商人の目
当て金を作ってから三日経ったが、榊屋に革命は起きなかった。
「入った!」
「ほな持ってこい」
「はい!」
佐吉が嬉しそうに金具を持っていく。弥吉はそれを受け取り、指で撫で、裏返し、穴を見ると、すぐに首を振った。
「ここ、まだちょい厚い」
「えっ」
「ここや」
「ああ……」
「当て金は?」
「入りました」
「そら幅しか見てへんからな」
「……はい」
佐吉の肩が落ちた。俺は少し離れたところから、その様子を眺めていた。革命どころか、普通に駄目出しされている。当たり前だった。当て金で分かるのは、当て金で見ているところだけだ。幅を見る道具なら幅しか分からない。穴の位置も、厚みも、表面の仕上がりも教えてくれない。
前世なら当然の話だ。測定具には測定具ごとの役割がある。ノギス一本で何でも保証できるわけではない。なのに昨日までは、鉄片一枚作っただけで少し浮かれていた。
「若旦那」
「ん?」
「これ、あかんのです?」
佐吉が不安そうに聞く。
「俺に聞かれても分からん」
「作ったん若旦那やないですか」
「当て金作ったんは弥吉や」
「考えたんは若旦那やろ」
「でも鉄砲作れるんは弥吉や」
「なんやそれ」
弥吉が笑った。
「ようやく分かってきたやん」
「うるさいわ」
少なくとも、当て金は役に立っていた。佐吉が弥吉のところへ来る回数は減った。全部ではない。それでも「幅が合っているか」だけなら、自分で判断できるようになった。
たった一つ。でも、たった一つ減った。今の俺には、それで十分だった。
◇
「毎度」
昼を少し過ぎた頃、工房の入口から声がした。源兵衛が顔を上げると、入ってきた男を見て、何人かの職人も軽く頭を下げた。
年は四十を少し過ぎたくらいだろうか。小綺麗な小袖に羽織。職人とは明らかに違う身なりだが、妙に気取ったところはない。後ろから二人の男が荷を運び込んでくる。
「鉄、持ってきたで」
「遅い」
「挨拶より先に文句かいな」
「頼んだん何日前や」
「海が俺の言うこと聞いたら昨日持ってきとるわ」
「次から海も仕込んどけ」
「無茶言うな」
どうやら親父とは長い付き合いらしい。
男は善右衛門。榊屋に鉄や炭を入れている商人の一人で、ほかにも木材や油、硝石なんかまで扱っているらしい。俺の中に残っている虎松の記憶にも、何度か顔があった。
「虎松、大きなったな」
「この前も会うたやろ」
「子供は三日で大きなる」
「ならへんわ」
「口は大きなったな」
善右衛門は笑いながら俺の頭を乱暴に撫で、そのまま工房へ入っていった。そして職人の仕事を眺め始める。
俺は少し意外に思った。鉄砲を見ているのではない。鉄を見る。炭を見る。床に積まれた材料を見る。作業途中の品を見る。職人を見る。どこか前世の購買担当に似ていた。完成品だけ見ている人間の目ではない。
「親方」
荷を片付けていた佐吉が弥吉を呼んだ。
「これ、どうです?」
「当てたか?」
「はい」
「ほな見せて」
善右衛門が足を止めた。
「なんや、それ」
まずい。なぜかそう思った。
弥吉が答える。
「若旦那が考えたんですわ」
「弥吉」
「なんや」
「余計なこと言わんでええ」
「なんでや。ほんまやろ」
善右衛門の視線が俺へ移った。
「何考えたんや」
「大したもんちゃうで」
「ほう」
「ほんまに」
「ほな見せてみ」
商人という生き物は、「大したものではない」と言われると余計に見たくなるらしい。逃げても仕方ないので、俺は作業台から当て金を取った。
「これ」
「鉄の切れ端やな」
「まあ」
「これで何する」
佐吉が加工していた金具を借り、切れ込みへ入れる。
「この幅になったか見る」
「それだけ?」
「それだけ」
善右衛門が受け取ると、ひっくり返し、横から見て、指で切れ込みをなぞった。
