水に働かせる
水車を見に行くと言ったものの、俺は水車がどこにあるのか知らなかった。
甚助に「粉挽いとるところ」と言われて工房を出たところまではよかったが、考えてみれば十六歳になった今でも、俺の行動範囲はそれほど広くない。堺の町中や善右衛門のところならともかく、水車を探して歩いた経験など一度もなかった。
「甚助」
「なんや」
「どっち?」
「知らんのかい」
「水車見たい言うただけで、場所知っとるとは言うてへん」
「帰ろか」
「待って!」
甚助が本当に踵を返しかけたので、慌てて袖を掴んだ。
結局、甚助が知り合いに聞き、町の外れにある水車を使った粉挽き場を教えてもらった。勝手に入って機械を眺めるわけにもいかないので、翌日の昼、善右衛門にも間へ入ってもらうことになった。
「なんで俺まで」
「顔広いやろ」
「便利に使うな」
「頼りにしてる」
「そう言うたら何でもやると思うなよ」
そう言いながら話をつけてくれた。
便利な男である。
*
水車は、俺が想像していたより普通だった。
当たり前と言えば当たり前だ。水路を流れる水を受け、大きな木の輪がゆっくりと回っている。前世でも観光地などで見たことはあるし、映像なら何度も見た。しかし、仕事をさせる機械として間近で見るのは初めてだった。
水を受ける。
輪が回る。
軸が回る。
その回転が建物の中へ入っていく。
そこまでは分かる。
「おお……」
「何や」
喜兵衛が横から俺を見る。
「回っとる」
「水車やからな」
「ずっと回っとる」
「水流れとるからな」
「人が何もしてへんのに」
「水車見に来たんやろ、お前」
感動の共有に失敗した。
だが、俺には重要だった。
榊屋では何かを動かそうとすれば、基本的に人間が動く。金槌を振るのも、鑢を往復させるのも、砥石を動かすのも人間だ。火を強くしたければ鞴を動かす人間がいる。
目の前の輪は、人が触れていないのに回り続けている。
休まない。
飯を食わない。
腕も疲れない。
水さえ流れていれば、ずっと回る。
「……ええなあ」
「何がや」
「こいつ、文句言わへん」
甚助が水車を見た。
「壊れたら文句どころちゃうぞ」
「現実に戻すなや」
「お前が変な夢見とるからや」
古参職人は厳しい。
*
粉挽き場の主人に断り、建物の中も見せてもらった。
外から見れば単純に輪が回っているだけだが、中へ入ると印象が変わる。太い軸が壁を抜け、その動きを使って石臼を動かしている。俺が現代の機械で見慣れていた軸や軸受とは比べものにならないほど素朴だが、必要な仕事はちゃんとしていた。
回転を仕事へ変えている。
「甚助」
「なんや」
「これ作れる?」
「いきなり全部聞くな」
甚助は軸の周りを見ながらしゃがみ込んだ。
「輪と骨組みは、見りゃだいたい分かる。せやけど同じもん作れ言われたら話は別や。水の当て方もあるし、軸受けるとこもある。俺一人で勝手に作るもんちゃう」
「やっぱ水車知っとる人いるな」
「そらおるやろ。壊れたら直さなあかんねんから」
当然だった。
水車が存在するなら、それを作る人間も、直す人間もいる。俺が水車の設計を一から考える必要はない。
これは大きい。
「喜兵衛」
「今度は俺か」
「この回る力、別のとこへ持っていけると思う?」
「どこへ?」
「例えば、あっち」
俺は軸から少し離れた場所を指した。
喜兵衛が俺の指先と軸を交互に見る。
「棒つないだら?」
「真っ直ぐならな」
「曲げたいん?」
「できれば」
「なんで?」
「砥石置く場所、水車の真横とは限らんやろ」
喜兵衛が黙った。
俺も黙った。
ここから先は、急に難しくなる。
