尾張から来る客
善次郎が来る前日、榊屋では朝から掃除が始まった。
父が客に汚い工房を見せるなと言い出したせいだが、考えてみれば鉄粉や木屑が散らばっている場所を片づけるのは悪いことではない。だから俺も素直に手伝ったのだが、途中から父が棚の位置にまで口を出し始めたので話がおかしくなった。
「父ちゃん、それ掃除ちゃうやろ」
「邪魔やねん」
「昨日までそこにあったやん」
「昨日まで邪魔やったんや」
「なんで今まで言わんかったん?」
「今思った」
自由である。
五平と甚助まで巻き込まれ、棚を半間ほど動かすことになった。ついでに喜兵衛が「こっちも動かした方が使いやすい」と言い始め、佐吉まで小物置き場を触り始めたため、昼前には掃除なのか配置替えなのか分からなくなっていた。
「客来るだけやぞ」
「ええ機会やん」
喜兵衛が木箱を抱えながら言う。
「前からここ狭かったんや」
「なら先に言えや」
「別に困るほどちゃうかったし」
そんなものなのかもしれない。
困ってはいないが、変えれば少し良くなる。以前の俺ならそういう場所を探して歩いていたのに、今では職人たちが勝手に見つけて勝手に動かしている。
「兄上」
宗次郎が呼んだ。
「今度は何?」
「仕掛かりの置き場まで動かすなら、札の場所も変えないと見にくいです」
「掃除やったよな、今日」
「そう聞いてます」
「なんで仕事の仕組みまで変わっとるん?」
「父上に聞いてください」
元凶を見ると、本人は動かした棚を眺めて満足そうに頷いていた。
「ええやん」
「父ちゃん」
「なんや」
「もう掃除終わりでええ?」
「そこ掃いたらな」
結局、昼までかかった。
*
翌日、材料を積んだ荷が来たのは昼を少し過ぎたころだった。
先に声を聞いた。
「相変わらず奥まで入りにくい店やな」
聞き覚えがある。
工房から顔を出すと、荷を運ぶ男たちの間に一人、見覚えのある男が立っていた。
昔より少し日に焼けている。
俺より頭一つ近く背が高く、商人らしい身なりをしているが、善右衛門ほど腹は出ていない。年は二十六ほどだったはずだ。口元に浮かんだ笑い方だけは、昔とあまり変わっていない。
「善次郎?」
「久しぶりやな、虎松」
「ほんまに来たんや」
「来る言うたやろ」
「宗次郎から聞いただけや」
「親父から聞いてへんの?」
「昨日も会ったけど何も言わんかった」
「……あの親父」
善次郎が額を押さえた。
そこは親子らしい。
「何年ぶり?」
「まともに話すんは三年……いや、四年くらいか?」
「そんななる?」
「お前、でかくなったな」
「善次郎は老けたな」
「帰るぞ」
「材料置いてから帰れ」
「口もでかくなったな」
笑いながら肩を叩かれた。
昔、善右衛門の店へ連れていかれたときに何度か会ったことがある。俺がまだ父の横で鑢を握っていたころには、善次郎も堺にいることが多かった。
それがここ数年、ほとんど見なくなった。
「尾張おったんやろ?」
「尾張だけちゃうで。近江も行ったし、京にもおった。まあ最近は尾張が多いな」
「親父に使われとるなあ」
「お前もやろ」
「俺は息子や」
「俺も息子や!」
そこへ父が出てきた。
「善次郎か」
「ご無沙汰してます、源兵衛さん」
「大きなったな」
「源兵衛さんまでそれ言います?」
「昔もっと細かったやろ」
「十年前の話ですわ」
父は善次郎の後ろに目を向けた。
そこで俺も気づいた。
連れがいる。
*
一人は商人だった。
年は善次郎より少し上に見える。三十前後だろうか。派手さはないが、着物も履物も旅商いの男としては整っている。
もう一人は武士だった。
こちらは四十に届くかどうか。供を一人連れている。立派すぎる装束ではないが、商人ではないことくらい俺にも分かった。
善次郎が一歩横へ退いた。
「紹介します。こちら、津島の松葉屋清兵衛さん」
「松葉屋の清兵衛です。善次郎さんにはいつも世話になっとります」
清兵衛が頭を下げる。
父も軽く頭を下げた。
「榊屋の源兵衛です」
「息子の虎松です」
「聞いてます」
