好きなんやろうな
善次郎がもう一度榊屋へ顔を出したのは、尾張から来た客を連れてきた翌日の夕方だった。
三度目の二十挺は今日も特に問題なく進んでいた。俺は最後に工房を一回りし、佐吉から小物の進み具合を聞き、五平のところで明日の仕事を確認してから、宗次郎の帳面を覗いた。材料も足りているし、大きく遅れているところもない。最近はこうして一日の終わりを確認するだけで済む日が増えている。
「虎松」
表から声がした。
振り向くと、善次郎が入口に立っていた。昨日と違って清兵衛も河尻もいない。荷も持っていないので、今日は商売で来たようには見えなかった。
「また来たん?」
「来たらあかんのか」
「昨日来たやん」
「昨日は客連れてきただけや」
「今日は?」
「お前に用や」
「何?」
「飯行こうや」
思っていた答えと違った。
「飯?」
「久しぶりに会うたんやぞ。昨日ほとんど仕事の話しかしてへんやん」
「今日も仕事の話しに来たんちゃうん?」
「飯食いながらしたらええ」
「するんやん」
善次郎が笑った。
俺は少し迷って父を見る。父はちょうど仕事を片づけているところで、こちらの話も聞こえていたらしい。
「行ってこいや」
「ええの?」
「今日見るもんは見たやろ」
「見た」
「ほなええ」
父は善次郎を見る。
「こいつ、放っといたら飯食わんで仕事するから、ちゃんと食わせてくれ」
「子供ちゃうわ!」
「十六やろ」
「もう働いとるわ!」
「働いとる子供や」
善次郎が声を上げて笑った。
「分かりました。ちゃんと食わせて返しますわ」
「善次郎まで乗るな!」
宗次郎が帳面を閉じながら、横から口を挟んだ。
「兄上、明日の朝は最初の五挺だけ見てください」
「分かっとる」
「水車場から問い合わせ来たら、善右衛門さんのところへ回します」
「うん」
「帰ってこなくても大丈夫です」
「帰るわ!」
家族の扱いまで雑になってきた。
*
善次郎に連れていかれたのは、堺の商人や職人がよく使う店だった。
大きすぎず、小さすぎず、表には魚や野菜を焼く匂いが流れている。善次郎は慣れているらしく、店の者と二言三言話すだけで奥の席へ通された。
「よう来るん?」
「たまにな。親父とも来る」
「善右衛門と飯食ったら全部商談になりそうやな」
「なるで」
「嫌やなあ」
「俺も嫌や」
親子である。
膳が運ばれてくると、善次郎は酒を頼んだ。
「お前も飲む?」
「俺、十六やぞ」
「堺で何言うとんねん」
「いや、飲めんことはないけど、明日仕事やし」
「真面目やな」
「お前と違って火使うんや」
「俺も銭扱うわ」
「酔うて数え間違えても燃えへんやろ」
「商人は燃えるより怖い目に遭うで」
それはそうかもしれない。
俺は茶を頼んだ。
*
しばらくは、どうでもいい話をした。
善次郎がここ数年どこへ行っていたのか。俺が六年の修業で何をやらされたのか。昔、善右衛門の店で俺が積んであった鉄を勝手に眺めて怒られたことまで覚えていた。
「お前、あのころから変やったもんな」
「何が」
「子供が鉄の束見て何が面白いねん」
「鉄そのもの見てたんちゃうわ」
「何見とったん?」
「同じくらいの大きさに揃っとるなと思って」
「ほら変やん」
「うるさい」
善次郎は笑いながら酒を飲んだ。
昔話が一段落すると、話は自然に昨日の客へ移った。
「河尻さん、何て言うとった?」
「帰り道?」
「うん」
「面白い工房や言うとったで」
「父ちゃんにも言うとったな」
「鉄砲もよう見とったけど、それ以外もよう見とった」
「当て金とか尺?」
「札もな」
善次郎が焼いた魚を箸でほぐした。
「あの人、最初は何見に来たん?」
「鉄砲やろ」
「ほんまに?」
「最初はな」
善次郎は酒を一口飲んだ。
