水車場の仕事
翌朝、俺は宗次郎と一緒に水車場へ向かった。
善右衛門のところで決めた新しいやり方を試すなら、帳面の上だけ整えても意味がない。実際に荷を受け取り、運び、研ぎ、戻すところまで通してみないと、どこで困るのか分からない。
三度目の二十挺は気になったが、朝一番に工房を見た限りでは問題なく動いていた。最初の五挺に使う材料は揃い、佐吉と藤吉が小物を進め、五平は別口の仕事と重ならないよう手順を変えている。俺が何か言う前に宗次郎が昨日の残りまで確認していたので、父に「自分で始めた二十挺や」と首根っこを掴まれる心配もない。
「父ちゃん、水車場行ってくるで」
「おう」
「研ぎもののやり方、ちょっと変えるから」
「おう」
「……来んの?」
父が手を止めた。
「なんでや」
「いや、前はついてきたやん」
「あれは砥石見に行ったんや」
「今日も砥石あるで」
「もう見た」
「興味なくなった?」
「研ぎものの札見て何がおもろいねん」
それもそうか。
「ほな行ってくる」
「おう。帰ってきたら、昨日の金具見るぞ」
「分かった」
完全に興味を失ったわけではないらしい。むしろ今の父の興味は、俺が作った鉛筆と図を使って火縄金具をいじる方へ移っている。
新しいもの好きというより、面白そうなものへ節操がない。
たぶん俺も人のことは言えない。
*
水車場では、すでに粉挽きの仕事が始まっていた。
水を受けた車輪がゆっくり回り、その力が軸を通して建物の中へ伝わっている。俺たちが使わせてもらっている砥石は、その力を分けてもらう形で動かしているため、当然ながらこちらの都合だけでは回せない。
水車は俺たちのものではない。
これが、榊屋の工房との一番大きな違いだった。
「おはようございます」
声をかけると、水車場の主人がこちらを見た。
「今日は多いな」
主人の視線の先には、宗次郎が抱えた荷がある。榊屋の道具に加えて、善右衛門のところへ集まった研ぎものも持ってきていた。
「十二本です」
宗次郎が答えた。
「全部研ぐんか」
「そのつもりですけど、粉挽きが先で構いません」
「昼まではこっち使うで」
「ほな、その後やな」
俺が言うと、宗次郎が帳面へ何か書いた。
「何書いたん?」
「昼まで使えない、と」
「それ書くん?」
「返す便を決めるなら、いつ使えるか分からないと決められないでしょう」
なるほど。
昨日までなら「水車場へ持っていけば研げる」で済んでいた。だが、いつ返すかを客へ伝えるなら、水車場がいつ使えるのかまで考えないといけない。
機械があっても、使えなければ仕事は進まない。
「これ毎回聞くん?」
「今のところは」
「面倒やな」
「兄上が水車を榊屋へ持って帰れば解決しますよ」
「無茶言うな」
川ごと持って帰らないといけない。
*
砥石が使えるようになるまで、俺たちは荷を広げた。
昨日決めた通り、それぞれの包みには番号を付けてある。善右衛門の店で預かった順に一番、二番と振るのではなく、以前の荷と混ざらないよう番号はそのまま続けることにした。
今日持ってきた他所の道具は十七番から二十一番まで。包みには同じ番号の札を二枚付け、帳面には持ち主、品物、本数、目立つ傷や欠け、それから返す予定の便を書いてある。
「十七番。作兵衛さん。鏨三本」
宗次郎が読む。
「昨日のやつやな」
「十八番。岩松屋さん。鏨二本」
「うん」
「十九番。久兵衛さん。小刀四本」
「うん」
「二十番……」
宗次郎が止まった。
「何?」
「二十番、包丁一本」
「それが?」
「札、一枚しかないです」
「もう!?」
昨日二枚付けると決めたばかりである。
見ると、確かに片方しかない。縄には結んだ跡らしきものが残っているので、運んでいる途中で外れたのだろう。
「二枚にしといてよかったな」
「そうですね」
宗次郎は平然としている。
俺は少し嬉しかった。
問題が起きたのに嬉しいというのも妙な話だが、昨日決めたことが翌日に役立った。こういう瞬間は気持ちがいい。
「兄上」
「なんや」
「喜んでる場合じゃないですよ」
「分かっとるわ」
「一枚外れたなら、付け方が悪いんでしょう」
「……せやな」
問題は消えていなかった。
一枚残っているから誰の物かは分かる。だが、二枚とも同じ付け方をしていたら、次は両方なくなるかもしれない。
「包みの外だけに付けるん、やっぱ危ないな」
「でも中の物には付けられませんよ」
「全部にはな」
俺は荷を見回した。
鏨、小刀、包丁。形も大きさも違う。
鉄砲を作るときは榊屋の中だけで物が動くから、置き場所や一緒に流す組み合わせでも判断できた。だが他人の道具は、最初から最後まで持ち主が違う。同じような鏨が十本並べば、どれが誰の物か見ただけでは分からない。