「これと同じになるんか」
「幅だけな」
「誰が作っても?」
「……そこまでは言えん」
「なんや」
少し残念そうな顔をされた。
「佐吉でも、弥吉でも、ここに入るように削ったら幅はだいたい同じになる。ただ、それだけや」
「ほう」
善右衛門が佐吉を見る。
「お前、これないと作れんのか」
「作れんことはないです」
佐吉が困ったように答えた。
「でも、弥吉さんに何回も見てもらわんと……」
「これがあったら?」
「幅は自分で分かります」
「なるほどな」
善右衛門がもう一度、当て金を見る。何がそんなに面白いのか。ただの鉄片なのに。
「虎松」
「ん?」
「なんでこんなん作った」
「佐吉が何回も弥吉呼んどったから」
「それだけか」
「それだけ」
「同じ物作りたかったんちゃうんか?」
ぎくりとした。
「……なんで知っとるん」
「源兵衛から聞いた」
親父を見る。
「言うたん?」
「面白かったからな」
「何がおもろいねん」
「お前が弥吉に『なんで』言われ続けとった話」
最悪だ。家庭内ならまだしも、取引先にまで共有されている。
「で」
善右衛門が笑う。
「なんで同じにしたいんや?」
またそれか。俺は少し考えた。数日前なら、「同じ方がええから」と答えていた。今は、それでは通じないと分かっている。
「……同じやったら、迷わんやろ」
「誰が」
「作る方も。買う方も」
口に出してから、少し違う気がした。でも善右衛門の顔から笑みが消えた。
「買う方?」
「うん」
何か引っかかったらしい。
「例えばやで」
俺は近くにあった二つの金具を取った。
「今日これ買うて、ええ物やったとするやん」
「うん」
「半年後に、もう一個欲しい言うたら」
「作ったるわ」
弥吉が言う。
「お前には聞いてへん」
「なんでや」
「話進まへんから」
善右衛門が笑った。
「続け」
「半年後に同じ物頼んで、全然違う物来たら困るやろ」
「そら困る」
「なら、いつ頼んでも同じくらいの物が来るって、値打ちちゃうんかなって」
善右衛門が黙った。俺は少し不安になった。
「……なんか変?」
「いや」
善右衛門は当て金を作業台へ置いた。
「お前、妙なこと言うな」
「よく言われる」
「悪い意味ちゃう」
善右衛門は少し考えてから、荷の方を指した。
「虎松。あの鉄な」
「うん」
「前に持ってきたんと、今日のん。同じやと思うか?」
「知らん」
「同じやない」
善右衛門が即答した。
「同じ山から出た鉄でも違う。同じところで買うても違う。ええ時もあれば、悪い時もある」
「やっぱりそうなんや」
「せやから親父さんらは、来た鉄見て使い方変える」
源兵衛が何も言わず仕事を続けている。聞いてはいるらしい。
「商いも似たようなもんや」
善右衛門が続けた。
「前のが良かったから、またくれ言われる」
「うん」
「持っていく」
「うん」
「違う言われる」
「あるんや」
「あるどころか、しょっちゅうや」
善右衛門が苦笑した。
「油でも布でも鉄でもな。こっちは同じつもりでも、向こうは違う言う」
「それ困らん?」
「困るで」
「なら」
俺は当て金を指した。
「こういうので、同じか確かめたらええやん」
「何でもこれで測れるんか?」
「無理」
「無理なんかい」
「物によるやろ」
善右衛門が笑った。
「でも」
俺は続けた。
「何が違うか分かったら、少なくとも『前と同じ』に近づけることはできるんちゃう?」
善右衛門の笑いが消えた。
「前と同じ、か」
「うん」
「……なるほどな」
その声は小さかった。
俺は少し驚いた。弥吉とは違う。源兵衛とも違う。この人は、「同じ」という言葉を否定しなかった。
「虎松」
「ん?」
「お前の言う同じいうんは、全部同じ形にすることか?」
「最初はそう思ってた」
「今は?」
「分からん」
正直に答えた。