「清兵衛さんから、同じところの鉄砲が続けてまとまって入ってきたって話を聞いた。二十挺ずつ。それで前の二十挺と次の二十挺を見比べても、出来に大きな差がない」
「うん」
「せやから、どんな名人がおるんやろなって話になった」
「父ちゃんおるで」
「おるな」
「弥吉もおる」
「おる」
「なら合うてるやん」
「俺も最初はそう思うた」
善次郎が俺を見る。
「昨日見るまではな」
俺は箸を止めた。
「何が違ったん?」
「名人がおるから二十挺作れるんやと思っとった」
「違うん?」
「違うやろ」
「名人おらんかったら困るで」
「そういう話ちゃう」
善次郎は少し考え、言葉を探すように続けた。
「源兵衛さんが一人で二十挺作っとるわけちゃう。弥吉が全部見とるわけでもない。若い職人も仕事しとるし、お前の弟まで帳面見とる。それでも二十挺が同じように流れとる」
「まあな」
「そこや」
「どこ?」
「そこがおもろいねん」
善次郎が身を乗り出した。
「源兵衛さんみたいな職人、増やせるか?」
「無理やろ」
「弥吉は?」
「無理やな」
「でも佐吉とか藤吉は増やせる」
「人間やから増やすのは無理やぞ」
「そういう意味ちゃうわ!」
今度は俺が笑った。
「分かっとる」
「お前、性格悪うなったな」
「善右衛門に鍛えられた」
「親父のせいにすんな」
*
善次郎はしばらく黙って食べていた。
いつもの軽い顔をしているが、何か考えているらしい。昨日から何度か見た顔だった。
「なあ、虎松」
「ん?」
「お前、何目指しとるん?」
「何が?」
「いや、鍛冶屋としてや」
「鍛冶屋として?」
「源兵衛さん超えたいとか、そういうのないん?」
考えたことがなかったわけではない。
六年修業した。
銃身も触った。
鑢も握った。
火縄金具も作った。
台木の合わせもやった。
父に何度も直され、弥吉の手元を何度も見た。
そのうえで答えは、とっくに出ている。
「無理やろ」
「……は?」
「父ちゃん超えるん?」
「そう」
「無理無理」
「いや、諦めるん早ない?」
「六年横で見とるんやぞ。分かるわ」
善次郎が妙な顔をした。
「お前、悔しないん?」
「そら、もっと上手くなりたいとは思うで。でも父ちゃんはバケモンや。俺があと十年やろうが二十年やろうが、あそこまで行ける気せえへん」
「そんなはっきり言う?」
「ほんまのことやもん」
父の手を思い出す。
鉄の具合を見て、音を聞いて、触っただけで判断する。図にも帳面にも書けないものが、あの人の中には山ほどある。
俺にはない。
前の人生の知識があっても、そこは埋まらない。
「弥吉にも勝てんと思う」
「そこまで?」
「あいつ、手だけなら父ちゃんよりおかしい時あるで」
「ほな、お前何で鍛冶屋やっとるん?」
善次郎が本気で分からない顔をした。
俺もすぐには答えられなかった。
鍛冶屋になったのは、この家に生まれたからだ。前の人生でもものづくりの仕事をしていたのだから、結局また同じようなところへ戻ってきたとも言える。
ただ、それだけではない。
「好きなんやろな」
「何が?」
「もの作るんが」
口にすると、妙にしっくりきた。
「たぶん、どうしようもないくらい好きなんやと思う」
善次郎は黙っている。
「鉄削るんも嫌いやない。図描くんも好きやし、治具考えるんも好きや。水車で砥石回ったときなんか、めちゃくちゃ嬉しかった」
「見たかったわ」
「最初めっちゃ揺れたで」
「あかんやん」
「使えんかった」
「もっとあかんやん」
「でも回った」
思い出すと、今でも少し笑える。
回った。
使えなかった。
だから直した。
「でもな」
俺は箸を置いた。
「俺一人で作れるもんなんか、たかが知れとるやろ」
「……うん」
「鉄砲一挺なら作れる。時間かけたらな。でも二十挺は無理や。水車も俺一人じゃ作れんかった。甚助がおって、喜兵衛がおって、水車直しとる人がおって、ようやく回った」