清兵衛が俺を見る。
何を聞いているのだろう。
嫌な予感がする。
「ほんで、こちらは尾張から来られた――」
「河尻与一郎と申す」
武士は自分から名乗った。
聞いたことのない名前だった。
俺は歴史に詳しいわけではない。戦国時代の有名武将ならいくらか知っているが、家臣の名前まで全部覚えているはずもない。
「織田上総介様に仕えております」
そちらは知っていた。
織田上総介。
織田信長。
頭の中で名前がつながったが、顔には出さないようにした。
「源兵衛です」
父は普通だった。
驚きもしない。
緊張している様子もない。
「鉄砲を作っております」
知ってる。
向こうもそれを見に来たのだろう。
*
材料を下ろしている間、善次郎から事情を聞いた。
「この人ら、なんで来たん?」
「榊屋見に」
「それは分かる。なんで?」
「お前んとこの鉄砲が尾張へ行っとるからや」
「それも知っとる」
「ほな分かるやろ」
「分からんから聞いとるんや!」
善次郎が笑った。
「前の二十挺と、その次の二十挺。向こうで評判悪うなかったんや」
「それは親父から聞いた」
「俺の親父やろ」
「どっちでもええわ」
「よくない」
善次郎は荷から少し離れ、声を落とした。
「同じところから、まとまった数が続けて入るんは目につくんや。それも、前に入ったもんと次に入ったもんで出来が大きく変わらん」
「悪くなってへんってこと?」
「それもある」
善次郎が俺を見る。
「数が揃うて、出来も揃うとる」
その言い方に、少し引っかかった。
「誰が気づいたん?」
「最初は清兵衛さんや。あの人が向こうで荷を扱っとる」
「河尻さんは?」
「清兵衛さんから話を聞いた。鉄砲そのものも見た。それで、一度作っとるところを見たい言う話になった」
「善次郎が連れてきた?」
「そういうことや」
「先に言えや」
「親父に言うたで」
俺たちは同時に黙った。
「……善右衛門」
「……あの親父」
犯人は一人だった。
*
「見せてもらって構わぬか」
河尻が父に聞いた。
「どうぞ」
父の返事は軽かった。
「ええん?」
俺が小声で聞く。
「何がや」
「工房やで」
「見られて困るもんあるんか?」
「ないけど」
「ほなええやろ」
父は本当に気にしていない。
秘伝を盗まれるとか、そういう発想はないのだろうかと思ったが、考えてみれば鉄砲そのものを作れる鍛冶屋など堺には他にもいる。見ただけで全部盗めるなら、俺が六年も修業する必要はなかった。
「火床には近づきすぎん方がええです」
父はそう言って先に入った。
俺たちも続く。
河尻は最初、黙って見ていた。
五平が銃身の仕事をしている。
甚助が台木を削っている。
佐吉と藤吉が小物を進め、喜兵衛は昨日父と作っていた火縄金具を触っている。
特別なものはない。
少なくとも、見た目には。
「今、何挺作っておられる」
河尻が聞いた。
「二十挺です」
父が答える。
「また二十挺か」
「また?」
「先の荷も二十挺だったと聞いている」
「ああ」
父は俺を指した。
「こいつが二十挺ずつやる言うたんです」
「父ちゃん!」
「違うんか?」
「間違ってへんけど!」
河尻が俺を見る。
「なぜ二十挺なのだ」
「最初に頼まれた数が二十やったからです」
「それだけか」
「はい」
期待した答えではなかったらしい。
俺だって別に、二十という数字に特別な意味を持たせたわけではない。
「十ではなく、五十でもなく?」
「最初は二十挺作れるかどうかも分かりませんでしたから」
「作ってみたら作れた、と」
「はい。ただ、最初は大変でした」
河尻が工房を見る。
「今はそうは見えぬな」
「三回目ですから」
俺が答えると、父が横から言った。
「こいつ、最初は一日中走り回っとりました」
「言わんでええやろ!」
「ほんまのことや」
清兵衛が笑った。
善次郎も笑っている。
河尻だけが工房を見たままだった。
*
「これは何だ」
最初に足を止めたのは、当て金だった。
佐吉の手元に置いてある薄い鉄板を河尻が見ている。
