回る砥石
翌朝、俺は父に何か言われる前に工房を一回りした。
二十挺の進み具合を確認し、昨日作り直した四つの金具が予定したところまで流れていることを確かめる。最初の五挺は仕上げが進み、次の五挺も大きな遅れはない。佐吉に当て金の状態を聞き、宗次郎とも材料の残りを確認してから、ようやく水車の図を持って父の前へ行った。
「見てきた」
「何を」
「仕事」
「そうか」
「行ってええ?」
「なんで俺に聞くねん」
「前聞かんかったら止めたやろ!」
「仕事見てへんかったからや」
理屈は通っている。
腹は立つ。
「ほな行ってくる」
「おう」
今日は止められなかった。
*
甚助と喜兵衛、それに図を入れた包みを持って粉挽き場へ向かった。
前回と違うのは、頭の中にあるものを口だけで説明しなくていいことだった。着くなり紙を広げると、水車を直している職人も含めて四人でそれを囲む。
「これが水車の軸。こっちが前作った大きい輪で、縄掛けてこっち回す。砥石はここ」
鉛筆の先で順番に示していく。
「前はこっちの輪、小さくしすぎた。速う回そうとしすぎたから、今度は少し大きくする。その代わり砥石の軸は太うして、支える場所を砥石の近くへ持ってくる」
「これか」
甚助が紙の一か所を指した。
「そう。台もここまで広げたい」
「このくらい?」
甚助が指で幅を示す。
「待って」
俺は鉛筆を走らせ、今の線を薄くして位置を変えた。
「これくらい」
「ほな分かる」
話が早い。
昨日までなら「もう少し広く」「どのくらい」「これくらい」「どれくらいや」とやっていたところが、線一本で済む。
喜兵衛が別の場所を指した。
「この小さい輪が、昨日言うとったやつ?」
「そう。こいつを動かして縄を押す」
「どっちへ?」
「こう」
矢印を描く。
「ああ。これ下げたら縄張るんか」
「そういうこと」
「最初からこれ描いてくれたらよかったやん」
「描く道具がなかった言うてるやろ!」
水車職人が紙と俺たちを交互に見ていた。
「それ、便利やな」
「やろ?」
「いや、その黒い棒やなくて絵の方」
「そっちか」
少し残念だった。
*
図があるからといって、作るのが簡単になるわけではなかった。
甚助が台を作り直し、喜兵衛が軸の金具を調整する。水車職人には水車側へ余計な負担が掛からない位置を見てもらった。俺はその間を行き来し、寸法が変われば紙へ書き込み、実際に作って無理が出れば線を引き直した。
最初に問題になったのは、縄を張るために追加した小さな輪だった。
「これ、押しすぎちゃうか」
喜兵衛が言った。
仮に縄を掛けてみると、確かに張りすぎている。小さな輪を下げれば縄は張るが、その分だけ二本の軸を互いに引っ張る力も強くなる。
「位置変えるか」
「どこへ?」
俺は紙へ二つ三つ位置を描き、喜兵衛と相談した。輪を上下へ大きく動かすのではなく、少しだけ押し込める位置へ置き、固定する穴をいくつか用意することにする。
「これなら縄伸びても一個ずらせるな」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「試作に絶対言うやつ信用すんな」
「誰に教わったん、それ」
「人生」
「十六年しか生きてへんやん」
六年分ほど数え方が違う。
もちろん言わない。
*
次に問題になったのは砥石だった。
前回使った石をそのまま回せば、また同じように暴れる。新しい石を用意する手もあったが、まず今あるものをどこまで整えられるか試すことにした。
砥石を軸へ付け、縄を外したまま手でゆっくり回す。外周へ木片を近づけると、高いところだけが先に触れた。
「丸ないな」
甚助が言った。
「見たら分かる」
「どうする?」
「高いとこ落とす」
「何で?」
そこで止まった。
砥石を整えるための砥石が欲しい。
「……硬い石?」
「石削るために石探すんか」
喜兵衛が笑った。
「何がおかしい。そういうもんや」
「また道具増えるやん」
「増えるなあ……」
水車職人が話を聞きながら、別の石を使って表面を整えることはあると教えてくれた。俺の知っているドレッサーとは違うが、考え方は同じだった。
使えるものを借り、砥石をゆっくり回しながら少しずつ高いところを落とす。何度か止めて確認し、また回す。完全な円にはならないが、前回より振れは明らかに小さくなった。
「これくらいならいけるか?」
喜兵衛が聞く。
「まず遅く回そう」
「速うする仕掛け作っとるのに?」
「速うできるからって最初から速うする必要ない」
水車職人が頷いた。
「それがええ」
前回、俺は速さを求めすぎた。
今回は違う。
必要なのは速い機械ではない。
使える機械だ。
*
昼を少し過ぎたころ、二度目の試運転を始めた。
水車から力を取り、大きな輪を回す。縄が走り、小さい輪が回り始めると、その軸につながった砥石もゆっくり動き出した。
前回より遅い。
だが、揺れも少ない。
全員が少し離れて見守る中、回転が落ち着くまで待った。台は細かく震えているものの、前のように砥石が左右へ大きく振れることはない。
「回っとるな」
甚助が言った。
「回っとる」
俺は砥石から目を離さず答えた。
「使える?」
喜兵衛が聞く。
「まだ」
「慎重になったな」
「学習したんや」
しばらく空回しを続ける。
軸を支える部分から少し音が出ている。触れないよう注意しながら様子を見ると、摩擦で熱を持ち始めていた。
「ここ熱なるな」
喜兵衛も気づいた。