「混ぜんかったらええんちゃう?」
俺が言った。
「どういうことです?」
「研ぐ前に全部出すから分からんようになるんやろ。一包みずつやる」
「十七番を開けたら、十七番を全部研いで、また包む?」
「そう。それ終わってから十八番」
宗次郎が帳面を見た。
「時間かかりません?」
「多少はな」
まとめて鏨だけ研ぎ、次に刃物を研ぐ方が作業そのものは早いかもしれない。似た仕事をまとめれば段取りも減る。
だが、誰の物か分からなくなれば、その時間以上に面倒なことになる。
「まず間違えん方を取ろう。増えてから考えたらええ」
「分かりました」
宗次郎が書き加えた。
「一包みずつ開ける、ですか?」
「書くん?」
「忘れないように」
「お前ほんま何でも書くな」
「兄上が何でも忘れるからです」
「忘れてへんわ」
「昨日、研ぎものの帳面忘れかけてたでしょう」
覚えていた。
たぶん。
*
昼を過ぎて、ようやく砥石を使えるようになった。
研ぎを任せている男もやって来た。善右衛門の知り合いで、簡単な鍛冶仕事と刃物研ぎをしてきた男だ。名を市兵衛という。
腕の立つ鉄砲鍛冶ではない。
だからこそ、この仕事を任せている。
欠けた刃をどう直すか、どこまで削れば使えるかといった判断まで全部求めるなら、結局は熟練した職人を一人ここへ置かなければならない。それでは榊屋から弥吉を一人減らすのと大して変わらない。
市兵衛に頼むのは、決められた範囲の研ぎだ。
「今日はこれだけ?」
市兵衛が荷を見た。
「他所のが十二本。あと榊屋のが五本」
「増えたなあ」
「まだ増やさんでええからな」
「俺に言うてもしゃあないやろ」
確かにそうだ。
増やすのは善右衛門である。
「それと、今日から一包みずつやる」
「なんで?」
「混ざるから」
「ああ」
市兵衛は一言で納得した。
俺は拍子抜けした。
「嫌ちゃうん?」
「何が?」
「今までまとめて研いどったやろ」
「別に。間違えて怒られる方が嫌や」
現場の意見は強い。
宗次郎が横で頷いていた。
「では十七番からお願いします」
「十七?」
「この札です」
「ああ、これか」
市兵衛は包みを開け、鏨三本を並べた。研ぐ前に宗次郎が数を確かめ、市兵衛も一緒に見る。
「三本」
「三本です」
「毎回これやるん?」
「お願いします」
「面倒やな」
「間違えて怒られるよりは?」
「やるわ」
話が早い。
*
砥石が回り始めた。
市兵衛は鏨を一本取り、俺たちが教えた通り強く押し付けすぎないよう刃先を当てる。砥石の音がわずかに変わり、鉄の粉が落ちた。
最初のころに比べれば随分慣れている。
「そこばっかり使わんようにな」
「分かっとる」
「軸、熱くなったら」
「止める」
「変な揺れ出たら」
「止める」
「砥石欠けたら」
「止める」
「……ちゃんと覚えとるな」
「何回言われた思てんねん」
怒られた。
市兵衛は二本目へ移った。
俺は少し離れて様子を見る。以前なら自分で砥石の横へ張り付き、角度だの押し付け方だのを見ていたが、今はそれをする必要がない。
市兵衛は俺ではない。
喜兵衛でもない。
弥吉でもない。
それでも砥石は回り、鏨は研げている。
俺が欲しかったのは、たぶんこういう状態だった。
「兄上」
「ん?」
「十八番、鏨二本です」
「うん」
「十七番まだ終わってません」
「分かっとる」
「ぼーっとしてたから」
「考えとったんや」
「何を?」
「普通の人が普通に仕事できるん、ええなと思って」
宗次郎が市兵衛を見た。
「市兵衛さんに失礼ですよ」
「そういう意味ちゃうわ!」
聞こえていたらしく、市兵衛が笑った。
「俺、普通でええで。銭もらえたら」
「ほら」
「ほらちゃう!」
*
最初の三包みは問題なく終わった。
四つ目の二十番、包丁一本を開けたところで、市兵衛が手を止めた。
「これ、どうする?」
「何が?」
刃先を見る。
大きく欠けている。
研いで整えるだけなら、かなり削らなければならない。
「これ普通に研いだら、形変わるな」
「せやな」
「やる?」
俺は答えかけて止まった。
以前なら、その場で俺か喜兵衛が判断していたかもしれない。使えるようになるなら削ればいい、と。
だが、これは他人の物だ。
「帳面見て」
宗次郎が二十番を探す。
「包丁一本。刃先に欠けあり」
「それだけ?」
「はい」
「削ってええとは?」
「書いてません」
できない。
「これは止めよ」
俺が言うと、市兵衛は包丁を置いた。
「研がんの?」
「持ち主に聞いてからや。形変わるほど削ってええか分からん」
「分かった」