「当て金です」
俺が答えた。
「何に使う」
「寸法を見るためです」
「尺があるだろう」
「尺でも測れます。でも同じところを何度も見るなら、こっちの方が早い」
佐吉がちょうど部品を当て金へ当てた。
「ここへ入ったらええんです」
「入らなければ?」
「削ります」
「入りすぎれば?」
「止めます」
「なぜ止める」
「削ったもんは戻せませんから」
河尻が当て金を見る。
次に佐吉を見る。
「この者が考えたのか?」
「ちゃいます」
佐吉が即答した。
「虎松です。でも使っとるんは俺です」
河尻の視線が俺へ戻った。
やめてほしい。
俺は今日、ただ材料を受け取るつもりだったのだ。
「皆が使うのか」
「使うところだけです」
「全部ではない?」
「全部同じにしたら、逆に具合悪いところもありますから」
父が口を挟んだ。
「鉄が違えば、同じ厚みにせん方がええこともあります」
「なるほど」
河尻は当て金を手に取らなかった。
見るだけだった。
そのまま次へ進む。
*
次に止まったのは尺だった。
「同じ尺がいくつもあるな」
「あります」
「同じ物か?」
「同じ長さです」
「同じ尺なのだから当たり前ではないのか」
来た。
俺は少し迷った。
「昔は、そうでもなかったんです」
「どういう意味だ」
説明する。
工房にあった尺を並べたら、微妙に違っていたこと。普段は最後に合わせるから、それでも仕事になっていたこと。だが複数人で同じ寸法を狙うようになると、その差が邪魔になったこと。
河尻は黙って聞いていた。
「それで、一つにした?」
「元になる尺を一つ決めました」
「それがこれか」
「ちゃいます」
父が答えた。
「元はしまってあります」
「なぜだ」
「使ったら減るからです」
俺と父の声が重なった。
河尻が初めて少し笑った。
「なるほど」
「使う尺は元から写します。狂うたと思ったら元と比べる」
「面倒ではないか」
「狂うたまま二十挺作る方が面倒です」
そう答えると、河尻はしばらく尺を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
*
「虎松」
善次郎が小声で呼んだ。
「何?」
「あれ何や」
指した先に、仕掛かりへ付けた札がある。
「札」
「それは見たら分かる」
「何が聞きたいねん」
「何書いとる?」
俺は一枚取って見せた。
「どの組の何か。どこまで終わっとるか。次どこへ行くか」
「全部?」
「全部やない。迷いそうなやつだけ」
「誰が書く?」
「今は宗次郎が多いかな。俺も書くし、佐吉も書く」
「誰でも書いてええん?」
「決めたこと書くなら」
善次郎が札を裏返した。
「これ見たら、お前おらんでも分かるん?」
「ある程度は」
「ある程度?」
「全部は無理や。困ったら聞く」
「誰に?」
「分かる人」
善次郎が笑った。
「ええな、それ」
「何が?」
「いや」
答えない。
親父に似て腹が立つ。
*
河尻は工房を一回りしたあと、完成に近い鉄砲を一本見せてほしいと言った。
父が一挺選び、手渡す。
河尻は慣れた手つきで構え、金具を動かし、銃身を覗いた。鉄砲そのものを見る目は俺よりずっと厳しいのかもしれない。
「先に見た物と似ている」
「同じように作っとりますから」
父が答える。
「同じ職人が?」
「違います」
河尻の手が止まった。
「これは?」
「銃身は五平が主に触っとります。金具は喜兵衛と佐吉。台木は甚助です」
「仕上げは?」
「最後は俺か弥吉が見ます」
「先の二十挺も?」
「似たようなもんです」
河尻は鉄砲をもう一度見た。
「なるほど」
今日何度目だろう。
この人は「なるほど」が多い。
「何がなるほどなんです?」
聞いてしまった。
父が俺を見る。
善次郎が少し笑う。
河尻は怒らなかった。
「もっと腕の立つ鍛冶が二十挺を作っているのだと思っていた」
「腕の立つ鍛冶はおりますよ」
「そういう意味ではない」
河尻は鉄砲を父へ返した。
「一人の名人が作っているのだと思った、ということだ」
俺は工房を見る。