現代なら軸を延ばす。歯車を使う。ベルトを掛ける。必要なら減速機も使う。言葉だけならいくらでも知っている。
問題は、それを今ここで作れるかだった。
精度の悪い軸を長くすれば振れる。二本の軸をつなげば、つなぎ目がずれる。歯車を使うにしても、木で作るのか鉄で作るのか、それを誰がどの精度で作るのかという話になる。
縄や帯を掛けて回転を伝える方法も頭には浮かぶ。
だが、滑らないのか。
外れないのか。
どれほどの力を伝えられるのか。
俺は知識として仕組みを知っているだけで、戦国時代の材料を使って動力伝達装置を設計した経験などない。
「……とりあえず、真っ直ぐでええか」
「諦めるん早ない?」
「最初から難しくしてどうすんねん」
六年前の俺なら、ここで歯車まで作ろうとしていたかもしれない。
今は違う。
まず動けばいい。
*
俺たちはしばらく水車を眺めた。
喜兵衛は軸と石臼の仕掛けを何度も見比べ、甚助は木の組み方や軸を支える場所を見ている。俺は全体を眺めながら、自分が何を欲しいのかを考え直した。
水車が欲しいわけではない。
石臼もいらない。
欲しいのは、回転する軸だ。
その軸へ砥石を取り付け、鉄や刃物を当てる。最初から仕上げ加工に使うつもりはない。工具を研ぐ。金具の荒い形を落とす。人間が延々と鑢を往復させている仕事のうち、失敗しても取り返しのつく部分から試す。
そこまでなら、できるかもしれない。
「主人」
俺は粉挽き場の主人へ声をかけた。
「この水車、どのくらい速う回るんです?」
「どのくらい言われてもなあ」
困らせた。
当然である。
毎分何回転などという聞き方をしても意味がない。そもそも俺自身、正確に測る道具を持っていない。
「水増えたら速うなります?」
「そら多少はな。多すぎても困るけど」
「少なかったら?」
「遅うなる。夏なんか水減ったら弱いで」
「止まることも?」
「ある」
やっぱりか。
水車はモーターではない。
電源を入れれば決まった速さで回る機械ではなく、水の量で力も速さも変わる。季節でも変わる。雨でも変わる。流れてくる物が詰まることもあるだろう。
「虎松」
甚助が呼んだ。
「これ、お前が思っとるほど便利ちゃうぞ」
「分かっとる」
「ほんまか?」
「今分かってきた」
「来る前は?」
「もっと便利やと思っとった」
「正直やな」
現物を見るというのは大事である。
*
「回る速さ、数えてみるか」
俺が言うと、喜兵衛が首を傾げた。
「どうやって?」
「あそこに印付けて、一回戻ってきたら一回」
「いつまで?」
「……宗次郎連れてくればよかったな」
「弟を数える道具にすんな」
とはいえ、おおよその速さくらいは知りたい。
輪の一か所を決め、そこが戻ってくる回数を数える。時間を正確に測る道具がないので厳密な回転数は出せないが、一定の間に何回戻ってくるかを比べることはできる。
何度か見ているうちに、別のことにも気づいた。
「遅いな」
「さっき速い言うてへんかった?」
「思ったより遅い」
砥石を直接この軸へ付ければ回る。
だが、俺の頭にあるグラインダーのような速さには到底ならない。
もちろん現代の機械と比べること自体が間違っている。問題は、この速さで石を回して鉄へ当てたとき、どの程度削れるかだ。
「速くできる?」
喜兵衛に聞く。
「俺に聞くな」
「仕掛け好きやろ」
「好きと何でも知っとるは別や」
正論だった。
「小さい輪を使ったら速うならん?」
甚助が言った。
俺と喜兵衛が同時に甚助を見た。
「何や」
「今なんて?」
「知らん。大きい輪で小さい輪回したら、小さい方よう回るんちゃうかと思っただけや」
俺は頭の中で回転を描いた。
