と言われたので、まだ採用するか決めていない。
そんな具合に、三十挺を作るための調査はのんびり進んでいた。
「兄上」
「ん?」
「善右衛門さんです」
「来たん?」
「善次郎さんも」
俺は宗次郎を見た。
「二人?」
「二人です」
珍しい。
善右衛門が来ること自体は珍しくないし、善次郎も最近はよく顔を出す。しかし親子二人で、朝から揃って来る理由が思いつかなかった。
「また何か売りつけに来たんちゃう?」
「買う方では?」
「どっちでも嫌やな」
そう言いながら表へ向かった。
そこで、少し嫌な感じがした。
善右衛門が笑っていない。
善次郎も同じだった。
「源兵衛おるか」
善右衛門が俺を見るなり聞いた。
「おるで」
「呼んでくれ」
「何かあった?」
「ある」
短い。
俺はすぐ親父を呼んだ。
*
親父が来ると、善右衛門は店先ではなく奥で話したいと言った。
俺と親父、善右衛門と善次郎、それに宗次郎も呼んだ。善右衛門が宗次郎を見たが、何も言わなかった。最近は榊屋の仕事を話す時、宗次郎が帳面を持って同席することにも慣れている。
「何があった」
親父が聞いた。
善右衛門は一度、善次郎を見た。
「火事や」
「どこで?」
「鉄砲作らせとった工房の一つ」
俺は顔を上げた。
「堺?」
「いや、少し離れとる。うちが直接頼んどるところやない。間に一人入っとる」
「どれくらい?」
「全焼や」
善右衛門が低い声で答えた。
「火薬にも火ぃ入ったらしい」
誰もすぐには口を開かなかった。
鉄砲を作る工房で火事が起きること自体は、あり得ない話ではない。火を使う。炭を使う。火花も飛ぶ。
そこに火薬まである。
「人は?」
親父が聞いた。
「死んだ者がおる」
善右衛門の答えは短かった。
怪我人も多いらしい。
近くの建物にも火が移り、火薬が爆ぜたことで被害が広がったという。詳しいことはまだ分からず、善右衛門たちも今朝になって知らせを受けたばかりだった。
俺は何も言えなかった。
火薬。
工房。
火。
俺たちの工房にも、全部ある。
今まで当たり前に見ていたものが、急に別の顔を見せた気がした。
「鉄砲は?」
親父が聞いた。
善右衛門が息を吐いた。
「それで来た」
*
「十挺、足らん」
善次郎が言った。
「十?」
「次に出す分や」
善次郎が持ってきた帳面を開いた。
善右衛門屋がまとめている鉄砲は、榊屋だけで作っているわけではない。いくつかの商人や工房から仕入れ、それを行き先ごとにまとめて流している。
今回焼けた工房からも、次の荷に十挺入る予定だった。
「全部焼けたん?」
「出来とった分も、仕掛かりも、ほぼあかんらしい」
「他から回せんの?」
「探しとる」
善右衛門が答えた。
「朝から人も出した。せやけど、今から十挺を同じ時までに揃えられるところは、そう簡単には見つからん」
「納める日、ずらせん?」
「難しい」
善次郎が首を振った。
「もう向こうと話が決まっとる。船も荷も動いとる。鉄砲だけ待つために全部止めたら、別の商いまで狂う」
「十挺だけ後から送るのは?」
「できんことはない。でも人も船も余計に要る。向こうにも話せなあかん。何より今回は、こっちが約束した数や」
善次郎の声は、五日前に増産の話をしていた時とは違った。
売れるから増やしたい。
そんな話ではない。
もう売ったものが、足りないのだ。
「それで榊屋か」
親父が言った。
善右衛門が頷いた。
「今頼んどる二十挺」
「うん」
「そこに十挺、足せんか」
分かっていた。
分かっていたが、実際に言われると重い。
「いつまで?」
俺が聞いた。
「今の二十と一緒や」
「納期そのまま?」
「そのままや」
「十挺増やして?」
「そうや」
「無茶言うなあ!」
「分かっとる!」
善右衛門が珍しく声を上げた。
すぐに口を閉じる。
「……分かっとる。せやから俺も来た」
その一言で、何も言えなくなった。
普段なら善次郎一人で済む話だったのだろう。
善右衛門自身が来たのは、無茶を頼んでいると分かっているからだ。
*
「断ってもええ」
善右衛門が言った。
「その場合は?」
俺が聞く。
「他を探す。それでも足らんなら、向こうへ頭下げる」
「銭は?」
「飛ぶやろな」
「どれくらい?」
「まだ分からん」
「商売なくなる?」