市兵衛は何の不満もなく包みへ戻した。
宗次郎が帳面へ書き込む。
「二十番、保留」
「理由も書いといて」
「欠け大。大きく削る必要あり。持ち主へ確認」
「それでええ」
昨日までなら、研ぎものは研げば終わりだと思っていた。
違った。
研いでいいかどうかまで、こちらだけでは決められないことがある。
*
夕方、善右衛門の店へ戻ると、お澪がいた。
「どうでした?」
俺たちの顔を見るなり聞いてきた。
「札一枚なくなった」
「もうですか?」
「でももう一枚あったから助かった」
「なら二枚にした意味はありましたね」
宗次郎が帳面を渡す。
「それと、二十番は研いでません」
「どうしてです?」
「欠けが大きい。直そうとしたら、かなり削らなあかん」
お澪が帳面を見る。
「預かったときから欠けてました」
「それは書いてあった。でも、どこまで削ってええか分からん」
「聞いておきます」
「頼む」
お澪はそのまま帳面へ何か書き加えた。
「何書いたん?」
「次から欠けた物を預かるとき、削って形が変わってもいいか聞く、と」
俺は宗次郎を見た。
宗次郎も俺を見る。
「……また増えたな」
「増えましたね」
預かるだけだった仕事に、本数が増え、特徴が増え、番号が増え、返す便が増え、今度は直し方の確認まで増えた。
「面倒やなあ」
俺が漏らすと、お澪が顔を上げた。
「やめます?」
「やめへん」
「なら必要でしょう」
「分かっとるわ」
どうもこの娘と話していると、逃げ道がなくなる。
善右衛門が奥から出てきた。
「どうや、水車」
「動いとる。研ぎもできた」
「ほなええやん」
「よくない。聞くこと増えた」
「何を?」
説明すると、善右衛門はしばらく考えた。
「ほな、預かるときに聞いたらええ」
「今その話したとこや!」
「なら解決やな」
「簡単に言うな!」
「簡単な話やろ」
商人はこれだから腹が立つ。
だが、たぶん善右衛門から見れば本当に簡単なのだ。
物を預かる。
相手の望むことを聞く。
できることとできないことを決める。
約束した通りに返す。
製造の中にいた俺には新しく見えても、商売の側では昔からやっていることなのかもしれない。
「善右衛門」
「なんや」
「こういうの、最初から分かっとった?」
「何が?」
「預かるときに色々決めとかんと揉めるって」
「そらな」
「言えや!」
「聞かれてへん」
どこかで聞いた台詞だった。
*
榊屋へ帰るころには、日が傾いていた。
工房を覗くと、三度目の二十挺は朝より少し先へ進んでいる。俺が一日いなくても、誰かが困って待っていた様子はない。
父は例の火縄金具を喜兵衛と触っていた。
「戻ったか」
「戻った」
「水車どうやった?」
「使えたで」
「そうか」
「研ぎもちゃんとできた」
「そうか」
「他所の道具も」
「そうか」
「興味ないん?」
父が顔を上げた。
「あるで」
「あるんかい」
「使えとるならええやろ。壊れたんか?」
「壊れてへん」
「ほな次壊れたら呼べ」
「なんで壊れる前提やねん」
「お前の作るもん、最初だいたい壊れるやろ」
言い返せなかった。
父は笑いながら、手元の金具を差し出した。
「それより見てみい」
「できたん?」
「形だけな。喜兵衛が作った」
昨日、紙の上にしかなかったものが鉄になっている。
少し単純になった火縄金具を手に取り、動かしてみる。まだ調整は必要だが、考えていた通りなら細かな加工を一つ減らせそうだった。
「ええやん」
「せやろ」
父が嬉しそうだ。
水車場では、俺がいなくても市兵衛が砥石を使えるようになり始めている。榊屋では、俺がいない間に父と喜兵衛が図を見ながら新しい形を作っていた。
全部を俺がやる必要はない。
その代わり、俺が見るものは少しずつ増えている。
「兄上」
後ろで宗次郎が帳面を開いた。
「……何?」
「今日決めたこと、榊屋の帳面にも残しますよ」
「明日でええやろ」
「忘れます」
「忘れへん!」
「札が外れたことと、一包みずつ研ぐことと、欠けた物は預かるときに確認することと、水車が使える時間を見て返す便を決めることです」
「覚えとる!」
「では書けますね」
逃げられなかった。
俺は鉛筆を取った。
紙の端には、父と喜兵衛が描いた火縄金具の線が残っている。その隣へ今日決めたことを書き始めると、同じ一枚の上に、物の形と仕事のやり方が並んだ。
水車で砥石を回したかっただけなのに、いつの間にか人の道具を預かり、番号を付け、仕事を決め、約束した便で返すところまで考えている。
砥石そのものは、もう回った。
次に整えなければならないのは、その周りで動く仕事の方だった。




