線で伝える
水車の砥石が暴れた翌日、俺の頭の中には改善案がいくつも浮かんでいた。
まず砥石の回転を欲張らない。大きな輪と小さな輪の差を少し縮め、回転を落とす。軸はもう少し太くし、砥石に近いところでしっかり支える。砥石そのものも、いきなり速く回すのではなく、ゆっくり回しながら外周の高いところを落として形を整えたい。
縄の張り方にも手を入れたい。台そのものを動かして張るのでは調整が面倒なので、途中にもう一つ小さな輪を置き、そいつを動かして縄を押さえれば張り具合を変えられるはずだ。
頭の中では動いている。
問題は、それを他人に説明する方法だった。
「せやから、ここにもう一個輪を置くねん」
「どこに?」
「ここ」
「そこってどこや」
「縄の途中」
「邪魔ちゃう?」
「邪魔するんや。押すために」
「何を?」
「縄を!」
喜兵衛が首を傾げた。
俺も苛立って地面へ棒で線を引いたが、今度は甚助が横から覗き込んだ。
「この丸なんや」
「輪」
「どの輪?」
「新しいやつ」
「昨日の小さい輪と違うんか」
「違う!」
「ほな分かるように描けや」
「描けたら苦労してへん!」
話が進まない。
地面に描けば細かなところが分からず、板へ墨で描けば修正が面倒だった。しかも俺の頭の中では立体で動いている物を、二人へ口で説明しながらその場で描こうとすると、どの軸の話をしているのか途中から俺自身まで怪しくなる。
「もうええ。黒い石来てからや」
「石来たら何が変わるん?」
「俺の機嫌」
「それは助かるな」
喜兵衛に笑われた。
腹立つ。
*
その日の昼、水車どころではなくなった。
「虎松!」
工房の奥から佐吉に呼ばれた。
声の調子で分かった。
良くないやつだ。
駆け寄ると、佐吉の作業台に金具が並んでいた。二十挺のうち、後半に使う予定のものだった。
「どうした?」
「これや」
一つ渡され、俺は寸法を見た。
違う。
わずかだが、決めた寸法より小さい。
「何個?」
「今見つけたんは三つ。せやけど同じとこから取ったやつ、まだある」
「全部止めて」
俺はすぐに言った。
原因を探す前に、まず広げない。
「この金具使う仕事だけ止める。他はそのまま。宗次郎!」
呼ぶと、少し離れたところで帳面を見ていた弟が顔を上げた。
「はい」
「この金具、同じ材料から作った分が何個あるか見て。どこまで流れとるかも」
「分かりました」
「佐吉は今ある分全部分けて。ええやつと怪しいやつ混ぜんといて」
「分かった」
俺は弥吉を探した。
水車のことは頭から消えた。
*
調べてみると、原因は単純だった。
金具を作るときに使っていた当て金の一つが摩耗していた。
最初の二十挺でも使ったものだ。基準に合わせて作ったつもりだったが、何度も材料を当て、削り、確認しているうちに端がわずかに減っていた。そこへ合わせて加工したため、後から作ったものほど少しずつ小さくなっていたらしい。
「当て金が減るんか……」
俺は問題の当て金を手に取った。
当たり前だった。
治具も道具も永久には使えない。
前世なら検査治具にも点検があり、測定器には校正がある。作ったとき正しかったからといって、いつまでも正しいとは限らない。
六年前、初めて当て金を作ったときの俺は、そこまで考えていなかった。
「何個あかん?」
弥吉が聞いた。
「まだ分からん。宗次郎が追っとる」
「作り直す?」
「全部は嫌や。使えるやつまで捨てる必要ない」
基準尺と、残してある基準の当て金を持ってくる。一本ずつ確認し、使えるものと使えないものを分ける。
しばらくして宗次郎が戻ってきた。
「同じ当て金を使った可能性があるのは九つです。そのうち三つは佐吉さんのところ。二つは五平さんのところまで行っています。残り四つはまだ加工途中です」
「九つか」
二十挺全部ではない。
それだけでだいぶ楽になった。
「他の仕事は?」
「止めなくていいと思います。この金具を使うところだけです」