大きな輪から、小さな輪へ。
接する形でも、縄を掛ける形でも、外周の動きを小さい側へ渡せれば、小さい方は多く回る。
「甚助」
「なんや」
「それや」
「何が?」
「速くできる」
「ほんまか?」
「たぶん」
「たぶんかい」
「やったことないんや!」
俺は思わず笑った。
面白くなってきた。
未来の知識を持っている俺が答えを全部教えるのではない。甚助は木を知っている。喜兵衛は細かな仕掛けが好きだ。俺は何をしたいかと、どういう仕組みなら目的へ近づけるかを知っている。
三人の知識を合わせれば、俺一人より先へ行ける。
「縄掛けてみる?」
喜兵衛が言った。
「大きい方と小さい方に?」
「そう。直接噛ませるより作るん楽やろ」
「滑らん?」
「知らん」
「外れへん?」
「知らん」
「切れへん?」
「知らん」
「何知っとんねん!」
「やってみな分からんいうことは知っとる」
それは間違いなかった。
*
帰る前に、粉挽き場の主人へ頼み込んで、水車を直す職人について教えてもらった。
甚助の言った通り、近くにそういう仕事をする者がいるらしい。水路の具合を見たり、水車の羽根を直したり、軸周りを補修したりするという。
名前と居場所を聞き、俺は頭の中で次に必要なものを並べた。
水車そのものを作る技術。
回転を受ける軸。
砥石。
軸を支えるもの。
回転を速くする仕掛け。
そして、それらを安全に置く台。
思っていたより増えた。
「砥石一個回したいだけやったんやけどな」
「お前、来る前は水車あったら終わりみたいな顔しとったやん」
喜兵衛に言われた。
「そこまでは思ってへん」
「思っとったで」
「ちょっとだけや」
甚助が笑った。
「物作るん、そんな簡単ちゃうやろ」
「知っとるわ!」
「ほなええやん」
何もよくない。
*
榊屋へ戻るころには、日が傾き始めていた。
工房ではまだ仕事が続いており、壁の札もいくつか右へ進んでいる。俺たちが水車を眺めている間にも、二十挺の仕事はちゃんと動いていた。
宗次郎が俺たちを見つけた。
「どうでした?」
「回っとった」
「水車ですからね」
「お前までそれ言うんか!」
「他に何を言えば」
水車を見た記憶が薄れないうちに形へ残しておきたかった。俺は工房の隅に腰を下ろし、紙を広げて筆を取った。
まず水車の輪を描き、そこから軸を伸ばす。大きな輪と小さな輪を置き、二本目の軸に砥石を付ける。頭の中では単純な仕組みなのだが、紙の上へ移そうとすると途端に勝手が悪かった。
線が太い。
もう少し右へ寄せたいと思っても、引いた線は消えない。軸を一本増やしたところで配置が窮屈になり、描き直そうとすれば新しい紙がいる。寸法を書き込めば線と字が重なり、少し考えている間にも筆先の墨が余計なところへ落ちそうになる。
「……やりにくい」
「何がです?」
帳面を持って近くへ来ていた宗次郎が、俺の手元を覗き込んだ。
「これや。描いて考えるのに向いてへん」
「絵を描くなら筆でしょう」
「絵ちゃうねん。考えるために描いとんねん」
宗次郎には違いが分からないらしい。
俺は別の紙を取って、もう一度軸を描いた。今度は少し位置を変え、小さい輪を右へ寄せる。ところが縄を掛けようとすると、今度は砥石の位置が気に入らない。
前世なら鉛筆一本で済んだ。線を引き、消し、描き直し、寸法を書き足す。紙が黒くなるまで試してから、ようやく形を決めればいい。
鉛筆。
そこで手が止まった。
「……そういや、ないな」
「何がです?」
「いや」
この時代に来て六年、今まで困らなかったのが不思議なくらいだった。文字を書くなら筆でいいし、現場の印なら墨や鏨で事足りる。木札へ必要なことを書くだけなら、消せないことも大した問題ではなかった。