「油いるか」
「油入れたら回りやすなる?」
「たぶん。ただ木に染みるし、埃も付く」
「やってみる?」
「少しだけ」
油を入れ、もう一度回す。
音が少し変わった。
回転も軽くなったように見える。
「……こういうの、一個直したらまた一個出てくるな」
喜兵衛が呟いた。
「機械ってそういうもんやで」
「知っとったん?」
「知っとった」
「ほな最初から全部直しとけや」
「できたら苦労せんわ!」
知っていることと、作れることは違う。
最近、それを何度も思い知らされている。
*
空回しを続けても大きな異常は出なかった。
そこで初めて、実際に物を当てることにした。
鉄砲の部品は使わない。
父との約束だ。
持ってきたのは、刃先が鈍った古い鏨だった。
「誰やる?」
喜兵衛が聞いた。
俺は砥石を見た。
「俺」
「言うと思った」
「嫌ならお前やる?」
「虎松どうぞ」
「譲るん早いな!」
ただし、直接手だけで押し付けるのは怖かった。甚助に頼んで簡単な木の受けを砥石の前へ置き、鏨を支えながら少しずつ近づける。
砥石が回っている。
俺は鏨を両手で持った。
近づける。
触れた。
ざり、と音がした。
反射的に離した。
「……削れた?」
喜兵衛が聞く。
鏨の先を見る。
光っている。
「削れた」
「もう一回」
「待て」
今度は少し長く当てる。
ざりざりと音が続き、細かな粉が落ちる。前世のグラインダーのように火花を盛大に散らしながら削れるわけではないが、確実に鉄の表面が落ちている。
腕を往復させる必要がない。
砥石の方が動いている。
「おお……」
俺は思わず声を漏らした。
「今度は何や」
「削れとる」
「見たら分かる」
「俺、手動かしてへん」
「鏨持っとるやん」
「そういう意味ちゃうねん!」
また感動の共有に失敗した。
*
そこからは慎重に試した。
鏨を研ぐ。
古い刃物を当てる。
使い物にならない金具の端を削る。
速く削れるわけではない。それでも、鑢で何度も往復するより腕は楽だった。特に大まかに形を落とす仕事なら、使い道は十分ありそうだった。
一方で欠点もすぐに出た。
強く押し付けると回転が落ちる。縄がわずかに滑ることもある。軸受は長く回せば熱を持ち、砥石も使う場所によって削れ方が違う。作業する人間が立つ場所も、今のままでは狭い。
そして何より、怖い。
「これ、顔この前に出したくないな」
喜兵衛が言った。
「出すな。横から使えるようにしよう」
「石割れたら?」
「せやから前に板か何か欲しい」
甚助が砥石の周りを見た。
「囲うんか?」
「全部囲ったら使われへん。上と後ろだけでも」
「木でええ?」
「火ぃ出るほど削れたら怖いな」
「鉄板?」
「重い」
また相談が始まった。
だが、前回とは違う。
使えないから直すのではない。
使えるから、もっと安全に使えるように直す。
その差は大きかった。
*
夕方までに、俺たちは一度砥石を止めた。
完璧ではない。
むしろ直したいところはいくらでもある。
それでも、工具を研げる。
荒い形を落とせる。
人が砥石そのものを回す必要はない。
水が働いてくれる。
「使えるな」
喜兵衛が言った。
俺は少し考えてから頷いた。
「使える」
甚助も台を軽く叩いた。
「ほな次、作り直すとこ決めよか」
「まだやるん?」
「お前が始めたんやろ」
「いや、やるけど」
前回は「回った。使えん」だった。
今回は違う。
回った。
削れた。
仕事になった。
ただ、そこで一つ問題が残っている。
「これ、榊屋にないんよな」
俺が言うと、二人とも黙った。
目の前には水車がある。
回る砥石がある。
そして榊屋は、ここから離れている。
「……持って帰る?」
喜兵衛が言った。
「何を?」
「砥石」
「持って帰って何で回すん」
「人?」
「水車作った意味!」
甚助が笑った。
俺も笑った。
笑うしかない。
*
榊屋へ戻ると、宗次郎が帳面を持って待っていた。
「どうでした?」
「使えた」
「ほんまに?」
「工具研げた。荒く削るんもいける。まだ直すとこあるけど、使える」
「それはよかったですね」
弟が素直に頷いた。
珍しく何も刺してこない。
俺は少し警戒した。
「……何や」
「何がです?」
「いや」
「それで、どこで使うんです?」
来た。
「水車のとこ」
「誰が?」
「……俺ら?」
「毎回?」
「……」
「工具が鈍るたびに?」
「……」
「鉄砲の部品を削るなら、それも持って行くんです?」
俺は黙った。
宗次郎は責めているわけではない。
ただ、仕事として使うなら当然考えなければならないことを聞いているだけだ。
工房から水車まで人が歩く。
加工する物を持っていく。
削る。
持って帰る。
数が増えれば、誰が何を持って行ったかも管理しなければならない。
水車で削る時間だけを見れば速い。
だが、その前後に運ぶ時間がある。
「兄上」
「なんや」
「それ、本当に早くなるんです?」
痛いところを突かれた。
俺は作業台へ水車の図を広げた。
機械そのものは動いた。
次に考えなければならないのは、機械ではない。
仕事の流れだった。
「……宗次郎」
「はい」
「明日、水車まで歩く時間測ろか」
「どうやって?」
俺は黙った。
正確な時計はない。
「……一緒に歩いて数える?」
「僕を時間を測る道具にしないでください」
前にも似たようなことを言われた気がする。
水車で砥石を回すところまでは来た。
次は、仕事をどうやってそこまで運ぶかだった。