「よし」
前なら、ここから工房全体が止まっていたかもしれない。
どれが問題なのか分からず、誰が何を持っているか探し回り、とりあえず全部確認する。その間に職人が俺か弥吉へ聞きに来て、さらに仕事が詰まる。
今は違った。
札がある。
材料が分かれている。
誰がどこまで進めたか、宗次郎が追える。
基準尺がある。
正しい当て金も残してある。
問題の範囲を切り出せる。
「佐吉、九つだけ見よう。五平さんとこ行った二つも戻して」
「はい」
「使えるやつはそのまま流す。小さいやつは……弥吉、肉残っとる?」
「場所によるな。ちょい小さいだけなら別の組み合わせで拾えるかもしれん」
「ほな見て。無理なら作り直し」
「分かった」
工房が動き出した。
*
結局、九つのうち使えなかったのは四つだった。
二つは弥吉が組み合わせを変えることで使えると判断し、三つは問題なし。残り四つだけを作り直す。
ただし、作り直せばその分だけ予定は遅れる。
「どこで取り返す?」
俺が札を見ながら言うと、佐吉が先に答えた。
「次の分、俺がまとめて荒取りします。寸法見るんは新しい当て金で」
五平も横から口を挟んだ。
「こっちは今やっとる分、今日中に進めとく。明日そっち手伝えるで」
「弥吉は?」
「四つ来たら合わせ見る。それまでは前の五挺やっとく」
俺が指示を出す前に、仕事が組み替わっていく。
少し不思議な気分だった。
最初の二十挺のときは、何か起こるたびに俺が走った。誰が何をするか決め、順番を変え、次の仕事を渡していた。
今は違う。
俺がやったのは、問題の範囲を決めただけだ。
「兄上」
宗次郎が帳面を持ってきた。
「四つ作り直しても、今の進み方なら二日遅れることはないと思います。明日中に戻せれば、その次で追いつきます」
「ほんま?」
「たぶん。前の五挺がもう先へ行ってますから、全部が待つわけではありません」
俺は札を見直した。
確かにそうだった。
一か所止まったからといって、二十挺全部が止まるわけではない。前を走っているものはそのまま進み、後ろも問題の金具を使わないところまでは進められる。
「……いけるな」
「はい」
「よし。やろ」
*
二日後、遅れはほぼ消えていた。
四つの金具は作り直され、前の工程へ追いついた。五平が空いた時間を使って荒取りを助け、佐吉が新しい当て金で確認し、弥吉のところへ渡るころには予定との差は半日もなかった。
その代わり、当て金には新しい決まりができた。
仕事を始める前に、基準と比べる。
長く使ったものは途中でも見る。
怪しければ使わない。
たったそれだけだ。
「道具を測る道具が要るようになったな」
喜兵衛が言った。
「そのうち道具を測る道具を測る道具が要るで」
俺が返す。
「終わらんやん」
「終わらんねん」
品質管理というのは、だいたいそういうものである。
父にも報告した。
「四つ作り直しました。もう戻っとる」
「原因は」
「当て金が減っとった。これから使う前に基準と合わせる」
「そうか」
父はそれ以上、失敗そのものについては何も言わなかった。
ただ、少ししてからこちらを見る。
「水車行ってへんかったな」
「行けるか!」
「ほな分かっとるやん」
「何が」
「先にやる仕事」
また説教の続きだった。
「……はいはい」
「はいは一回」
「はい」
父は満足そうに仕事へ戻った。
*
善右衛門が来たのは、その翌日の午後だった。
俺は佐吉と新しい当て金を確認していた。呼ばれて振り向くと、善右衛門が小さな包みを手に立っている。
妙に笑っている。
嫌な予感がした。
「虎松」
「なんや」
「欲しがっとったやつ」
俺は手を止めた。
「黒い石?」
「たぶんな」
善右衛門が包みを開いた。
中には黒っぽい塊が入っていた。
見た瞬間、鉛筆の芯を思い出したわけではない。形が違いすぎる。俺の知っている鉛筆の芯は細く、真っ直ぐで、きれいに木へ収まっていた。
