回った。使えん
翌朝、俺は善右衛門のところへ行こうとして、父に捕まった。
「どこ行く」
「善右衛門とこ」
「何しに」
「探してほしい物あって」
「何を」
「黒くて柔らかい石」
父が黙った。
説明が悪かった。
「紙に擦ったら黒い線が引ける石が欲しいねん。できれば細う削れて、手ぇ汚れにくいやつ」
「鉄砲に使うんか」
「使わへん」
「水車か」
「直接は使わへん」
父の眉間に皺が寄った。
まずい。
「図描くのに欲しいねん。昨日、水車見てきたやろ。あれで砥石回せんか考えとって、せやけど筆やと描き直すんが面倒で」
「虎松」
「はい」
「二十挺は?」
「進んどる」
「どこまで」
俺は口を閉じた。
進んでいる。それは間違いない。最初の五挺は後の工程へ入り、次の五挺も流れている。前回と違って俺が一日中張りついていなくても、佐吉も五平も自分の仕事を分かって動くようになった。
だから水車を見に行った。
だから新しいことを考える余裕ができた。
そのつもりだった。
「……最初の五挺は、あと仕上げと調整。次の五挺も進んどる。残りも材料は揃っとる」
「遅れは」
「今んとこない」
「今日やることは」
また口が止まった。
父は怒鳴らなかった。作業台の向こうでこちらを見ているだけだったが、こういうときの方が逃げ場がない。
「進み具合見て、詰まっとるとこないか確認して……」
「してから行け」
「……はい」
それで終わるかと思った。
「あと」
「まだあるん」
「ある」
父は手にしていた部品を作業台へ置いた。
「新しいこと考えるんはええ。水車でも何でも、使えるもん作れるなら作ったらええ。せやけどな、今ある仕事ほったらかして、次の仕事楽にする道具ばっかり作っとったら、何してるか分からんようになるぞ」
耳が痛い。
「ほったらかしてはないで」
「今はな」
「……はい」
「お前、面白いもん見つけたらそっち行くやろ」
「そんなこと」
ない、と言い切れなかった。
父が鼻で笑った。
「自分で始めた二十挺や。最後まで見ろ」
俺はしばらく黙ってから頷いた。
「分かった」
「ほな仕事せえ」
「はい」
追い払われた。
*
工房を一回りすると、父の言っていた意味がよく分かった。
大きな遅れはない。だが、何も問題がないわけでもない。佐吉のところでは新しい寸法に合わせた金具と古い作りの部品が一つ混ざりかけており、五平のところでは材料の取り分が一部曖昧になっていた。どちらも俺が手を出さなければ止まるような問題ではなかったが、放っておけば後で余計な手間になっただろう。
宗次郎と数を確認し、札を直し、次に使う材料を分ける。弥吉には仕上げへ入る五挺だけ見てもらい、残りは予定通り進めてもらった。
全部終わるころには昼前だった。
「父ちゃん」
「なんや」
「行ってええ?」
「俺に聞くな」
「さっき止めたやん」
「仕事見てから行け言うたんや。いちいち許し取れとは言うてへん」
「難しいな!」
「はよ行け」
今度こそ追い出された。
*
「黒くて柔らかい石?」
善右衛門は案の定、嫌そうな顔をした。
「そう」
「何に使う」
「字ぃ書く」
「墨で書け」
「昨日からそれ何回言われたと思う?」
「知らんがな」
俺は紙と、昨日炭で描いた線を見せた。筆では線が太く、描き直しに向かない。炭なら手軽だが、細くすると脆く、手も紙も汚れやすい。欲しいのはもっと硬く、細い線が引ける黒い物だと説明する。
善右衛門は炭の線を指で擦った。
「これではあかんのか」
「あかん。もっと細う描きたい」
「贅沢やな」
「道具いうんは、ちょっとした不便取るためにあるんや」
「昨日まで困ってへんかったやろ」
「昨日困った」
「面倒くさいやっちゃなあ」
言いながらも、善右衛門は話を聞いてくれた。
「石なんやな?」
「たぶん」
「たぶん?」
そこは誤魔化した。
「黒くて、擦ったら紙に付く。炭より崩れにくい。そんなもん見たことない?」
