誰の鏨や
三度目の二十挺は、驚くほど普通に始まった。
善右衛門から届いた鉄を五平が分け、佐吉が当て金を基準へ当てて確かめ、宗次郎が材料の数と他の仕事との重なりを帳面へ書き込んでいる。弥吉は最初の五挺に必要な仕事を拾いながら別口の急ぎ物を片づけ、藤吉は佐吉に言われた寸法を新しい尺で測っていた。
俺はその間を一通り歩いた。
「佐吉、当て金どう?」
「見ました。こっちは大丈夫です。こないだ減ったやつは分けて置いてます」
「五平さん、鉄足りそう?」
「十挺分はな。残り来るまでに困ることはない」
「弥吉は?」
「忙しい」
「見たら分かる」
「ほな聞くなや」
問題らしい問題がない。
最初の二十挺では、何かを始めるたびに誰かが俺を呼び、俺も誰が何をしているのか気になって工房を歩き回っていた。それが三度目になると、俺が確認する前に必要なことが済んでいる。
少し寂しい。
「暇なんか」
父に言われた。
「暇ちゃうわ」
「さっきから人の仕事見て歩いとるだけやん」
「全体見とんねん」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、手元の鉄砲へ戻った。
腹が立つ。
宗次郎の言った通り、全体を見るのも俺の仕事なのだが、傍から見ると本当に歩いているだけに見えるらしい。
「兄上」
「なんや」
「善右衛門さんのところ行きません?」
「なんで?」
「研ぎものです」
そういえば、そっちがあった。
*
研ぎものの仕事は、始めたときより少し増えていた。
善右衛門のところへ行くと、店先の一角に鏨や刃物を包んだ荷が並んでいる。大した量ではないものの、榊屋の工具だけを研いでいたころとは明らかに違った。
「増えたな」
「増えたで」
善右衛門は嬉しそうだった。
「儲かっとる?」
「ぼちぼちや」
「前もちょっと言うてなかった?」
「ちょっとが集まったら、ぼちぼちになるんや」
「次は?」
「ぼちぼち集まったら、そこそこや」
「商人の言葉、信用ならんな」
善右衛門が笑う。
宗次郎は荷の方へ行き、札を一つずつ確認していた。持ち主の名前、本数、預かった日。最初に決めた通りのやり方で、それぞれの包みに札が付いている。
「ちゃんとやっとるやん」
「当たり前や」
「善右衛門にしては」
「帰れ」
追い出されそうになったところで、宗次郎が一つの包みを持ち上げた。
「これ、札ないですよ」
「何?」
善右衛門が近づく。
包みの中には鏨が三本入っていた。縄でまとめられているが、誰の物かを示す札がない。
「誰の?」
「知らん」
「知らんて」
「俺が受けたんちゃう」
「誰が受けたん?」
善右衛門が店の奥を振り返った。
「お澪!」
女の声が返ってきた。
「はい」
少しして、俺たちと同じくらいの歳の娘が帳面を抱えて出てきた。
髪は後ろでまとめ、派手な着物でもない。商家で働く娘らしい格好で、俺たちを見るより先に善右衛門の手元の包みへ目を向けた。
「何です?」
「これ誰のや」
「札は?」
「ないから聞いとる」
「ないんですか?」
「ない」
娘は包みを受け取り、鏨を一本ずつ見た。
「これは昨日の夕方に来た分でしょうか」
「知らん」
「善右衛門さん、昨日受けた荷、どこへ置きました?」
「そこら辺」
「そこら辺では分かりません」
「細かいな」
「分からなくなってるから聞いてるんです」
善右衛門が黙った。
強い。
宗次郎と同じ種類の強さを感じる。
「帳面見ます」
娘は俺たちに断るでもなく、その場へ座って帳面を開いた。何枚かめくり、指で文字を追っていく。
「昨日は三軒ですね。岩松屋さんから鏨二本、久兵衛さんから刃物四本、作兵衛さんから鏨三本」
「ほな作兵衛や」
俺が言うと、娘が顔を上げた。
「たぶん」
「たぶん?」
「本数は合います。でも、それだけでしょう?」
「三本やで」
「他の人が三本持ってきてないとは限らないでしょう」
「帳面にはないんやろ?」
「帳面に書く前に札が外れたのかもしれません」
俺は鏨を見た。
確かに、その可能性はある。
「でも作兵衛さんの可能性高いやろ」
「高いです」
「ほな」
「たぶんで返すんです?」
言葉に詰まった。
隣で宗次郎が頷いている。
「そうですね」
「お前どっちの味方や」
「数の味方です」
何だそれ。
*
娘は、お澪というらしい。
善右衛門の娘ではなく、取引のある商家の娘で、最近こちらの仕事を手伝いに来ているという。父親同士の付き合いが長く、荷や帳面の扱いを覚えさせるために善右衛門のところへ出されているらしい。