五平がいる。
甚助がいる。
喜兵衛、佐吉、藤吉がいる。
弥吉は奥で別の仕事をしている。
「一人では無理です」
「だろうな」
それだけ言って、河尻はまた工房を見た。
*
客を表へ案内している間に、材料はほとんど下ろし終わっていた。
宗次郎が数を確認している。
「鉄、合うてる?」
「今見てます」
「炭は?」
「そっちは合ってます」
善次郎が近づいてきた。
「こいつが宗次郎か」
「知っとるやろ」
「小さいころしか知らん」
宗次郎が頭を下げる。
「ご無沙汰してます」
「帳面見とるんお前なん?」
「はい」
「材料も?」
「見ます」
「仕事の進みも?」
「兄上と一緒に」
善次郎が俺を見る。
「お前、弟使いすぎちゃうか」
「使ってへんわ!」
「使われてます」
「宗次郎!」
「冗談です」
こいつが冗談を言うようになった。
善次郎が笑ったあと、宗次郎の帳面を覗き込む。
「今、何挺まで進んどる?」
「最初の十挺は組みに入ってます。残りも全部仕事には出てます」
「全部?」
「はい」
「ほな、今日の材料なくても止まらんかった?」
「すぐには」
「何日くらい?」
宗次郎が少し考えた。
「今ある分なら、何日かは。仕事によります」
「へえ」
善次郎の顔が変わった。
笑ってはいる。
ただ、さっきまでとは少し違う。
「虎松」
「なんや」
「お前、こういうの全部考えたん?」
「全部ちゃうで」
「どこまで?」
「最初は俺が多かったけど、今はみんな勝手に変える」
「勝手に?」
「ええ意味でな」
俺は昨日動かした棚を指した。
「あれとか父ちゃんが始めたし、小物の置き場は喜兵衛。佐吉も当て金の場所変えとる」
「止めへんの?」
「悪うなったら戻す。良かったらそのまま」
「誰が決める?」
「困る人らで」
善次郎はしばらく何も言わなかった。
「何?」
「いや」
「さっきからそればっかりやな」
「親父から聞いとった話と、ちょっと違うなと思って」
「何て聞いとったん?」
「虎松が二十挺作れるようにした」
「だいたい合っとるやん」
「ちゃうな」
善次郎は工房の方を見た。
「二十挺作れるん、お前やないやん」
俺は眉を寄せた。
その言葉は、以前父にも似たようなことを言われた。
「榊屋やで」
「せやな」
善次郎が笑った。
「そっちの方がおもろい」
*
帰り際、河尻が父へ頭を下げた。
「突然押しかけて失礼した」
「いえ」
「面白いものを見せてもらった」
「鉄砲ですか」
父が聞く。
河尻は少し考えた。
「鉄砲もだ」
それ以上は言わなかった。
清兵衛も挨拶を済ませ、先に表へ出ていく。
善次郎だけが少し残った。
「虎松」
「なんや」
「また来るわ」
「尾張戻るんちゃうん?」
「戻るで。その前に親父と話ある」
「何の?」
「商売の」
「何の商売?」
「まだ決めてへん」
「決めてから言えや!」
「決めるために話すんやろ」
善右衛門より面倒かもしれない。
善次郎は笑いながら外へ出た。
俺も見送りに出る。
少し先では、河尻が清兵衛と何か話していた。
聞こえない。
聞く必要もないと思った。
今日来たのは、鉄砲を買うためではない。
注文もなかった。
値段の話すらしていない。
ただ、作っているところを見て帰った。
「虎松」
隣に立った父が言った。
「なんや?」
「あの武士、また来るで」
「何で分かるん?」
「知らん」
「知らんのかい」
「でも、ああいう顔して帰る客は大体また来る」
「どんな顔やねん」
「欲しいもん見つけた顔や」
俺には普通の顔にしか見えなかった。
父はそれ以上説明せず、工房へ戻っていく。
俺も続こうとして、ふと振り返った。
河尻たちはもう門の向こうへ消えていた。
これまで榊屋の鉄砲だけが、善右衛門たちの手を通って尾張へ渡っていた。
今日は初めて、向こうから人が来た。
それが何を意味するのか、今の俺にはまだ分からなかった。
ただ、善次郎が最後に見ていたのは鉄砲ではない。
人が動き、物が流れ、二十挺を繰り返して作るようになった榊屋そのものだった。