「俺はない。せやけど、聞くだけ聞いたる」
「助かる」
「見つからんでも知らんぞ」
「そんときは別の方法考える」
善右衛門がため息をついた。
「鉄砲屋に頼まれて、なんで字ぃ書く石探さなあかんねん」
「そのうち役立つって」
「その台詞、最近怖なってきたわ」
俺も少しそう思う。
*
黒い石は、その日に見つかった。
というほど都合よくはいかなかった。
善右衛門には探してもらうとして、俺たちは水車の方を進めることにした。昨日教えてもらった水車を直す職人にも話を聞き、いきなり新しい水車を作るのではなく、既存の水車から回転を取って小さな仕掛けを試させてもらうことになった。
当然、ただではない。
「なんぼ?」
善右衛門に聞かれて金額を答えると、露骨に嫌な顔をされた。
「試すだけやろ?」
「試すだけ」
「使えるか分からんのやろ?」
「分からん」
「失敗したら?」
「金がなくなる」
「やめへん?」
「やる」
「聞いた俺が悪かった」
費用は榊屋持ちになった。
父は金額を聞き、しばらく黙ったあと、「二十挺の儲け全部突っ込む気やったら止める」とだけ言った。そこまで掛けるつもりはないと答えると、それ以上は何も言わなかった。
ただし条件が付いた。
鉄砲の部品には使わない。
まず工具で試す。
壊れても本業を止めない。
そして、二十挺の仕事を遅らせない。
全部もっともだった。
*
試作に取りかかったのは、それから数日後だった。
甚助が木で台を作り、喜兵衛が軸回りの金具を考えた。水車を直す職人にも見てもらいながら、既存の水車の軸から別の回転を取る仕掛けを組む。
最初から歯車にはしなかった。
俺が考えたのは、大きな輪と小さな輪を作り、その間へ縄を掛ける方法だった。水車側の大きな輪が回れば縄が走り、小さな輪を回す。小さな輪と同じ軸に砥石を付ければ、水車そのものより速く砥石を回せる。
理屈は簡単だ。
理屈だけは。
「縄、緩いな」
喜兵衛が言った。
「張ろう」
「どうやって?」
「……台ずらす?」
「毎回?」
「嫌やな」
最初の問題が出た。
縄を張りすぎれば軸へ余計な力が掛かる。緩ければ滑る。使っているうちに縄そのものも伸びる。
結局、砥石側の台を少し動かせるようにし、楔で位置を決めることにした。
次は軸だった。
「振れとるな」
甚助が回してみる。
「振れとる」
喜兵衛も言う。
「分かっとる」
俺も見えている。
木の軸を真っ直ぐ作ったつもりでも、現代の機械加工された軸とは違う。支える位置も完全には揃わない。ゆっくり回している間は気にならなかったずれが、速く回そうとすると目に見えて出てくる。
「削る?」
喜兵衛が聞いた。
「どこを?」
「高いとこ」
「どこが高い?」
三人で軸を見た。
分からない。
「……墨つけて当たるとこ見るか」
甚助が言った。
結局、現場合わせだった。
軸を回し、当たる場所を見る。少し削る。また回す。削りすぎれば戻せないので、少しずつ追い込む。
やっていることは、鉄砲の調整と大して変わらなかった。
「機械作っとるのに職人技使っとるやん」
俺が言うと、甚助が笑った。
「機械作るん誰やと思っとる」
ごもっともである。
*
さらに二日掛かった。
大きな輪。
縄。
小さな輪。
軸。
砥石。
それらがようやく一つにつながった。
見た目は俺の知っている研削盤とは程遠い。木の台に軸が乗り、片側に小さな輪、もう片側に丸い砥石が付いているだけだ。覆いもなければ、きちんとした工具台もない。
だからこそ、最初は離れて回すことにした。
「ええか?」
喜兵衛が聞いた。
「待って」
砥石の前には誰も立たせない。横から様子を見る。軸の固定をもう一度確認し、縄が外れたときに人へ飛んでこない位置を取る。
前世の記憶が、こういうときだけ妙にうるさい。
回転体は怖い。
「よし」
水車側の仕掛けを動かした。
大きな輪が回る。