「でも、たぶん……」
少し考える。
「同じくらい、なんちゃうかな」
「同じくらい?」
「うん。全部まったく同じなんて無理やろ」
前世だってそうだった。図面寸法ぴったりゼロ誤差なんて存在しない。許される範囲がある。
「ここからここまでなら、同じ物として扱う。そんな感じ」
「ふうん」
「なんて言えばええんやろな」
品質。規格。公差。標準。頭の中には言葉がいくつも浮かぶ。でも、そのまま言っても意味がない。
「いつ買うても、同じくらいええ物が来る」
俺はそう言った。
「それでええんちゃうかな」
善右衛門が黙った。長かった。やがて、ぽつりと言った。
「それは、売りやすいな」
「……そこ?」
「そこやろ」
「もっとこう、ええ物が作れるとか」
「ええ物なんは当たり前や」
「うわ、商人」
「悪い物売って次も買うてもらえるか」
「そらそうやけど」
善右衛門が当て金を指で弾いた。
「これで同じ物が作れる。それだけやったら、俺にはよう分からん」
「うん」
「けどな」
指が止まる。
「前に買うた榊屋の鉄砲が良かった。もう十挺くれ」
俺は善右衛門を見る。
「その十挺が、全部前と同じくらい良かったら?」
「……買う方は安心する」
「せや」
善右衛門が笑った。
「それは銭になる」
やっぱりそこだった。
◇
「でもな」
善右衛門は続けた。
「同じにするために倍かかるなら、いらん」
「え」
「三倍手間かかるなら、もっといらん」
「いや、それは」
「ええ物を、いつでも同じくらいに作れて、今までより高うならん」
「待って」
「できるか?」
「要求増えとるやん」
「商売やからな」
「無茶言うな」
「それを考えるんがお前ちゃうんか」
「いつから俺の仕事になったん」
「今」
「勝手に決めんな!」
善右衛門が大笑いした。源兵衛がこちらを見ている。
「善右衛門」
「なんや」
「あんまり煽るな」
「ええやないか。おもろいこと考える倅や」
「調子乗るからあかん」
「乗ってへんわ!」
言い返した。源兵衛が俺を見る。その目で分かった。
「……ちょっとしか」
「乗っとるやないか」
弥吉が笑った。佐吉まで笑っている。なんやねん。
◇
善右衛門が帰ったあとも、俺はしばらく当て金を眺めていた。
同じ物。同じくらいの物。いつ買っても、同じくらい良い物。
俺にとっては当たり前だった。前世なら、メーカーが同じ商品を昨日と今日でまったく違う品質で売れば問題になる。でも、この時代では違う。材料が違う。職人が違う。その日の火も違う。出来上がる物も違う。そして誰も、それを不思議とは思っていない。
だからこそ、もし本当に「いつ買っても同じくらい良い」を作れたら、それ自体が、この時代では新しい価値になるのかもしれない。
「若旦那」
「ん?」
佐吉だった。
「また考え事です?」
「うん」
「炭持ったまま?」
手を見る。持っていた。
「……なんで俺、考え事すると炭持っとるんやろ」
「知りませんよ」
佐吉が笑った。俺も笑った。そして炭を置いた。
少しだけ、嬉しかった。
この世界へ来てから、俺の考えることは変なことばかりだった。弥吉には「なんで」と聞かれ、親父には「作りやすいから何や」と切られた。それが今日、初めて誰かに通じた。
全部ではない。善右衛門が見ているものと、俺が見ているものも少し違う。それでもいい。同じところを見る必要はない。別々の理由から、同じ方向へ進むことだってある。
「いつ買うても、同じくらいええ物、か」
口にしてみる。
悪くない。むしろ、かなりいい。
当て金一枚から始まった話が、ほんの少しだけ大きく見えた。
そして俺はまだ知らなかった。自分の考えを初めて認めてくれる大人に出会った十歳の子供が、どうなるのかを。
簡単な話だった。
調子に乗るのである。