目の前にあるのは、ただの黒い石だった。
「触ってええ?」
「ええけど、落とすなよ」
「なんで?」
「高い」
指先で触る。
黒く付いた。
紙を持ってきて、塊の角をそっと擦る。
線が出た。
炭より細い。
力を入れなくても黒い。
俺は線を何本か引き、指で軽く擦ってみた。完全に消えるわけではないが、墨とは違う。薄くできる。
「……これや」
「ほんまにそれでええんか?」
「これや!」
思わず善右衛門の肩を掴んだ。
「痛い痛い! 離せ!」
「どこにあった!?」
「南蛮の品扱う商人から回してもろた。向こうでも何に使うかよう分からん言うとったぞ」
「なんぼ?」
善右衛門が金額を言った。
俺は黒鉛を紙へ戻した。
「返すわ」
「早いな!」
「無理や!」
高い。
とてもではないが、字を書く道具に払う金額ではなかった。
「こんなん買えるか! 墨何年分やねん!」
「俺もそう思う」
「なんで持ってきた!」
「お前が探せ言うたんやろ!」
「値段聞いてから探してほしかった!」
「知らんがな!」
善右衛門と二人で揉めていると、父が奥から顔を出した。
「うるさい」
「父ちゃん聞いて! 善右衛門が石ころ高値で売りつけようとしてる!」
「誰が売りつけとんねん!」
「なんぼや」
善右衛門がもう一度値段を言った。
父は俺を見た。
「いらんな」
「せやろ!?」
即決だった。
「待て待て」
善右衛門が黒鉛を包み直そうとする俺の手を止めた。
「誰がその値でお前に売る言うた」
「え?」
「仕入れがそれや」
「ほな、もっと高いやん」
「普通ならな」
善右衛門が笑った。
嫌な笑い方だった。
「虎松」
「なんや」
「次も二十挺、作れるな?」
俺は黙った。
父がこちらを見た。
「……誰から?」
「同じ筋や。尾張方面。まだ正式な注文やないが、今の二十挺が予定通り上がるなら、もう二十欲しいいう話が来とる」
「また?」
「評判ええみたいやな」
嬉しい。
嬉しいはずなのだ。
なのに善右衛門が笑っているせいで、素直に喜べない。
「それと石、何の関係あんねん」
「次の二十挺も榊屋で受ける言うなら、これは俺がほとんど持ったる」
「……ほとんど?」
善右衛門が提示した金額は、さっきとは桁が違った。
安い。
それでも墨よりは遥かに高いが、試すための道具としてなら払えなくはない。
「なんでそこまで」
「次の二十挺の方が儲かるからや」
「商人やなあ!」
「当たり前や!」
父が腕を組んだ。
「虎松」
「はい」
「できるんか」
即答はしなかった。
今の二十挺は順調だ。
途中で問題は起きたが、リカバリーできた。前回より俺が走り回る時間も減っている。寸法を揃えたところでは作業も安定し、佐吉たちも自分たちで仕事を回し始めている。
同じ条件なら、もう一度できる。
ただし、今度は水車のことも進めたい。
「できる」
俺は答えた。
「ただ、今の二十挺終わってからや。重ねへん」
「ええで」
善右衛門があっさり頷いた。
「値は?」
「同じ?」
「そこはこれからや」
「そこ一番大事やろ」
「せやからこれからや言うとる」
父と善右衛門が値段の話を始めた。
俺は黒鉛を手に取った。
どうやら鉛筆一本と引き換えに、鉄砲二十挺が増えたらしい。
割に合っているのかは、考えないことにした。
*
黒鉛をそのまま使うには大きすぎた。
喜兵衛と相談し、まず端の比較的真っ直ぐな部分を細長く切り出してみることにした。脆いので乱暴には扱えず、何本か試すうち一本は途中で割れた。
「高い言うてたな、これ」
「言うな」
「今折れたで」
「見たら分かる!」
「いくら分やろ」
「黙れ!」
心臓に悪い。
どうにか細い棒状にした黒鉛を、甚助が作った二枚の細い木片で挟んだ。木の中央を浅く削り、黒鉛を収め、合わせて糸で縛る。
格好は悪い。
太い。
持ちにくい。
現代の鉛筆とは比べるべくもない。
それでも紙へ当てれば、線が引けた。
「……できた」