縄が走る。
小さな輪が回り始める。
軸が回る。
砥石が動いた。
「回った!」
思わず声が出た。
「回ったな」
喜兵衛も笑った。
甚助は少し離れたところから砥石を見ている。
「……揺れとるで」
「回ってはいる!」
「いや、だいぶ揺れとる」
確かに揺れていた。
砥石そのものの形が完全な円ではないうえ、中心もわずかにずれている。回転が上がるたびに台が細かく震え、軸受から嫌な音がする。
「止めよ」
俺はすぐに言った。
「もう?」
「壊れてから止めたら遅い」
水車側を止めてもらい、回転が落ちるのを待つ。
誰も砥石へ触らなかった。
完全に止まってから、三人で覗き込む。
「回ったな」
喜兵衛が言った。
「回った」
俺も答えた。
甚助が台を押してみる。
「使えんな」
「……今はな」
「使えんやん」
「まず回すんが第一歩や!」
負け惜しみではない。
たぶん。
*
原因は一つではなかった。
砥石の形。
穴の位置。
軸の振れ。
軸を支える部分の遊び。
縄の張り。
台そのものの強さ。
どれか一つを直せば終わるという話ではなく、全部が少しずつ悪さをしている。
ただ、失敗したことで分かったことも多い。
「砥石、もっと丸うせなあかんな」
「軸も細いんちゃう?」
「太うしたら重なるで」
「支えるとこ増やす?」
「増やしたら今度は芯合わせんの難しなる」
俺と喜兵衛と甚助で話していると、水車職人が横から口を挟んだ。
「速う回すことばっかり考えん方がええぞ」
「なんで?」
「速うしたら、ちょっとの狂いでもよう暴れる。石なんか割れたら危ないで」
俺は黙った。
正しい。
完全に正しい。
前世のグラインダーが頭にあったせいで、無意識に回転数を上げることばかり考えていた。しかし、精度の低い軸と砥石を高速で回すなら、危険も一緒に増える。
必要なのは速さではない。
人が鑢を動かすより楽に、必要な量を削れることだ。
「……一回、欲張るんやめよか」
「今さら?」
喜兵衛が言った。
「今気づいたんや!」
甚助が笑っている。
腹立つ。
*
榊屋へ戻ると、父が最初に聞いたのは水車のことではなかった。
「二十挺は?」
「順調」
「何挺まで来た」
「五挺は仕上げ入った。次の五挺も予定通り。明日また全部見る」
「そうか」
それだけ確認してから、父はようやく俺の顔を見た。
「で?」
「回った」
「使えたんか」
「使えへんかった」
父が笑った。
「何がおもろいねん!」
「いや」
「絶対笑ったやろ!」
「回ったんやったらええやん」
思っていたのと違う答えが返ってきた。
「ええん?」
「一回で使えるもんできると思っとったんか?」
「思ってへんけど」
「ほな直せ」
父はそれだけ言って仕事へ戻った。
俺はしばらくその背中を見ていた。
朝は説教された。
今は直せと言われた。
たぶん父が気にしているのは、水車研磨機が成功するかどうかではない。俺が新しいことに夢中になって、今ある仕事を忘れないかどうかなのだ。
そこさえ外さなければ、失敗そのものには何も言わない。
「……明日も行こ」
「仕事見てからな」
背中を向けたまま返された。
「分かっとるわ!」
*
黒い石の話が善右衛門から来たのは、その翌日だった。
「虎松」
「なんや」
「お前の言うてた、字ぃ書く石」
俺は顔を上げた。
「見つかった?」
「それらしいもん知っとるいう話はあった。南蛮の品扱う連中に聞いたら、黒うて手ぇ汚す石があるらしい」
「どこに?」
「まだ物はない」
「ないんかい!」
「昨日頼んどいて今日出てくると思うな!」
善右衛門が怒った。
「せやけど、似たもんはあるらしい。今度荷が入ったとき見といたる」
「頼む!」
「何で水車よりそっちの方が嬉しそうやねん」
違う。
どちらも嬉しい。
ただ、研磨機の方は回った瞬間に暴れた。
紙に線を引くだけの道具なら、もう少し素直に働いてくれると信じたい。
たぶん。