「なんでここなん?」
俺が聞くと、お澪は帳面から顔を上げた。
「家にいたら、家の仕事しか見られませんから」
「へえ」
「何です?」
「いや」
思っていたより、ちゃんと理由がある。
善右衛門が横から口を挟んだ。
「親父がな、よその商いも見てこい言うて寄越したんや。うちなら色んな荷扱っとるからな」
「なるほど」
「口うるさいけど使えるで」
「聞こえてますよ」
「聞こえるように言うた」
お澪は善右衛門を睨んだが、慣れているのかそれ以上は言わなかった。
問題は鏨三本である。
「作兵衛さんに聞けばええんちゃう?」
俺が言う。
「何て聞くんです?」
「鏨三本出しましたか、って」
「出したって言われたら?」
「返す」
「違ったら?」
「……」
「だから聞いてるんです」
面倒くさい娘だ。
だが、言っていることは正しい。
「作兵衛さんの鏨に何か印ないん?」
宗次郎が聞いた。
「前に預かった物があれば分かるかもしれません」
お澪が以前の帳面を探す。
俺は三本の鏨を並べた。
形は似ているが、よく見ると違う。一本は頭がかなり潰れており、もう一本には柄に近いところへ小さな傷がある。最後の一本は比較的新しい。
「前のやつ残ってへんやろ」
「物はないですけど、書いてあれば」
お澪は帳面をめくり、やがて指を止めた。
「作兵衛さん、前にも鏨を二本出してます」
「何か書いてある?」
「一本、頭割れあり。研ぎだけ頼まれたけど、榊屋さんから使わない方がいいと言われた、と」
「ああ」
覚えている。
喜兵衛が見て、これは危ないから研いでも使わない方がいいと返したやつだ。
「その鏨は?」
「持って帰ってます」
「じゃあ分からんな」
俺が言うと、お澪は少し考えた。
「作兵衛さんに聞きます」
「結局聞くんやん」
「聞き方が違います」
「どう違うん?」
「昨日、何を何本預けたか聞きます。こっちから三本とは言いません」
なるほど。
相手から答えさせるのか。
「それで三本言うたら?」
「特徴も聞きます」
「頭潰れとるとか?」
「はい」
俺は鏨を見る。
たった三本の話なのに、随分面倒なことになった。
*
しばらくして確認が取れた。
三本とも作兵衛の物だった。
頭が潰れた一本も、傷のある一本も特徴が一致した。
「ほら!」
俺が言う。
「合っててよかったですね」
「俺最初から作兵衛やと思っとったで」
「思ってただけでしょう」
「結果合っとったやん!」
「次も合うとは限りません」
腹が立つ。
善右衛門が笑っている。
「虎松、お前この娘苦手やろ」
「会って半刻も経ってへんわ!」
「顔に出とる」
「出てへん!」
「出てますよ」
本人まで言うな。
宗次郎だけは何やら感心していた。
「でも、これどうします?」
「何が?」
「次また札が外れたら同じことになります」
その通りだ。
今回は帳面と本人への確認で何とかなった。しかし研ぎものが増えれば、いつも覚えていられるとは限らない。
「札の付け方変える?」
俺は包みを見る。
「縄に結んどるだけやから外れたんかな」
「それもありますけど」
お澪が口を挟む。
「預かったとき、帳面に書くまで誰の物か分からないのが困るんじゃないですか?」
「札付けとるやん」
「その札がなくなったから困ってるんでしょう?」
「……せやな」
「なら、品物の方にも何か残せません?」
俺は鏨を手に取った。
鉄に名前を書くわけにもいかない。彫れば残るが、他人の道具へ勝手に傷を付けるのはまずい。
「縄に印付ける?」
宗次郎が言った。
「持ち主ごとに?」
「それだと人が増えたら印が足りなくなりませんか」
お澪が答える。
「ほな番号」
俺は言ってから、自分で止まった。
三人が俺を見る。
「何です?」
「いや、番号や」
包みに一番、二番、三番と付ける。
帳面にも同じ番号を書く。
持ち主の名前そのものを品物へ付けなくても、帳面を見れば分かる。
「例えばこれが十七番なら、帳面の十七番見たら作兵衛って分かるやろ」
「十七番の札が外れたら?」
お澪が聞く。
「……お前ほんま細かいな!」
「さっき外れたでしょう!」
正しい。
正しいから腹が立つ。
*
「包みだけやなくて、中の物にも付けたら?」
善右衛門が言った。
今まで笑って見ていたくせに、急に入ってきた。
「どうやって?」
「細い縄でも通せんのか」
鏨には穴がない。
「無理やな」