「何が?」
喜兵衛が聞く。
「鉛筆」
「えんぴつ?」
「名前」
「なんで?」
「そういう名前やから」
「誰が決めたん?」
「俺」
「今?」
「今」
危ない。
適当に押し切った。
俺は小刀で木の先を少し削り、黒鉛を出した。先端を整えてもう一度紙へ当てると、さっきより細い線が引ける。
嬉しい。
思った以上に嬉しい。
「喜兵衛」
「なんや」
「見とけ」
昨日まで何度説明しても伝わらなかった仕掛けを描く。
まず水車から来る軸。
そこに付ける大きな輪。
離れた位置に小さな輪と砥石の軸。
二つを縄でつなぐ。
昨日と同じだ。
そこから線を一本消した。
正確には、布で擦って薄くした。
「おお」
喜兵衛が初めて反応した。
「消えるん?」
「薄うできる」
「それええな」
「やろ?」
位置を変えて描き直す。
次に、縄の途中へ小さな輪を一つ追加した。その輪を上下に動かせるようにし、縄を押さえる方向を矢印で示す。
「ここ動かすん?」
「そう。台全部動かすんやなくて、こいつで縄張る」
「ああ」
喜兵衛が紙へ顔を近づけた。
「ああ!」
二回言った。
「分かった?」
「分かった。昨日言うとったんこれか」
「これ!」
「口で言えや」
「言うたわ!」
甚助も寄ってきた。
「この軸、こっちでも受けるんか」
「そう。砥石の近くで一回支えたい。昨日ここ振れとったやろ」
「ほな台、もうちょい幅いるな」
「できる?」
「これなら分かる」
その一言で、俺は手を止めた。
これなら分かる。
昨日までと同じ物を考えている。
俺の頭の中にある仕掛けが急に良くなったわけでもない。甚助や喜兵衛が一晩で賢くなったわけでもない。
伝える道具が変わっただけだ。
俺は紙へ寸法を書き足した。
まだ正確な製図とは呼べない。線も歪んでいるし、縮尺も怪しい。横から見た形と上から見た形を分けて描き、必要なところに榊屋の尺で寸法を書き込んだだけだ。
それでも、口で説明するより遥かに速い。
「ここの輪、もう少し小さくしたい」
喜兵衛が言った。
「なんで?」
「これやと縄外れやすそうや。溝深うした方がええんちゃう?」
「描いて」
「俺が?」
「ここ」
鉛筆を渡す。
喜兵衛が恐る恐る線を引いた。
「……これ便利やな」
「やろ?」
「高いんやろ?」
「言うな」
甚助まで笑った。
*
その日の夕方、父が紙を見た。
「なんやこれ」
「水車の砥石」
「絵やろ」
「図面」
「ずめん?」
また名前で詰まった。
「作るもんの形と寸法描いたやつ」
「ふうん」
父はしばらく紙を眺め、指で一か所を示した。
「ここ、細ないか」
「どこ?」
「この軸受ける木。砥石振れたらここに力掛かるやろ」
俺は紙を見た。
確かに。
「……太くする」
線を消し、描き直した。
父の眉が少し動いた。
「それ、消せるんか」
「完全には消えへんけどな」
「便利やな」
「やろ?」
「なんぼした」
俺は黙った。
「虎松」
「善右衛門がほとんど払ってくれた」
「なんぼした」
「……元は結構」
父の目が細くなる。
「その石、大事に使え」
「はい」
「あと」
「はい」
「二十挺増えたんやろ」
「……はい」
「道具一個作るたびに仕事増やして帰ってくんな」
「俺のせいちゃうやろ!」
父は笑いながら工房の奥へ戻っていった。
俺はもう一度、紙を見る。
水車から伸びる軸。
輪。
縄。
張りを調整する小さな輪。
支えを増やした砥石の軸。
昨日まで頭の中にしかなかったものが、紙の上にある。
しかも、俺以外の人間にも見える。
鉛筆を作りたかったわけではない。
欲しかったのは、考えを形にする道具だった。
「明日、これ持って行こか」
喜兵衛が言った。
「行こう」
「二十挺は?」
甚助が聞いた。
俺は一瞬黙った。
「……朝、先に見る」
「学習したな」
「うるさい」
まず仕事を見る。
それから水車へ行く。
図面はできた。
次は、この線を木と鉄に変える番だった。