「そこまでは分からん。ただ、信用は落ちる」
善右衛門は淡々と言った。
脅しているわけではない。ただ、断った場合に起きることを並べている。
「榊屋に損させる気はない。追加の十挺は、いつもの値では頼まん。急ぎの分は上乗せする」
「銭の話は後や」
親父が言った。
善右衛門が親父を見る。
「作れるかどうかやろ」
「そうや」
「虎松」
急に振られた。
「俺?」
「お前が今の二十見とるやろ」
「見とるけど」
「どうや」
俺はすぐには答えなかった。
宗次郎を見る。
「今、どこまで?」
宗次郎はすでに帳面を開いていた。
「先の十挺はかなり進んでます。後の十挺も材料は全部入っています。小物は予定より少し早いです」
「鉄、余りどれくらい?」
「今ある分だけなら、追加十挺全部は無理です」
「炭は?」
「そちらはしばらく足ります」
「木は?」
「台木用は確認しないと分かりません」
善右衛門が口を挟んだ。
「材料はこっちで集める」
「いつ?」
「今日からや」
「鉄の種類変わったら困るで」
親父が言った。
「分かっとる。榊屋が普段使っとるところから先に当たる」
「台木もや」
「手配する」
そのまま話が進みそうになった。
「待って」
俺が止めた。
全員が俺を見る。
「材料来たら作れるって話ちゃう」
「分かっとる」
善次郎が言った。
「いや。ちゃんと考える」
俺は工房の方を見た。
今の二十挺。
佐吉。
藤吉。
五平。
喜兵衛。
甚助。
弥吉。
親父。
そのほかの客の仕事。
研ぎもの。
水車。
治具。
頭の中で全部が重なった。
「宗次郎」
「はい」
「今の二十、あとどこが重い?」
「重い?」
「十挺増えたら、最初に困りそうなところ」
宗次郎は帳面へ目を落とした。
「すぐには分かりません」
「やっぱり?」
「でも、今の進み方なら先の十挺と後の十挺で少しずらせます」
「追加の十を三つ目にする?」
「全部同じ日に始めるよりは」
「材料来るのも後になるしな」
頭の中で、三つの十挺が並んだ。
十。
十。
十。
一度に三十挺を抱えるのではなく、少しずつずらして流す。
最初の二十挺で覚えたやり方だ。
「佐吉のところは?」
「今の治具が使える仕事なら、少し余裕出てます」
「藤吉も?」
「前よりは」
「五平さんは?」
「聞かないと分かりません」
「弥吉は?」
宗次郎が黙った。
「そこやな」
「たぶん」
最後の難しい仕事。
合わせ。
判断。
そこは簡単には増やせない。
「親父」
「なんや」
「十挺増えたら、最後しんどいで」
「そらな」
「弥吉と二人でいける?」
「知らん」
「知らん?」
「まだ物もないのに分かるか」
親父が俺を見る。
「やるならやる。無理なら途中で言う」
「途中で言うたら遅いやろ」
「ほな今断るんか?」
それを言われると弱い。
*
工房のみんなを集めた。
善右衛門と善次郎も残った。
火事のことを話すと、最初にざわついたのは鉄砲の数ではなく、人のことだった。
「死人出たん?」
五平が聞いた。
「出たらしい」
親父が答えた。
「火薬か」
「そうや」
甚助が顔をしかめた。
しばらく誰も何も言わなかった。
俺も急かさなかった。
知らない工房だ。
知らない職人たちだ。
それでも同じように鉄を削り、火を使い、鉄砲を作っていた人間が死んだ。
その仕事の穴を、これから俺たちが埋める。
「それで」
親父が口を開いた。
「十挺足らんらしい」
今度は別の意味でざわついた。
「うちに?」
喜兵衛が聞く。
「今の二十に足して」
「三十?」
藤吉が目を丸くした。
「納期は?」
五平が聞いた。
「同じ」
「無茶やろ」
「俺もそう言うた」
「言うただけ?」
「まだ返事してへん」
みんなの顔を見る。
「どう思う?」
最初に答えたのは弥吉だった。
「できるんちゃう?」
「軽いな!」
「十増えるだけやろ」
「二十の半分増えるんやぞ」
「分かっとるわ」
弥吉が笑った。
「最初の二十の時より、今の方が楽やん」
それはそうだった。
五平も腕を組んだ。
「材料来るなら、俺はやるで」
「他の仕事は?」
「遅らせられんのは残す。待ってもらえるやつは相談やな」
善右衛門がすぐに言った。
「そっちの客への話、必要なら俺も手伝う」
「お前が頼んどるんやから手伝え」
「はい」