「ほな包みを開けんかったらええ」
「研ぐとき開けるやろ!」
「知らんがな。俺は商人や」
「役に立たんな!」
「お前らが難しくしとるんやろ」
横でお澪が笑った。
初めて笑った気がする。
「何や」
「いえ」
「今笑ったやろ」
「笑ってません」
「絶対笑った」
「それより番号の話でしょう」
誤魔化された。
結局、完璧な方法はその場では決まらなかった。
ただ、預かった時点で通し番号を付け、帳面には番号、持ち主、品物、本数、特徴、預かった日を書くことになった。包みには同じ番号を書いた札を二か所へ付け、一つが外れても分かるようにする。
さらに返す予定の日も書く。
「そこまで要る?」
俺が聞いた。
「いつ返ってくるか聞かれるんです」
お澪が答えた。
「誰に?」
「預けた人に」
「聞かれたん?」
「昨日二人に」
「善右衛門」
「なんや」
「聞いとらんぞ」
「俺も今聞いた」
お澪がため息をついた。
「善右衛門さん、いないこと多いですから」
「忙しいんや」
「だから私が聞かれるんです」
なるほど。
研ぐことしか考えていなかった。
預ける側からすれば、いつ戻るかも同じくらい大事なのだ。
「返す日、決められる?」
俺が聞くと、善右衛門が腕を組んだ。
「荷の都合あるから、きっちりこの日言うんは難しいな」
「なら次の便とか?」
宗次郎が言う。
「それならできるかもしれん」
「急ぎは?」
「前言うた通り、受けん。急ぎまでやり始めたら人走らせなあかん」
少しずつ形になっていく。
研ぎものを預かる。
番号を付ける。
誰の何を何本預かったか書く。
特徴を書く。
次のどの便で返すか決める。
戻ってきたら数を確かめる。
たったそれだけなのだが、最初に鏨を包んで運んでいたころより、随分仕事らしくなった。
*
話が一段落したところで、お澪が俺を見た。
「榊屋さんって、鉄砲屋さんですよね?」
「そうやで」
「何でこんなことまでしてるんです?」
「俺が聞きたい」
本当にそう思う。
鉄砲を作っていたはずなのに、尺を揃え、札を作り、水車を見に行き、鉛筆を作り、砥石を回した結果、今は他人の鏨の返却日を考えている。
「元は榊屋の工具研ぐためやったんや」
「それがどうしてこうなったんです?」
「善右衛門」
「俺か?」
「だいたいお前や」
「砥石作ったんお前やろ」
「商売にしたんお前や!」
「二人ともでしょう」
お澪に切られた。
宗次郎が頷いている。
何となく、この二人を同じ場所へ置いてはいけない気がした。
*
榊屋へ戻ると、父が新しい鉛筆を使っていた。
「……何してんの?」
「見たら分かるやろ」
紙の上には火縄金具らしき形が描かれている。
線は俺より太く、寸法もほとんど入っていないが、今使っている形とは少し違った。
「鉛筆使っとるやん」
「便利やな、これ」
「前、値段聞いて高い言うたやん」
「使ったらあかんとは言うてへん」
「しかも何か考えとるやん」
「ここ、もうちょい作りやすうならんかと思ってな」
俺は紙を覗き込んだ。
どうやら火縄を支える金具の一部を変え、細かな合わせを減らせないか考えているらしい。
「父ちゃん」
「なんや」
「新しいもん好きやろ」
「嫌いやないで」
「認めるんかい!」
父は当たり前のような顔をした。
「使えるもん嫌う理由ないやろ」
今まで何だったのだ。
俺が呆れていると、父は鉛筆をこちらへ向けた。
「それより虎松、これ見てみい」
「どれ?」
「ここや。この曲がり、もうちょい単純にしたら喜兵衛でも作りやすいやろ」
俺は紙を受け取った。
確かに面白い。
少し線を消し、別の形を描いてみる。父が横から口を出し、俺が描き直す。そこへ喜兵衛まで呼ばれ、三人で紙を囲むことになった。
鉛筆を欲しがったのは俺だった。
だが、もう俺だけの道具ではなくなっている。
「兄上」
後ろから宗次郎が呼んだ。
「なんや」
「研ぎものの帳面、どうします?」
「今!?」
「忘れないうちに決めた方がいいでしょう」
「今これやっとるやん!」
「全体を見るのが兄上の仕事では?」
父が笑った。
「忙しいな、お前」
「誰のせいや!」
工房では三度目の二十挺が進み、父と喜兵衛は新しい金具を考えている。工房の外では水車が砥石を回し、善右衛門のところには他人の工具が集まり始め、その帳面には今までなかった番号と返す便まで書かれることになった。
一つ便利になると、次の面倒が見える。
どうやら、それにも少し慣れてきたらしい。