「せやな」
「だから考える」
「何を?」
「どうしたら、みんなで作れるか」
善次郎の顔から笑いが消えた。
俺は別に大したことを言ったつもりはない。
「父ちゃんみたいな人が十人おったら、俺いらんと思うで」
「そんなわけあるか」
「いや、ほんまに。あんなの十人おったら勝手にええもん作るやろ」
「怖い工房やな」
「入りたないわ」
二人で笑った。
「でも、おらんやろ」
俺は続けた。
「父ちゃんは一人や。弥吉も一人。佐吉には佐吉のできることがあるし、藤吉にはまだできんことがある。俺もできんこといっぱいある。せやから、その人らでどうやったら作れるか考える」
「それが当て金?」
「それも」
「尺も?」
「うん」
「札も?」
「そう」
「水車も?」
「……あれは単に楽したかった」
「そこだけ違うんかい」
「鑢がけしんどいやん」
「知らんわ」
*
善次郎は酒を注ぎ足した。
さっきよりゆっくり飲んでいる。
「変なやつやな、お前」
「よく言われる」
「源兵衛さんみたいになりたいんちゃうんや」
「なれるならなってみたいで。でも無理なもん追いかけて、他にできること捨てるんも違うやろ」
「ほな、何になりたいん?」
「分からん」
「そこは分からんのか」
「別に名前いらんやろ」
「鍛冶屋ではある?」
「鍛冶屋やで」
「商人では?」
「ちゃう」
「善右衛門にだいぶ使われとるで」
「それはあいつが勝手に商売増やすからや!」
「親父や!」
何度目か分からないやり取りをして、また笑った。
善次郎は杯を置いた。
「俺もな」
「ん?」
「親父には勝てんと思う」
「善右衛門に?」
「今はな」
「そらそうやろ」
「お前、もうちょい気遣えや」
「善次郎が聞いたんやろ」
「俺が源兵衛さんの話したとき、お前もっと優しかったやん」
「自分の親父やからな」
「俺の親父にも優しくせえ」
「嫌や」
善次郎が笑った。
ただ、そのあと少しだけ遠くを見るような顔をした。
「親父、化け物やで」
「知っとる」
「堺歩いたら知っとる顔ばっかりや。京行っても知り合いおる。瀬戸内行っても、九州行っても、誰かしら話つながる。鉄欲しい言うたらどこにあるか知っとるし、硝石欲しい言うたら誰に聞けばええか知っとる」
「黒い石まで探してきたしな」
「何やそれ」
「鉛筆の芯」
「あれ親父が見つけたんか」
「そう」
「ほんま何でも探すな、あの人」
善次郎は呆れたように笑った。
「俺があと二十年商売しても、ああなれるか分からん」
「なりたいん?」
俺が聞くと、善次郎は答えなかった。
杯を持ち上げ、少し飲む。
「……分からんな」
「なんやそれ」
「今、お前と話して分からんようになった」
「俺のせい?」
「たぶんな」
「知らんがな」
善次郎はまた笑った。
*
そこから、善次郎は尾張の話を始めた。
最初は清兵衛の話だった。津島ではどんな荷が動き、どこから船が入り、誰が何を欲しがるのか。そこから話は近江へ飛び、京へ戻り、また尾張へ行った。
「同じ鉄でもな、持っていく先で値ぇ違うんや」
「そらそうやろ」
「分かっとらんな。値段だけちゃう。欲しい量も違う。いつ欲しいかも違う。堺では余っとるもんが、向こうでは足りんこともある」
「輸送に銭かかるやろ」
「かかる。せやから帰りの荷が大事やねん。行きだけ銭になる荷積んでも、帰り空やったら損する」
「ほな帰り何積むん?」
「それを考えるんがおもろいんや」
善次郎の話す速さが上がった。
「津島から何を出して、どこで何に替えて、帰りに何持ってくるか。船使うか陸で行くか。早い方がええとは限らん。安い方がええとも限らん。相手がいつ欲しいかで全部変わる」
「へえ」
「この前なんかな――」
そこからさらに話が続いた。