喜兵衛は少し考えてから言った。
「小物、今の治具もう一個作った方がええんちゃう?」
「やっぱり?」
「三十回使うなら一個だけやと待つやろ」
「甚助」
「作れるで。ただ台木の方も増えるんやろ?」
「あ」
甚助の本来の仕事だ。
「俺に治具ばっかり作らせたら、台木十挺分誰が作るんや」
「……そうなるな」
「木の仕事なら、手ぇ空いた時に誰か寄越せ。簡単なん教える」
「分かった」
もう問題が出た。
だが、同時に答えも出ている。
佐吉が手を挙げた。
「俺んところ、藤吉に任せられる仕事増えてます。今のやり方なら前よりはいけると思います」
「藤吉は?」
「やります」
「無理そうなら言えよ」
「はい」
「聞かんで分からんとこ進めるなよ」
「分かってますって」
前なら少し不安だった返事が、今は普通に聞けた。
治具がある。
当て金がある。
見本がある。
迷えば止めることも覚えている。
「弥吉」
「俺は最後見るんやろ?」
「増える」
「分かっとる」
「十挺分やぞ」
「分かっとるって」
「親父」
「やるなら早よ決めろ」
全員が俺を見る。
なんで俺なのだ。
親父が決めればいい。
そう思ったが、親父は何も言わない。
最初の二十挺から、この役は俺になっていた。
「……やるか」
「おう」
親父が答えた。
それだけだった。
*
そこからは早かった。
善右衛門と善次郎は材料の手配へ戻る。
宗次郎は今ある材料を数え直す。
俺と五平は、追加十挺をどこから流すか決める。
佐吉と藤吉は今進めている仕事を止めず、治具を使える小物を先へ送る。喜兵衛は甚助と相談し、同じ治具をもう一つ作ることにした。
「二個いる?」
俺が聞くと、喜兵衛が呆れた顔をした。
「三十作る言うたん誰や」
「善右衛門」
「受けたん誰や」
「俺ら」
「ほな要るやろ」
正しい。
親父は弥吉と、最後の仕事をどう分けるか話している。
いつもと違う。
誰も俺の指示を待っていない。
やると決まった瞬間、それぞれが自分の持ち場で何が増えるかを考え、必要なことを始めていた。
俺は工房の真ん中で、少しだけ取り残された。
「兄上」
「ん?」
「ぼーっとしないでください」
「してへん」
「札、増やします」
「ああ」
「追加分、今の二十と混ぜたら分からなくなります」
「十挺分、印変える?」
「その方がいいと思います」
「材料来た日も書いとこ」
「はい」
仕事があった。
*
その日の夕方には、追加分の鉄の一部が届いた。
早すぎる。
「善右衛門、どこから持ってきたん?」
「聞くな」
「怖いわ」
「盗んでへん」
「それだけ教えてくれたらええ」
善右衛門は疲れた顔をしていた。
「残りも明日には入れる。台木も新兵衛んとこから話回して探しとる」
「紙屋の?」
「紙屋が木売っとるわけちゃう。知っとる商人がおるんや」
「ああ」
商人の網は、こういう時に強い。
「炭は足りる言うたな?」
善右衛門が宗次郎に聞いた。
「今のところは。ただ、三十挺だけならです。他の仕事が増えたら足りなくなるかもしれません」
「先に少し入れとく」
「置く場所がありません」
「……そこからか」
「そこからです」
善右衛門が俺を見た。
「お前の弟、容赦ないな」
「最近俺にもこんなんや」
「兄上が増やすからです」
「俺だけちゃうやろ!」
善右衛門が久しぶりに少し笑った。
*
追加の十挺が動き始めたのは、その翌日だった。
意外なほど、普通に始まった。
材料が入る。
宗次郎が記録する。
五平が振り分ける。
佐吉と藤吉が治具を使う。
札が増え、仕掛かりも増える。
それでも、まだ誰も走っていない。
「……いけるんちゃう?」
俺が言うと、五平が顔を上げた。
「何が?」
「三十」
「まだ始まっただけやろ」
「分かっとるけど」
「なら言うな」
「夢くらい見させろや」
五平が笑った。
最初の二十挺の時は、始めた直後から分からないことだらけだった。
今は違う。
尺がある。
当て金がある。
札がある。
仕事の分け方がある。
材料を見る宗次郎がいる。
藤吉に渡せる仕事が増えた。
治具も増え始めている。
三十挺になっても、最初の一歩は崩れなかった。
俺は少しだけ安心した。
その時はまだ、増えた十挺がどこへ溜まり始めるのか、見えていなかった。