だが、設計は違う。
考えている途中の線は、間違える。
むしろ間違えて当然なのだ。
消して、引き直して、また変える。その繰り返しができないのは、思っていた以上に面倒だった。
「炭じゃあかんかな」
「炭?」
「細うしたら線引けるやろ」
「引けますけど、何するんです?」
「ちょっと試す」
宗次郎が何か言う前に、俺は立ち上がって炭を探した。
適当な欠片を拾い、細いところを使って紙へ線を引いてみる。黒い線は出た。筆より気軽で、墨をする必要もない。
悪くない。
そう思ったのは最初だけだった。
細い線を引こうとすれば先が崩れ、指はすぐ黒くなる。少し力を入れると折れ、擦れば線そのものが広がった。簡単な印には使えても、細かな形を描きながら考える道具としては頼りない。
「……違うな」
「何がしたいんです?」
「細い黒い棒でな、紙に線が引けて、筆みたいに墨つけんでよくて、間違えたら擦って薄うできるやつ」
宗次郎がしばらく考えた。
「そんな物あるんですか?」
「ある」
答えてから、少しだけ困った。
正確には、あった。
鉛筆の芯が黒鉛だったことくらいは知っている。木の軸の中へ黒い芯が入っていたことも当然知っているが、俺は鉛筆屋ではない。芯をどう作っていたのか、黒鉛をどう加工していたのかまで説明しろと言われれば怪しい。
ただ、今欲しいのは売り物になる鉛筆ではない。
紙に細い線が引ければいい。
「……善右衛門に聞いてみるか」
「またですか」
「またとは何や」
「兄上、最近何か足りないと善右衛門さんのところへ行きますね」
「物探すん商人の仕事やろ」
「たぶん兄上の欲しい物を探す仕事ではないと思います」
それは本人に聞かなければ分からない。
俺は炭で汚れた指を布で拭き、ひとまず筆へ戻った。使いにくいからといって、水車の仕掛けを考えなくてよくなるわけではない。
何枚か紙を使って、ようやく形らしいものができた。
水車から伸びる軸。
大きな輪と小さな輪。
その間をつなぐ縄。
もう一本の軸。
そして砥石。
描いてみれば、現地で考えていたときより問題がはっきり見えた。軸をどこで支えるのか。縄をどう張るのか。砥石をどう固定するのか。石が偏っていれば高速で回したときに危なくないのか。
作る前から、直したいところがいくつもある。
やはり描く意味はある。
だからこそ、余計に筆が腹立たしい。
「兄上」
「今度はなんや」
「それ、どこで使うんです?」
宗次郎が紙の端を指した。
「どこって、水車のあるとこやろ」
「榊屋にはありませんよ」
「……知っとる」
「水車、ここに作るんですか?」
「どこに水流すねん」
「では、その砥石は?」
俺は紙を見た。
水車が回る。
軸が回る。
砥石が回る。
うまくいけば、鉄も削れるかもしれない。
そこまでは考えた。
だが、その仕掛けを榊屋へ持って帰っても、水車を回す水がない。
「……まず、回してから考えよか」
「順番それでいいんです?」
「ええねん。回らんかったら、置き場所考えても意味ないやろ」
「回ったら?」
「そのとき考える」
「考えること増えてません?」
「増えとるな」
砥石を回したいだけだった。
それなのに水車を調べ、軸を考え、縄を掛けようとし、今度は描く道具まで欲しくなった。そのうえ、完成したところで榊屋では動かせない。
ものを一つ楽に作ろうとすると、そのために必要なものが二つ三つと増えていく。
前世でも、そうだった。
俺は炭で黒くなった指を見てから、描きかけの紙へ視線を戻した。
まずは回す。
鉛筆のことも、少し考える。