船が遅れた話。
先に別の商人へ買われた話。
逆に相手が急いでいたおかげで高く売れた話。
清兵衛と初めて取引したときの話。
尾張で鉄砲を扱う者が増えていること。
どんな品なら話を聞いてもらいやすいか。
俺は途中から、内容より善次郎の顔を見ていた。
「何や」
「いや」
「さっきから変な顔しとるぞ」
「善次郎、商売好きやな」
「は?」
「めっちゃ楽しそうやで」
「そうか?」
「うん」
善次郎が黙った。
今度は俺が魚を食べる番だった。
「……そうか」
小さく言った声は、さっきまでより妙に素直だった。
*
店を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。
善次郎は酔ってはいないが、来たときより少し機嫌がいい。俺は腹いっぱい食っただけなので普通である。
「もう一軒行く?」
「行かん」
「即答か」
「明日仕事やぞ」
「一杯だけ」
「お前の一杯信用ならんねん」
「十六のくせに生意気やな」
「十六やから帰る言うとるんや」
善次郎が笑った。
並んで歩く。
榊屋へ向かう道の途中で、善次郎がふと足を緩めた。
「なあ、虎松」
「ん?」
「昨日から考えとったこと、聞いてええ?」
「何?」
「お前んとこのやり方」
「うん」
「人増やしたら、その分もっと作れるんか?」
俺はすぐには答えなかった。
「そんな簡単ちゃうで」
「なんで?」
「人増やしたら、まず教えなあかん。道具もいる。場所もいる。材料もいる。仕事増えたら、誰が何やっとるか分からんようになる」
「札増やしたら?」
「札だけ増やしてもあかん」
「帳面は?」
「書く人が死ぬ」
「宗次郎にやらせたら?」
「弟を殺す気か!」
善次郎が笑った。
「でも、できんわけやないんやろ?」
「分からん」
「分からん?」
「やったことないからな」
「二十挺も、最初はやったことなかったやろ」
「……そうやけど」
「水車も?」
「なかった」
「研ぎものの商売も?」
「それは善右衛門や」
「でも仕組み考えたんお前らやろ」
否定はできない。
善次郎が前を向いた。
「ほな、やったら分かるな」
俺は隣の男を見た。
「お前、何考えとる?」
「まだ何も」
「嘘つけ」
「ほんまや」
「その顔、絶対なんか考えとるやろ」
「親父にも同じこと言われるわ」
「善右衛門が言うなら間違いないやん」
「お前、親父嫌いやなかった?」
「商売の勘だけは信用しとる」
「そこだけかい」
善次郎は笑った。
ただ、俺には分かった。
こいつはたぶん、もう何かを探し始めている。
俺が工房で、どうすれば二十挺を作れるか考えたように。
善次郎は商売の中で、何かをもっと大きく動かす方法を考えている。
俺とは見ているものが違う。
でも、考え方は少し似ているのかもしれない。
「善次郎」
「なんや?」
「変なこと思いついても、勝手に仕事取ってくんなよ」
「親父にも言うとけ」
「お前ら親子ほんまに!」
善次郎の笑い声が、夜の通りに響いた。
久しぶりに会った男と飯を食っただけだった。
それでも俺は、榊屋へ戻るまでずっと、さっきの問いが頭から離れなかった。
人を増やしたら、その分もっと作れるのか。
二十挺を作れるようにしたとき、そんなことは考えていなかった。ただ目の前の二十挺を、今いる人間でどう作るかしか見ていなかった。
もし、その先を考えるなら。
増やさなければならないのは、人だけではない。
仕事を分けるやり方も、教える方法も、道具も、場所も、材料の流れも、それをまとめる仕組みも要る。
考え始めると、いくらでも出てくる。
「……面倒やな」
「何が?」
「お前の質問」
「ええ質問やったやろ」
「最悪や」
「考えとるやん」
善次郎が楽しそうに笑った。
腹が立つ。
でも、嫌いではなかった。




